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第128話 水量板の裏に残る印

翌朝、旧水路の前に立ったトマは、昨日より口数が少なかった。


 水量板は、相変わらずそこにある。


 古い木枠。

 黒ずんだ金具。

 水を受け、流れを細く分けるための板。


 村の者にとっては、昔からそこにあるものだった。


 けれど昨日、木枠の隙間から黒い金属粉が見つかった。


 外部命令補助印系反応。


 王都へ運ばれたローゼン侯爵家の金属資料と照合すべき反応。


 つまり、この水量板は、ただ水の量を見るだけの板ではなかった可能性がある。


 トマは腕を組んだまま、水面を見ていた。


「……今日は裏、見るんだよな」


 声は落ち着いているようで、少し硬かった。


 ダリオさんは道具袋を地面に置き、短く頷く。


「見る。ただし、外さない。動かさない。角度も変えない」


「裏を見るのに?」


「鏡と採取針を使う」


「それで見えるのか?」


「見える範囲だけ見る。見えない場所を無理に見ない」


 トマは水量板を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


「それ、ちょっと嫌だな」


「何がだ」


「見えない場所を残すのが」


 ダリオさんは道具を並べる手を止めた。


「分かる」


「分かるのかよ」


「見えないものは怖い。だから全部見たくなる。だが、全部見ようとして壊したら意味がない」


 トマは何も言わなかった。


 ただ、水量板から目を逸らさなかった。


 今日の作業は、村長宅で朝から何度も確認された。


 水量板は外さない。

 水量板は押さない。

 水量板の角度を変えない。

 水流を変えない。

 底泥を乱さない。


 調べるのは、裏面の見える範囲。


 採取するのは、黒色金属粉が確認できた場合のみ、微量。


 中止条件も決まっている。


 水面の濁り。

 黒粒子の浮上。

 青土封じ札の反応低下。

 水量板の揺れ。

 トマが「嫌な感じがする」と言った場合。


 最後の項目を入れたのは、セリアだった。


 トマは最初、嫌がった。


「俺の感覚を中止条件に入れるの、変じゃないか?」


 そう言った彼に、セリアは真顔で返した。


「水量板を一番見てきたのはトマさんです。違和感があるなら記録すべきです」


 それで決まった。


 今、旧水路の周りには、必要な人数だけが集まっている。


 ダリオさん。

 俺。

 トマ。

 セリア。

 リーゼさん。

 ニコル。

 水路班の若者二人。


 村長は中央井戸で全体記録を見ている。


 薬草予定地はハンナとミラが担当。

 子供たちは柵の外で、今日も「触らない、踏まない、騒がない」を守っているらしい。


 ニコルが記録板を開いた。


「作業開始時刻、朝二刻半。旧水量板裏面確認作業。水量板未操作。旧水路下流水、作業前確認」


 俺は採水瓶を受け取り、鑑定する。


《旧水路下流水》

《黒石祠由来残滓:微弱》

《青土封じ札反応:維持》

《水流:安定》

《水量板:未操作》

《黒色金属粉反応:木枠隙間に微弱残存》


「水流安定。青土封じ札反応維持。黒色金属粉反応は昨日の採取後も微弱に残っています」


 ニコルが書く。


 トマがすぐに言った。


「水量板、見た目は動いてない」


「記録します」


 ダリオさんは細い鏡を取り出した。


 昨日使ったものより、さらに小さい。


 細い針金の先に、指の爪ほどの鏡がついている。


 もう一本、採取針。


 先端にわずかな粘着石粉をつけ、金属粉だけを拾うためのもの。


 最後に、板を固定するためではなく、揺れを確認するための細い糸。


 糸の端には、小さな白い羽根が結ばれている。


「羽根?」


 トマが聞く。


「板が微かに動けば、羽根が揺れる」


「板を押さえるんじゃないんだな」


「押さえたら、それ自体が操作になる。今日は見張るだけだ」


 トマは、その言葉に少しだけ安心したようだった。


「分かった」


 水量板の上端近くに、糸を触れさせない位置で垂らす。


 板が動けば、水面の変化と風で羽根が揺れる。


 固定ではない。


 見守りだ。


 リーゼさんは水路の少し上流側に立った。


 残滓影が出た時のためではあるが、今日はそれよりも、人が不用意に近づかないための役目が大きい。


 セリアは青土封じ札の反応を見ていた。


「一枚目、安定。二枚目、少し揺れますが、低下ではありません」


「揺れたら言ってくれ」


「はい」


 作業が始まった。


 ダリオさんが膝をつき、細い鏡を木枠の隙間へゆっくり差し込む。


 水量板には触れない。


 鏡の棒も、板ではなく木枠側を通す。


 ほんの少し角度がずれれば、板へ触れてしまう。


 見ているだけなのに、息が詰まる。


 トマは水量板と羽根を交互に見ていた。


「板、動いてない」


 ニコルが記録する。


 ダリオさんは鏡の角度を変えた。


 反射した光が、木枠の裏側へ入る。


 そこに、黒い筋が見えた。


 粉というより、薄く擦りつけられたような跡。


 水量板の裏面、木枠と接するあたり。


 黒い金属粉が、細い弧を描くように残っている。


 俺は鑑定針を近づけた。


《旧水量板裏面》

《黒色金属粉:微量残存》

《外部命令補助印系反応:あり》

《水流変化検知補助印:残骸》

《本体命令線:未接続》

《危険度:低〜中》

《推奨:微量採取/板未操作維持》


「水流変化検知補助印の残骸です」


 言葉にした瞬間、周囲が静かになった。


 トマがゆっくり振り向く。


「水流変化……ってことは」


 ダリオさんが鏡を動かさずに答えた。


「水量板が動いた時の流れの変化を拾う印だ」


「拾って、どこへ?」


「黒石祠の命令線へ繋げようとした可能性がある」


 トマの顔色が変わった。


 セリアが息を呑む。


 ニコルの筆が一瞬止まり、すぐに動き出す。


「本体命令線は未接続、ですよね」


 ニコルが確認する。


「はい。今は接続していません。残骸です。ただ、過去に連動させようとした痕跡の可能性があります」


 トマは水量板を見た。


 何度も見てきた板。


 触るなと言われて、何度も我慢した板。


 その裏に、水流の変化を黒石祠へ渡すための痕跡があった。


「俺が……」


 声がかすれた。


「俺が前に、動かしてたら」


 ダリオさんが鏡から目を離さずに言った。


「その可能性の話は後だ。今は作業中だ」


 強い声だった。


 冷たいのではない。


 今、トマが崩れれば、水量板から目が離れる。


 だから止めた。


 トマもそれを分かったのだろう。


 唇を噛み、すぐに羽根へ視線を戻した。


「板、動いてない」


 ニコルが記録する。


「水量板、未操作。板揺れなし」


 ダリオさんが採取針を出した。


「採る。量は最小」


「はい」


 俺は鑑定針を引き、採取針の角度を見た。


 セリアが青土封じ札へ手を近づける。


「反応、維持しています」


 リーゼさんが周囲を見る。


「人の接近なし。水路上流、異常なし」


 ダリオさんの採取針が、木枠の隙間へ入る。


 水量板には触れない。


 黒い弧の端へ、針の先が近づく。


 少しだけ、黒い粉が針先についた。


 その瞬間、水面が小さく揺れた。


「揺れ」


 トマが即座に言った。


 ダリオさんは動きを止める。


「板か?」


「板じゃない。水面だけ。羽根、揺れてない」


 俺は水面を鑑定する。


《水面揺れ:微弱》

《原因:採取針接近による反応》

《水量板移動:なし》

《黒石祠命令核反応:微弱上昇》


「命令核反応、微弱上昇。ただし水量板移動なし」


 セリアが青土封じ札を見た。


「札一、揺れ小。札二、維持」


 ダリオさんは採取針をそのままゆっくり引いた。


 水量板には触れない。


 針先の黒色金属粉を小瓶へ入れる。


 封印。


 その瞬間、中枢室と繋がる携帯札が短く光った。


《旧水量板補助印:検出》

《施工時期:黒石祠改変後》

《施工者痕:一部欠落》

《欠落部:照合可能》

《推奨:王都金属資料・水量板採取粉との照合》


 俺は読み上げた。


「旧水量板補助印、検出。施工時期、黒石祠改変後。施工者痕、一部欠落。欠落部、照合可能」


 ニコルが慌てて記録する。


 トマは、水量板から目を逸らさない。


「欠落部って、昨日の王都の金属板と照合できるってことか」


「可能性があります」


 俺は答えた。


「金属板の削られた工房印と、水量板裏の欠けた施工者痕。両方を照合すれば、同じ系統か分かるかもしれません」


 ダリオさんが採取瓶を封印袋に入れた。


「今日はここまでだ」


「え、裏の残りは?」


 水路班の若者が聞く。


 トマが先に言った。


「今日はここまで」


 若者が驚いた顔をする。


 トマは水量板を見たまま続けた。


「反応が上がった。採れた。記録できた。これ以上やると、欲張りになる」


 ダリオさんは少しだけ笑った。


「その通り」


 セリアも頷く。


「青土封じ札も、少し揺れました。今日は休ませた方がいいと思います」


 リーゼさんが言う。


「撤収だな」


 作業は終了した。


 水量板は一度も動かなかった。


 板の角度も変わっていない。


 水流も変わっていない。


 それでも、裏面の黒色金属粉を採取し、水流変化検知補助印の残骸を確認した。


 水路から戻る途中、トマはずっと黙っていた。


 村の広場が見えてきた頃、ようやく口を開いた。


「なあ」


「はい」


 俺が答えると、彼は足元を見ながら言った。


「俺が本当に触ってたら、どうなってたと思う?」


 責めてほしいわけではない。


 安心させてほしいだけでもない。


 ただ、聞かずにはいられないのだろう。


 ダリオさんが後ろから答えた。


「分からん」


 トマが振り返る。


「分からんって」


「本当に分からん。反応が強まったかもしれない。何も起きなかったかもしれない。今さら確かめようもない」


「……だよな」


「ただ、一つ分かってる」


 ダリオさんは封印袋を軽く持ち上げた。


「お前が触らなかったから、今日、動かさずに採れた。板の角度が変わっていないから、裏の痕跡が残っていた可能性が高い」


 トマは黙った。


 ダリオさんは続ける。


「触らなかったことは、ただの我慢じゃなかった。証拠を残したんだ」


 トマは水量板のある方を振り返った。


 少し長く見つめていた。


 それから、鼻をこすった。


「……そういうことにしとく」


「そういうことだ」


 セリアが静かに言った。


「触らなかった記録も、守った記録ですね」


 トマは照れたように笑った。


「最近、俺の記録、触ってないばっかりだな」


 ニコルが真面目に答える。


「とても重要です」


「真顔で言われると、何かむずがゆいな」


 村長宅へ戻ると、採取瓶はすぐ封印箱へ入れられた。


 村長は報告を聞き、ゆっくり頷いた。


「水量板を動かさずに、裏面の印を確認。よい」


 ニコルがまとめを読み上げる。


「旧水量板裏面に、黒色金属粉を確認。外部命令補助印系反応あり。水流変化検知補助印の残骸。施工時期は黒石祠改変後。施工者痕は一部欠落。王都金属資料との照合推奨」


 村長は少し目を細めた。


「施工時期が黒石祠改変後、か」


「はい」


 俺は答えた。


「つまり、水量板の補助印は、元々の水路設備ではなく、黒石祠が改変された後に追加された可能性があります」


 ダリオさんが言う。


「誰かが、村の水量操作と黒石祠の命令を繋げようとした」


 広間が静かになる。


 それは、ただの古代設備事故ではない。


 人の手が入っている。


 水土見守り基点を利用し、黒石祠を命令装置へ変え、さらに水量板へ補助印を仕込む。


 そこには、明確な意図がある。


 ニコルが小さく言った。


「王都の金属板と、水量板の印が繋がれば……」


「ローゼン侯爵家、あるいは旧水脈事業の工房印へ近づく」


 俺は答えた。


 村長は即座に指示した。


「王都へ送る。採取粉そのものは送らぬ。まず反応写しと記録じゃ。原物は村に残せ」


「はい」


 ニコルが紙を用意する。


 トマが少し驚いた。


「採ったやつ、送らないのか?」


 ダリオさんが答える。


「王都の金属板みたいに、途中で何か起きても困る。まず写し。原物はこっちで封印保管。必要なら王都側が正式封印便を出す」


「なるほど」


「記録は分ける。原物は守る」


 ニコルが頷く。


「分散保管ですね」


 夕方、王都への報告書が作られた。


『旧水量板裏面確認報告。

水量板は未操作。板角度変更なし。水流変化なし。

裏面木枠接触部に黒色金属粉を確認。採取量は微量。

鑑定結果:外部命令補助印系反応あり。水流変化検知補助印の残骸と推定。

施工時期:黒石祠改変後。施工者痕:一部欠落。

欠落部は、王都封印金属資料裏面の削除刻印および旧水脈事業工房印との照合可能性あり。

採取原物はリベル村で反応遮断封印保管。反応写しを添付』


 ニコルは最後に、何度も確認してから封をした。


 トマはその横で、水量板未操作の記述が入っているか見ていた。


「三回書いてあるな」


「はい」


「よし」


 その夜、俺は地下工房で個人記録を書いた。


『旧水量板裏面確認作業を実施。

水量板は外さず、動かさず、角度を変えず、細鏡と採取針で裏面を確認。

黒色金属粉を微量採取。鑑定により、水流変化検知補助印の残骸と推定。外部命令補助印系反応あり。

施工時期は黒石祠改変後。施工者痕は一部欠落。王都金属資料との照合可能性。

作業中、命令核反応が微弱上昇したため、追加採取は行わず撤収。

トマは終始水量板を見張り、未操作を維持』


 筆を止める。


 水量板。


 ただの板だと思っていたもの。


 トマが触りたいのを我慢し続けたもの。


 その裏に、人の手で仕込まれた痕跡があった。


 俺は最後に書いた。


『水量板は、ただの水量板ではなかった。

水の変化を拾い、黒石祠の命令へ渡すための補助印が仕込まれていた可能性がある。

もし動かしていたら、何が起きたかは分からない。

けれど、動かさなかったから、痕跡は残った。

触らないことが、証拠を守った。

次は、この欠けた施工者痕が、王都の金属板と繋がるかを待つ。』


 地上では、水車が回っている。


 その音は昨日と変わらない。


 けれど、その水の流れを誰かが命令に変えようとした痕跡が、今日、初めて見つかった。


 黒石祠の問題は、ますます古代施設の事故ではなく、人の手による改変の疑いを濃くしていた。

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