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第127話 旧水路、二度目の封印掃除

翌朝の旧水路は、いつもより静かだった。


 水の流れる音はある。

 石の隙間を抜ける細い音も、苔の下を滑る湿った音も、変わらず聞こえている。


 けれど、そこに立つ人間の方が静かだった。


 トマは水量板の前に立ち、腕を組んでいた。


 いつものように「触らない」と声に出してはいない。


 言わなくても、もう分かっている。


 いや、言わない方が重かった。


 水量板は、古びた木と金具でできた板だ。水路の流れを細かく調整するためのものだが、黒石祠の一件以来、リベル村では誰も動かしていない。


 最初はただの注意だった。


 水を乱さないため。

 底泥を巻き上げないため。

 黒い粒子を広げないため。


 けれど昨日の核影調査で、話は変わった。


 黒石祠の残存命令核が、次の反応先を探している。


 その候補の一つが、旧水路残滓。


 つまり、この水路に残る黒い粒子は、ただの汚れではない。


 放っておけば、黒石祠が再び命令の糸を伸ばす先になるかもしれないものだった。


 トマは水面を見下ろし、低く言った。


「今日は、掃除じゃないんだよな」


 ダリオさんが隣で道具袋を開きながら答えた。


「掃除だけなら、黒い粒を取ればいい。でも今日は、残った粒がまた水へ戻らないようにする」


「落ち着かせる」


「そうだ」


 セリアが小さな木箱を抱えてやって来た。


 中には、昨日作った青土封じ札が入っている。


 薄い布に、薬草予定地の土と中央井戸水をほんの少し含ませ、弱い浄化印を端に置いたものだ。


 札というより、湿った布片に近い。


 強い力はない。


 見た目だけなら、頼りない。


 だが、リベル村はもう知っている。


 強ければいいわけではない。


 強く閉じれば水が乱れる。

 強く浄化すれば土が傷む。

 強く斬れば命令線が暴れる。


 必要なのは、強さではなく、ちょうどよさだった。


「青土封じ札、三枚です」


 セリアは木箱を開けた。


「一枚目は石の隙間用。二枚目は底泥の縁用。三枚目は予備です。どれも、残滓を消すためではありません。水流へ戻りにくくするためのものです」


 トマが札を覗き込む。


「これ、ほんとに効くのか?」


「分かりません」


 セリアは正直に答えた。


「だから、試しながら置きます。少しでも水が濁ったら止めます」


「分からないって言えるの、最近すごいよな」


「リベル村で覚えました」


 その言葉に、ダリオさんが少し笑った。


「悪い村だな。聖女に分からないと言わせる」


「でも、前より楽です」


 セリアはそう言って、水路脇にしゃがんだ。


 リーゼさんは少し離れた場所に立っている。


 今日は森ではない。

 だが、護衛は必要だった。


 黒石祠が旧水路残滓へ反応する可能性がある以上、残滓影のようなものが出ないとは言い切れない。


 リーゼさんは剣を帯びている。


 けれど、抜くためではない。

 通さないためだ。


 ニコルは記録板を抱え、採水地点の横に立った。


「作業開始時刻、朝二刻。旧水路下流、二度目の残滓封じ作業。参加者、レオン、ダリオ、セリア、リーゼ、トマ、水路班若者二名、記録ニコル」


 トマが口を挟む。


「水量板、未操作」


「まだ始まっていません」


「最初に書いといてくれ」


 ニコルは少し笑った。


「分かりました。作業開始時、水量板未操作」


「よし」


 それだけで、トマは少し落ち着いたようだった。


 俺は旧水路の水を小瓶に採り、鑑定する。


《旧水路下流水》

《黒石祠由来残滓:微弱》

《前回比較:低下》

《残存命令核反応先候補:微弱》

《作業注意:底泥攪拌不可》


「黒石祠由来残滓は微弱。ただし、残存命令核の反応先候補として微弱に出ています。底泥攪拌不可」


 ニコルがそのまま記録する。


 ダリオさんは細い採取針を取り出した。


 前回よりも、さらに細い。


 黒い粒子を掬い取るためというより、粒子の位置を確認するための針だった。


「今日は石を動かさない。泥も掘らない。表面に出ている黒い粒と、石の隙間の入口だけ見る」


 水路班の若者の一人が、緊張した顔で頷く。


「奥に残っていたらどうしますか」


「残っていても、無理に取らない」


「でも、残したら危ないんじゃ」


 若者は不安そうだった。


 その気持ちは分かる。


 危ないものが見えたら、取り除きたくなる。

 黒い粒があるなら、全部取った方が安心に見える。


 だが、トマが先に口を開いた。


「石を動かしたくなるのは分かる」


 若者がトマを見る。


 トマは少し恥ずかしそうに鼻をこすった。


「俺も前にやりかけた。石どけた方が早いって思った。でも、動かしたら水が濁る。底の泥まで巻き上がる。そうなったら、黒いやつが広がる」


「……はい」


「だから今日は、奥のやつを無理に出すんじゃなくて、戻ってこないように落ち着かせる。たぶん、そっちの方が大事だ」


 ダリオさんが小さく頷いた。


「その通りだ」


 トマは驚いたように振り返る。


「今の、合ってた?」


「かなりな」


「おお……」


「そこで驚くな」


 少しだけ笑いが起きた。


 緊張がほぐれたところで、作業が始まった。


 まず、現状採水。


 水面に浮かぶ黒い粒子は少ない。


 ただ、石の陰に沈んでいるものがある。前回の掃除で取りきれなかったものだ。


 ダリオさんは水流を読んだ。


「この石の手前。ここに溜まる。流れが弱くて、戻る時に粒が浮きやすい」


 セリアが青土封じ札の一枚目を取り出す。


「ここへ置きますか」


「直接水流に当てるな。石の影、半分だけ」


「はい」


 トマが若者へ指示する。


「手元、ゆっくり。水に突っ込むな。置く場所だけ開ける」


「はい」


 若者は木の細棒で、水面の小枝だけをそっと退ける。


 石は動かさない。


 底泥も触らない。


 セリアが札を細い竹挟みで持ち、水面へ近づけた。


 札が水に触れる。


 薄い青が、ほんの少しだけ広がった。


 強い光ではない。


 水面に朝の空が映ったような色だった。


 黒い粒子は消えない。


 だが、ふわりと浮きかけていた粒が、石の陰へゆっくり沈んだ。


 ニコルが身を乗り出す。


「黒粒子、沈静。水濁りなし」


 俺も鑑定する。


《青土封じ札一》

《残滓沈静:微効》

《水流阻害:なし》

《底泥攪拌:なし》

《継続観察推奨》


「微効。水流阻害なし。続行できます」


 セリアは息を吐いた。


「よかった……」


 トマが小さく拳を握る。


「効いたな。ちょっとだけ」


「ちょっとだけが大事なんです」


 セリアが言うと、トマは頷いた。


「最近、それ分かってきた」


 二枚目の札は、底泥の縁へ置く。


 ここが難しかった。


 黒い粒子が少し集まっているが、直接触れると泥が濁る。


 若者の一人が細棒を近づけかける。


 トマがすぐ止めた。


「そこ、触るな」


「でも、少し開けないと」


「開けたくなる場所ほど触るな。ダリオさん、別角度ありますか」


 ダリオさんは水路の反対側へ回り、膝をついた。


「こっちからなら、札を流れに乗せられる。置くんじゃなくて、滑らせる」


「流すんですか?」


 セリアが聞く。


「流すが、手放さない。糸をつける」


 青土封じ札に細い糸を結ぶ。


 セリアが札を水面に置き、トマが糸を持つ。


「俺?」


「手元が軽い方がいい」


 ダリオさんが言う。


「力を入れるな。引っ張るな。水に運ばせろ」


 トマは真剣な顔になった。


「分かった」


 札が流れに乗る。


 ゆっくり。

 本当にゆっくり。


 水路の細い流れに押され、石の影へ近づいていく。


 トマは糸を握る手に力を入れないよう、肩を落とした。


 リーゼさんが見ている。


 ニコルが記録している。


 セリアが息を止めそうになり、慌てて吐いている。


 札が底泥の縁に触れた。


 青い色が、少しだけ泥の表面をなぞる。


 黒い粒子が一瞬浮きかけた。


 トマの手が動きそうになる。


「引くな」


 ダリオさんの声が飛ぶ。


 トマは歯を食いしばった。


 糸は動かさない。


 札はその場で揺れ、やがて泥の縁に静かに寄り添った。


 黒い粒子は水面へ上がらず、泥の表面に落ち着いた。


 ニコルが読み上げる。


「二枚目、設置。濁り、微弱。黒粒子浮上なし。水流変化なし」


 俺は鑑定する。


《青土封じ札二》

《底泥縁残滓:沈静》

《水流阻害:なし》

《黒石祠残存命令核反応:微弱低下》


「残存命令核反応、微弱低下」


 その瞬間、全員が水面を見た。


 何か派手な変化が起きたわけではない。


 水は、ただ流れている。


 でも、携帯札の表示は確かに反応していた。


 旧水路残滓が、命令核の反応先候補として少し弱まった。


 トマは糸を持ったまま、ぽつりと言った。


「……触らないで、できた」


 ダリオさんが頷く。


「ああ」


「動かさないで、できた」


「そうだ」


 トマは少しだけ笑った。


「これ、結構すごくないか」


「かなりすごい」


 今度は、ダリオさんも素直に言った。


 作業はここで終わるはずだった。


 青土封じ札二枚を置き、残滓反応が下がった。

 水量板は未操作。

 水流も変えていない。


 十分な成果だ。


 村長の方針なら、ここで止める。


 だが、トマが水量板を見た。


「……水量板の周り、見るんだよな」


 広場が少し静かになる。


 いや、ここは広場ではない。


 旧水路下流だ。


 けれど、空気は広場の会議みたいに重くなった。


 ダリオさんは頷く。


「見る。だが今日は、表面と隙間だけだ。動かさない。外さない。裏はまだ見ない」


「裏は見ない?」


「今日はな」


 トマは水量板の前に立った。


 水量板は、いつも通り水を受けている。


 何も変わらない木の板。


 だが、昨日からそれがただの板には見えなくなっている。


 黒石祠が反応先を探している。

 旧水路残滓が候補に入っている。

 そして水量板は、水の変化を拾う場所にある。


 ダリオさんは細い鏡を出した。


 棒の先に小さな鏡をつけたものだ。


「隙間を見る。触れるのは鏡だけ。板は押さない」


 トマが言った。


「俺、板を見てる」


「頼む」


「動いたら?」


「すぐ言え」


 ダリオさんが鏡を差し込む。


 水量板の横、木枠との隙間。


 光が入りにくい。


 ニコルが反射板を持って光を送る。


 水面の反射が揺れ、細い隙間が一瞬だけ見えた。


 ダリオさんの眉が動く。


「……何かある」


 トマの顔が強張る。


「黒いやつ?」


「粒じゃない。粉か、金属の錆か」


 俺は鑑定針を近づける。


 直接触れない。


 水量板の隙間にある、黒い金属粉のようなものへ意識を向ける。


《旧水量板木枠隙間》

《黒色金属粉:微量》

《黒石祠命令核系反応:極微弱》

《外部命令補助印系反応:類似》

《採取推奨:少量》

《操作注意:水量板固定維持》


 背筋が冷えた。


 黒い粒子だけではない。


 水量板の木枠の隙間に、外部命令補助印系に似た反応を持つ黒色金属粉がある。


 ダリオさんが低く言った。


「見つかったな」


 トマは水量板を見たまま、声を落とした。


「これ……もし俺が前に水量板を動かしてたら?」


 誰もすぐ答えなかった。


 答えなくても、全員が同じことを考えた。


 金属粉が水量板の動きに反応するものだったなら。

 黒石祠の命令核が、それを拾っていたなら。

 水量板を動かすことで、命令線が強まっていた可能性がある。


 トマの顔から血の気が引いていく。


 ダリオさんが、彼の肩へ手を置いた。


「触らなかった」


「でも、触りかけた」


「止まった」


「もし、止まってなかったら」


「止まったんだ」


 ダリオさんの声は強かった。


「そこを間違えるな。危ないことをしなかった記録は、危なかったかもしれない想像より強い」


 トマは唇を噛んだ。


 しばらく水面を見つめていた。


 それから、小さく頷いた。


「……分かった。今も触らない」


「ああ」


「見る。記録する。採るなら、板を動かさずに採る」


「それでいい」


 今日は採取しない判断もあった。


 だが、黒色金属粉が見つかった以上、少量だけでも採る必要がある。


 採取方法は慎重に決めた。


 水量板は固定したまま。

 木枠の隙間に、細い粘着針を差し込む。

 板へ触れない角度を保つ。

 採った粉は小瓶へ入れ、封印。


 作業者はダリオさん。


 トマは板の見張り。


 俺は鑑定。


 ニコルは記録。


 リーゼさんは周囲警戒。


 セリアは青土封じ札の反応を見守る。


 粘着針が、隙間へ入る。


 水面がわずかに揺れる。


 トマが即座に言う。


「板、動いてない」


 ダリオさんが針を引く。


 針先に、黒い粉がほんの少し付いていた。


 それを小瓶へ入れる。


 すぐに封をする。


 俺は鑑定する。


《黒色金属粉・旧水量板隙間採取》

《外部命令補助印系反応:微弱》

《黒石祠命令核反応:類似》

《王都封印金属資料との照合推奨》

《危険度:低》

《保管:反応遮断推奨》


「王都封印金属資料との照合推奨」


 ニコルが、はっきりと記録した。


 トマは水量板の前に立ったまま、深く息を吐いた。


「見つけたんだよな」


「はい」


 俺は答えた。


「水量板を動かさずに、見つけました」


 その言葉に、トマは少しだけ目を閉じた。


 セリアが静かに言う。


「触らなかったから、今日見つけられたんですね」


 トマは照れたように、でも少し泣きそうな顔で笑った。


「そういうことにしとく」


 ダリオさんが言った。


「そういうことなんだよ」


 作業はそこで終了した。


 青土封じ札二枚は設置済み。

 旧水路残滓は沈静。

 水量板は未操作。

 木枠隙間から黒色金属粉を微量採取。

 水流変化なし。

 中央井戸、薬草予定地への悪化なし。


 村へ戻ると、村長が報告を聞き、静かに頷いた。


「よい。今日はそこで止める」


 トマが聞く。


「裏は?」


「明日以降じゃ。今日の作業で水路は揺れておる。欲張るな」


「はい」


 即答だった。


 以前のトマなら、もう少し食い下がったかもしれない。


 今は違う。


 止まることも、仕事だと分かってきている。


 夕方、王都へ追加報告を作成した。


『旧水路下流二度目の封印掃除報告。

青土封じ札二枚を設置。残滓沈静を確認。水流阻害なし。

旧水量板木枠隙間より、外部命令補助印系反応に類似する黒色金属粉を微量採取。水量板は未操作。板角度変更なし。

採取粉は反応遮断瓶へ封印。王都封印金属資料との照合を推奨』


 ニコルは書き終えると、トマに確認した。


「水量板未操作、三か所に書いてあります」


「ありがとう。助かる」


「大事なので」


「大事だな」


 二人が普通にそう言い合っているのを見て、ダリオさんが少し笑った。


 夜、俺は地下工房で個人記録を書いた。


『旧水路下流、二度目の封印掃除を実施。

目的は掃除ではなく、残滓沈静と再反応防止。

セリアの青土封じ札を二枚設置。黒石祠由来残滓は微弱沈静。残存命令核反応先候補としての反応も微弱低下。

水量板は終始未操作。

水量板木枠隙間に、黒色金属粉を確認。採取した粉は、外部命令補助印系反応に類似。王都封印金属資料との照合推奨。

トマは作業中、水量板を見張り続けた。過去に触りかけたことを恐れたが、ダリオが“止まったことが記録だ”と言った』


 最後に書く。


『触らなかったから、見つけられたものがある。

水量板は、ただの板ではなかったかもしれない。

だが、それを動かさずに見た。

今日は、動かさないことが作業になった日だった。

旧水路は、少し落ち着いた。

けれど、水量板の裏には、まだ何かが残っている可能性がある。』


 地上では、水車が回っている。


 その音はいつも通りだ。


 けれど今日から、旧水路の水量板はただの注意箇所ではなく、黒石祠と外部命令補助印を繋ぐかもしれない証拠になった。


 次に見るのは、裏側。


 ただし、動かさずに。

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