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第121話 王都の目が井戸を覗く

王都の馬車が見えたのは、朝の二度目の鐘が鳴る少し前だった。


 リベル村の入口へ続く道に、三台の馬車がゆっくり近づいてくる。


 先頭は行政庁の紋章を掲げた馬車。

 二台目は防衛局。

 三台目は、紋を布で隠しているが、車輪や金具の仕立てが明らかに貴族家のものだった。


 ローゼン侯爵家側の人間も来た。


 広場にいた村人たちの間に、静かな緊張が走る。


 けれど、誰も騒がなかった。


 中央井戸の水温は、すでに記録済み。

 旧水路下流の採水瓶も並べてある。

 薬草予定地の柵も確認済み。

 証言者控室には、ハルマ村の井戸番、若い母親、北沢集落の井戸番、ミード村の孫娘がいる。


 リベル村は、準備していた。


 完璧に見せるためではない。


 見られても、隠す必要がないように。


 馬車が止まる。


 最初に降りてきたのは、行政庁の中年女性だった。


 灰色の外套。

 派手さのない髪留め。

 表情は硬いが、嫌な感じはしない。


「王都行政庁監査官、マリナ・クレイスです」


 彼女は村長へ丁寧に頭を下げた。


 続いて、防衛局の男が降りる。


「防衛局現地安全担当、ガルド・レイム」


 背が高く、あまり喋らなさそうな男だった。


 三人目は、技師組合外部監査部の女性。


「外部監査技師、エルナ・フォス。技師組合本部ではなく、監査部所属です」


 彼女はそう言ってから、ダリオさんを見た。


 ダリオさんは少しだけ目を細める。


「エルナか」


「久しぶりね、ダリオ。除名されても顔色は悪くないようで何より」


「そっちも相変わらず口が悪い」


「監査向きでしょう」


 トマが小声で俺に聞いた。


「良い知り合い?」


「たぶん、嫌な知り合いではなさそうです」


 俺が答えると、ダリオさんが横から言った。


「油断はするな。まともな奴ほど、見るところは見る」


 最後に、三台目の馬車から男が降りた。


 先日来た、ローゼン侯爵家代理書記官バルク・エイマー。


 今日も礼儀正しい笑みを浮かべている。


「リベル村の皆様、本日は正式な立会いとして参りました」


 セリアの表情が少しだけ硬くなる。


 リーゼさんは、証言者控室へ続く廊下の前に立っていた。


 剣には触れていない。


 だが、彼女がそこに立っているだけで、線が引かれている。


 村長は杖を鳴らした。


「ようこそ、リベル村へ。まず確認しておく。黒石祠本体への接触は認めぬ。森の奥への立ち入りも認めぬ。地下工房への入室は、行政庁、防衛局、外部監査技師の三名まで。侯爵家代理人は記録写しで確認してもらう」


 バルクは笑みを崩さなかった。


「安全上の制限として承ります」


 マリナ監査官は、すぐに書記へ合図した。


「制限事項、確認。現地安全責任者の判断として記録します」


 ニコルがこちら側の記録机で、同じ内容を書き取る。


 向こうも書く。

 こちらも書く。


 その音が、広場に小さく響いた。


 最初の確認場所は、中央井戸だった。


 井戸の周りには、余計な飾りはない。


 いつもの桶。

 いつもの水温札。

 毎朝の記録板。


 王都の三名が井戸へ近づく。


 侯爵家のバルクも一歩進もうとしたが、リーゼさんが半歩だけ横へ出た。


「井戸の縁へ近づく人数を制限する」


「私は見るだけですが」


「見るだけでも人数が増えれば水面が乱れる」


 バルクは一瞬だけ笑みを固くした。


 マリナ監査官が言う。


「侯爵家代理人は一歩後方で。水面確認は行政庁、防衛局、外部監査技師が行います」


「承知しました」


 バルクは引いた。


 トマが小さく息を吐く。


 俺は中央井戸の記録板を開いた。


「これが、同期解除前後の中央井戸記録です。水温、濁り、匂い、水量、青反応を朝昼夕で記録しています」


 マリナ監査官は、まず水面を見た。


 それから記録板を見る。


 順番が良かった。


 紙だけで判断しない人だ。


「現在の水を採っても?」


「はい。ただし、こちらの手順で採水します」


 村長が頷くと、ニコルが清潔な小瓶を出した。


 採水者、時刻、場所を読み上げる。


「王都現地確認日、朝二刻半。リベル村中央井戸。採水者、ニコル。立会い、行政庁監査官マリナ、外部監査技師エルナ、防衛局ガルド、リベル村長、レオン」


 エルナ監査技師が少し笑った。


「丁寧ね」


 ニコルは緊張しながら答える。


「後で分からなくならないようにしています」


「良い答え」


 彼女は水を光に透かした。


「濁りは見えない。匂いは?」


 ガルドが確認する。


「異臭なし」


 マリナが記録する。


「中央井戸、現時点で異常なし」


 その言葉で、村人たちの肩がわずかに下がった。


 だが、本番はここからだった。


 ハルマ村の証言者を呼ぶ。


 リーゼさんが控室へ向かい、井戸番の老人と若い母親を連れてきた。


 若い母親は少し青い顔をしている。


 セリアがそっと隣に立った。


 マリナ監査官は、その様子を見てから声をやわらげた。


「無理に難しい言葉で話す必要はありません。見たこと、感じたことを話してください」


 これは、少し意外だった。


 若い母親は小さく頷いた。


 まず、ハルマ村の井戸番が記録板を開いた。


「ハルマ村の井戸は、最初に少し濁りました。うちの村では、水が濁ると皆が不安になります。リベル村から記録の取り方を教わり、朝と夕方に見ました。濁りは増えませんでした。水土見守り基点の作業後は、むしろ澄みました」


 マリナ監査官が尋ねる。


「その記録は、あなた自身が書いたものですか」


「そうです」


「リベル村の者が内容を指定しましたか」


「時刻と見る項目は教わりました。だが、濁ったか澄んだかは、わしが見て書きました」


 ニコルが、こちらの原文記録にそのまま書く。


 次に、若い母親。


 彼女は一度、息を吸った。


「私は、最初リベル村を疑いました」


 広場が少し静かになる。


 バルクの目が、わずかに動いた。


 けれど、彼女は続けた。


「子供に飲ませる水だったので、怖かったんです。行商人から、リベル村が危ないものを触っていると聞きました。それなら、うちの井戸が悪くなったのもリベル村のせいかもしれないと思いました」


 トマは黙って聞いている。


 拳は握っていない。


「でも、リベル村の人たちは怒鳴りませんでした。井戸を見て、記録を見せてくれました。私には古代施設のことは全部分かりません。でも、分からないことを噂だけで決めるのは怖いと思いました」


 マリナ監査官は静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 そこで、バルクが口を開いた。


「つまり、あなたは一度、リベル村の作業が原因だと感じた。そう理解してよろしいですか?」


 若い母親の表情が固まる。


 セリアが一歩前に出た。


「証言保護手順に基づき、確認します。その質問は、証言者の“不安”を“原因判断”へ置き換えています」


 ニコルが即座に記録する。


『侯爵家代理人、証言者の不安を原因判断へ置換する質問。セリア、誘導可能性を指摘』


 バルクの笑みが少し薄くなる。


「私は確認を――」


 マリナ監査官が遮った。


「質問は行政庁を通す取り決めです。侯爵家代理人は直接質問を控えてください」


「承知しました」


 バルクは一礼した。


 若い母親は震えた声で、それでも言った。


「原因だと知っていたわけではありません。不安になりました」


 セリアが静かに頷く。


「はい」


 その一言で、彼女は倒れずに立っていられた。


 マリナ監査官は、自分の記録係に向かって言った。


「証言修正ではなく、証言者の意図確認として記録。不安と原因断定は区別する」


 エルナ監査技師が、ちらりとバルクを見た。


「いい確認ですね」


 バルクは笑みを保ったまま、何も言わなかった。


 次に旧水路下流へ向かう。


 リベル村の中を、王都の者たちと周辺村の証言者が歩く。


 移動距離は短い。


 中央井戸から旧水路下流までは、村の広場を抜け、緩い坂を下って数分ほど。慌てる必要はない。


 トマが案内役として先頭に立った。


 彼は何度も練習した言葉を、少しだけ硬い声で言った。


「ここが旧水路下流です。黒石祠由来と思われる黒い粒子が溜まっていました。俺たちは、流れを変えずに採りました。水量板は触ってません」


 エルナが水路を覗き込む。


「水量板は、あれ?」


「はい」


 トマは指差す。


「動かしてません。記録もあります」


「なぜ動かさなかったの?」


「専門家じゃないからです」


 トマは即答した。


 ダリオさんが少しだけ笑った。


 トマは続ける。


「俺は水路操作の専門家じゃありません。だから勝手に触らない。ダリオさんの指示で、黒い粒子だけを採って、場所と時刻を書きました。俺がしたのは操作じゃなくて、採取と記録です」


 エルナは少し目を細めた。


 それから、素直に頷いた。


「良い判断です」


 トマの顔が、分かりやすく明るくなった。


 だが、すぐに引き締める。


「ありがとうございます」


 バルクがまた口を開きかけた。


 今度は、マリナ監査官が先に視線を向ける。


「質問は私を通してください」


「……承知しております」


 トマはそのやり取りを見て、少しだけ胸を張った。


 旧水路下流の採取瓶を見せる。


 清掃前。

 清掃後。

 同期解除後。


 黒い粒子の量が、目に見えて減っている。


 エルナは瓶を順に見て、低く言った。


「これは分かりやすい」


 ダリオさんが答える。


「王都の測定器ほど正確じゃないが、現地の変化は見える」


「十分です。むしろ、測定器だけでは拾いにくい流れがあります」


 その言葉に、ダリオさんは少しだけ驚いた顔をした。


「監査部にしてはまともなことを言う」


「あなたが組合にいた頃より、少しは学んだの」


「それは朗報だ」


 次は薬草予定地。


 広場へ戻り、柵の外へ案内する。


 ここでは、セリアが説明役だ。


 小さな傷洗い草の芽は、今日も倒れていない。

 葉はまだ小さいが、土の湿りは安定している。


 セリアは柵の前に立った。


「ここは薬草予定地です。水土見守り基点の本来導線を支えた場所でもあります。ただし、芽そのものに無理をさせるつもりはありません。触らず、踏まず、騒がず、土の湿りを記録しています」


 ミード村の孫娘が、止血草の絵を広げる。


「こちらはミード村の止血草です。祖母が描きました。水土見守り基点の同期解除前は葉が丸まり、作業後は丸まりが止まりました」


 エルナが絵を見る。


「図鑑ではないわね」


 孫娘は少し緊張したが、練習通り答えた。


「はい。祖母は王都の植物画家ではありません。でも、毎日同じ止血草を見て描きました」


 セリアが続ける。


「薬草を見る人の記録として、重要だと考えています」


 バルクが静かに言った。


「絵は主観的なものでは?」


 今回は、マリナ監査官を通した質問だった。


 孫娘は木箱の内側の紙を見せた。


『葉を見なさい。言い訳はあと』


 広場に、一瞬だけ沈黙が落ちる。


 エルナが噴き出しそうになって咳払いした。


 孫娘は真面目な顔で言った。


「祖母の言葉です。絵が足りなければ、ミード村の薬草畑を見てください。祖母はそう言うと思います」


 マリナ監査官は、書記に言った。


「薬草係署名入り証言および葉の経日絵。主観性はあるが、同一観察者による継続記録として扱う」


 セリアは、ほっと息を吐いた。


 ここまでは、崩れていない。


 井戸。

 水路。

 薬草予定地。


 リベル村がまず見せたかったものは、王都の目に届き始めている。


 だが、広場へ戻った時、バルクが静かに言った。


「現地の水と土の記録については、よく分かりました。ですが、問題は水土見守り基点とやらが、本当に黒石祠の一部ではなかったのか、という点ではありませんか?」


 空気が変わった。


 ここからが、本当の照会事項だ。


 水や土ではなく、古代施設の判断。


 バルクは礼儀正しく微笑んでいる。


「その確認のためには、やはり現物の確認が必要では?」


 リーゼさんが一歩前へ出た。


「水土見守り基点への立ち入りは、本日認めない」


「安全上、ですか」


「そうだ」


「しかし、現物を見ずに判断するのは――」


 その時、エルナ監査技師が口を開いた。


「現物を見たい気持ちは分かります」


 バルクが彼女を見る。


 エルナは淡々と言った。


「ですが、黒石祠本体が未解除である以上、現地設備への接近は技術的にも危険です。まず中枢室記録、遮断札破片、本来名解析記録を見るのが順当でしょう」


 マリナ監査官も頷いた。


「予定通り、次は記録確認に移ります」


 バルクは笑みを保ったまま、一礼した。


「承知しました」


 だが、その目は笑っていなかった。


 次は地下工房。


 ただし、入れるのは三名まで。


 行政庁のマリナ。

 防衛局のガルド。

 外部監査技師のエルナ。


 侯爵家代理人バルクは、広間で写しを見る。


 その線は譲らない。


 村長が言った。


「ここから先は、最初に決めた通りじゃ」


 バルクは一瞬だけ、地下工房へ続く扉を見た。


 だが、すぐに微笑んだ。


「もちろんです。写しを拝見いたします」


 ニコルは記録した。


『侯爵家代理人、水土見守り基点現物確認を示唆。現地安全制限により不可。外部監査技師、段階的確認を支持』


 その筆の音が、妙に頼もしかった。


 地下工房の扉が開く。


 中枢室の青白い光と、外側に残る黒紫の揺れ。


 王都の目が、いよいよそこへ向かう。


 公開確認は、まだ半分も終わっていない。


 だが、最初の井戸端は越えた。


 水は澄み、土は語り、証言者の声は折れていない。

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