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第120話 記録を封じる夜

現地公開確認まで、あと一日。


 リベル村は、朝から妙に落ち着いていた。


 落ち着いている、というよりも、騒ぎ方を忘れたような静けさだった。


 中央井戸ではニコルがいつも通り水温を測り、村長が水面を見ている。旧水路下流ではトマが採水瓶を並べ、若者たちに「水量板は触らない」と復唱させていた。


 薬草予定地では、セリアが土の湿りを確認している。ミード村から来た孫娘がその横にしゃがみ、止血草の絵と傷洗い草の芽を見比べていた。


「葉の開き方が違いますね」


「はい。種類が違うので、見方も少し違います。でも、無理をしている葉かどうかは、なんとなく分かります」


 セリアがそう言うと、孫娘は真面目に頷いた。


「祖母も同じことを言います。葉は、言い訳しないって」


「いい言葉ですね」


「祖母の言葉は、だいたい短くて怖いです」


 セリアは小さく笑った。


 その笑いが、今朝はありがたかった。


 明日、王都行政庁、防衛局、技師組合外部監査部の確認班が来る。


 さらに、ローゼン侯爵家代理人の同席も、条件付きで認められる可能性が高いという連絡が夜のうちに届いていた。


 つまり、明日はただの現地確認ではない。


 リベル村が、危険を隠していた村なのか。


 それとも、危険を記録し、触れずに守り、周辺村と共に水と土を見てきた村なのか。


 その判断が、王都の目の前で行われる。


 午前中、最後の動線確認が始まった。


 村長宅の広間には、机が三つ並べられている。


 一つ目は、王都確認班用。


 ここには、正式な報告書、追補、図面、時系列表が置かれる。


 二つ目は、現地記録用。


 ニコルが座り、村の補助記録係が隣につく。発言の要約記録と原文記録を分けて取る。


 三つ目は、周辺村証言用。


 ハルマ村の井戸番、若い母親、北沢集落の井戸番、ミード村の孫娘が、それぞれ持参した記録を置く。


 トマはそれを見て、ぽつりと言った。


「机だけ見ると、王都の会議みたいだな」


 ダリオさんが首を振る。


「王都の会議はもっと嫌な匂いがする」


「どんな匂いだよ」


「古い紙と、責任逃れと、冷めた茶」


「最悪だな」


「実際だいたいそんな感じだ」


 北沢集落の井戸番の女性が笑った。


「じゃあ、ここはまだマシだね。豆の匂いがする」


 ダリオさんが真顔で頷く。


「豆は会議を救う」


「それは言いすぎです」


 セリアが言うと、ダリオさんは少しだけ不満そうにした。


「そうか?」


「たぶん」


 そのやり取りで、広間の空気が少し緩んだ。


 だが、すぐにリーゼさんが地図を広げた。


「冗談はここまでだ。当日の立ち位置を確認する」


 彼女の声で、全員の背筋が伸びる。


 広場の入り口には、村の若者二人を置く。


 王都確認班は村長宅へ案内する。

 侯爵家代理人が同行していた場合も、最初に同じ広間へ通す。


 ただし、証言者控室には入れない。


 地下工房への立ち入りは、行政庁代表、防衛局代表、技師組合外部監査部代表の三名まで。


 侯爵家代理人は入れない。


 黒石祠本体へは案内しない。

 森の入口より奥へは、当日は立入禁止。


「文句を言われたら?」


 トマが聞いた。


 リーゼさんは即答した。


「現地安全責任上、不可と言う」


「それでもごねたら?」


「記録する」


 ニコルがすぐに頷いた。


「“安全制限への異議”として記録します」


 トマは感心した顔をした。


「記録、便利だな」


「便利というより、防具です」


 ニコルは静かに言った。


「相手を殴るものではなく、こちらが折れないためのものです」


 その言葉に、ダリオさんが口笛を吹きかけて、村長に睨まれてやめた。


「水土記録係、かなり仕上がってきたな」


 ニコルは少し赤くなった。


「仮です」


「まだ仮なのか」


「正式な肩書きは怖いので」


 午後は、記録の封印作業に使われた。


 原本と写しを分ける。


 原本は、机に出すものと、封印箱に保管するものに分ける。


 王都に渡すのは写し。

 原本はリベル村で保持する。


 これは、ダリオさんの強い提案だった。


「王都に全部渡すな」


 彼は珍しく、はっきり強い口調で言った。


「悪い意味じゃなくても、紙は向こうで行方不明になることがある。都合が悪い紙ほどな」


 村長は頷いた。


「原本は村に残す」


 ニコルが封印箱へ一枚ずつ入れていく。


 ハルマ村の井戸記録。

 北沢集落の水温記録。

 ミード村の葉の絵。

 リベル村の旧水路残滓採取記録。

 遮断札一号失敗記録。

 遮断札二号破片封印記録。

 水土見守り基点本来名解析記録。

 黒石祠本体残存命令核未解除記録。


 トマが封印箱を見て、眉をひそめた。


「すごい量だな」


「ここまでやってきた量です」


 ニコルが答えた。


「失敗も入ってるんだよな」


「入っています」


「俺の失敗未満も?」


「入っています」


「……なんか、恥ずかしいけど、ないと困る気もしてきた」


 ダリオさんが言った。


「そうだ。恥ずかしい記録は、だいたい役に立つ」


「嫌な真理だな」


 夕方前、ハルマ村の若い母親が、セリアに声をかけた。


「明日、私が話したら、侯爵家の人に何か言われるでしょうか」


 セリアは少し考えてから答えた。


「言われるかもしれません」


 慰めるための嘘は言わなかった。


「でも、直接あなたを責めるような質問は、こちらで止めます。答えられないことは、答えなくていいです。分からないことは、分からないで大丈夫です」


「それでも、怖いです」


「はい」


 セリアは頷いた。


「怖いままでいいと思います。怖くなかったことにしなくていいです」


 若い母親は、涙ぐむほどではなかったが、少しだけ目を伏せた。


「それなら、話せます」


 北沢の井戸番の女性は、その横で土袋を締め直していた。


「王都の人が土を触らなかったら、私は黙るよ」


 トマが驚く。


「黙るのか?」


「触らない人に話しても無駄だからね」


 リーゼさんが少しだけ笑った。


「それも証言になる」


 ニコルがすぐ記録する。


『土に触れることを拒否した場合、北沢証言者は証言保留予定』


 北沢の女性は満足そうに頷いた。


「よし。それなら強い」


 ミード村の孫娘は、祖母の絵を入れる木箱を持ってきた。


 蓋の内側に、小さな紙が貼ってある。


 そこには、太い字でこう書かれていた。


『葉を見なさい。言い訳はあと』


 セリアがそれを読んで、思わず笑った。


「お祖母さまらしいですね」


「はい。祖母は王都の人にもこれを読ませろと言っていました」


「読ませましょう」


 セリアは真顔で言った。


 その一言で、孫娘は嬉しそうに笑った。


 夜。


 村長宅の広間で、最後の食事が用意された。


 豆と根菜の汁。

 焼いた黒パン。

 少しの塩漬け肉。

 薬草茶。


 いつもと同じ、特別ではない食事。


 けれど、明日を前にして食べると、不思議と特別に感じた。


 ダリオさんは豆の汁を見て、深く頷いた。


「よし」


 トマが聞く。


「何がよしなんだ」


「明日は勝てる」


「豆で判断するな」


「腹が空いたまま王都の紙と戦えるか」


「それは無理」


「なら豆は大事だ」


 誰も反論できなかった。


 食事の途中、村長が静かに口を開いた。


「明日、王都の者は疑う目で来るじゃろう」


 広間が静かになる。


「侯爵家の者が来れば、さらに疑いは強くなる。こちらの言葉をねじろうとするかもしれぬ。だが、忘れるな。こちらは嘘を言う必要がない」


 村長はゆっくり全員を見る。


「水が澄んでいるなら、澄んでいると言えばよい。濁った時があったなら、濁ったと言えばよい。怖かったなら、怖かったと言えばよい。分からぬなら、分からぬと言えばよい」


 ハルマ村の若い母親が、静かに頷いた。


 北沢の井戸番が腕を組む。


 ミードの孫娘は、木箱を膝の上に置いていた。


 村長は続けた。


「リベル村は、完璧な村ではない。失敗もした。迷いもした。だが、隠さず記録した。明日は、それを見せる日じゃ」


 トマが小さく呟く。


「完璧じゃない方が、強いのかもな」


 ダリオさんが聞き逃さなかった。


「たまにいいことを言うな」


「たまにって何だよ」


「いつもではないということだ」


「ひでえ」


 笑いが起きる。


 でも、その笑いには力があった。


 夜が更けると、それぞれが寝床へ向かった。


 ニコルだけは、まだ広間で記録表を確認していた。


 俺が声をかける。


「休んだ方がいいですよ」


「あと少しだけ」


「明日、倒れたら困ります」


 ニコルは苦笑した。


「みんな、それを言うんですね」


「本当なので」


 彼は記録表を閉じた。


「怖いです」


 小さな声だった。


「明日、僕の記録が足りなかったらどうしようって思います」


「足りないところがあれば、足りないと書けばいい」


 ニコルは少し驚いた顔をした。


「ダリオさんみたいなことを言いますね」


「感染しました」


 彼は初めて少し笑った。


「分からないことを分からないと書く。それも記録、ですよね」


「はい」


 ニコルは封印箱へ視線を向けた。


「明日、守ります。記録を」


「一緒に守りましょう」


 地下工房へ下りると、中枢室の青白い光が静かに揺れていた。


 黒紫はまだ外側にある。


 黒石祠本体は残っている。


 でも、今夜の青は落ち着いていた。


 水土見守り基点が、明日の公開確認を知っているわけではないだろう。


 それでも、村の水と土を見守る光は、いつもより近く感じた。


 俺は記録板を開いた。


『現地公開確認前日。

記録原本と写しを分離。原本はリベル村封印箱へ。写しを王都確認班へ提示予定。

見せる順番、立入制限、証言保護手順、地下工房入室制限を再確認。

周辺村証言者はそれぞれ準備完了。

ハルマ村若い母親は“不安だったこと”を話す方針。

北沢集落井戸番は土を触らせる方針。拒否された場合、証言保留も記録。

ミード村代理は止血草の葉の絵を提示。祖母の言葉:“葉を見なさい。言い訳はあと。”

リベル村は、完璧ではないことも含めて見せる方針』


 最後に書く。


『記録を封じる夜だった。

隠すためではない。

失わせないためだ。

明日、王都の目が来る。侯爵家の影も来るかもしれない。

こちらが出すのは、飾った勝利ではない。

濁った日も、迷った日も、失敗未満の日も含めた、村の記録だ。

それを机に並べる。

水と土と声を、折らせないために。』


 地上では、水車が静かに回っている。


 明日の朝、その音を王都の者たちも聞くことになる。


 リベル村は眠る。


 完璧ではない記録を抱えたまま。


 けれど、隠すもののない村として。

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