第119話 証言にも柵がいる
ローゼン侯爵家代理書記官、バルク・エイマー。
その名は、その日のうちに記録板へ書かれた。
ただの来訪者としてではない。
『現地公開確認前、周辺村証言者への事前接触を試みた可能性あり』
ニコルはその一文を書いたあと、しばらく筆を止めていた。
広間には、まだ昼間の緊張が残っている。
バルクは丁寧だった。
声を荒げたわけでもない。
脅したわけでもない。
剣を抜いたわけでもない。
それでも、彼が立っていた場所には、妙な冷えが残った。
黒石祠の冷気とは違う。
もっと人間的な冷たさだ。
礼儀正しい言葉で、人の声を先に曲げようとする冷たさ。
ハルマ村の若い母親は、夕方まで少し口数が減っていた。
北沢集落の井戸番の女性は「私は平気だよ」と言ったが、土袋を離さなかった。
ミード村の孫娘は、祖母の絵を何度も確認していた。
彼女たちは、王都へ出すための証言を持って来たのではない。
自分たちの井戸や土や薬草を見て、その変化を話しに来たのだ。
それを、王都の紙や侯爵家の都合に合わせて曲げられてはならない。
村長は広間の机に杖を置いた。
「証言にも柵がいるな」
誰もすぐには返事をしなかった。
最初に反応したのは、セリアだった。
「薬草予定地の柵と同じですか」
「同じじゃ」
村長は頷いた。
「柵は、芽を隠すためにあるのではない。踏まれぬようにするためじゃ。証言も同じ。隠す必要はない。だが、踏ませてはならぬ」
北沢の井戸番の女性が、土袋を抱えたまま言った。
「それは助かる。私は言いたいことは言うけど、横から難しい言葉でねじられるのは困る」
ハルマ村の若い母親も、小さく頷いた。
「私も……質問されると、焦って変なことを言ってしまいそうで」
トマが眉を寄せた。
「変なことって?」
「本当は、全部分かっているわけじゃないのに、分かったふりをしてしまうとか。リベル村を疑っていたことを、なかったことにしてしまうとか」
彼女は自分の手元を見た。
「でも、それは違う気がするんです。私は最初、不安でした。それも本当なので」
セリアが静かに言った。
「そのままでいいと思います。不安だったことは、恥ずかしいことではありません」
「でも、王都の人の前で言ったら、リベル村に迷惑になりませんか」
「なりません」
今度はニコルが答えた。
少し驚いたように、皆が彼を見る。
ニコルは筆を握ったまま続けた。
「最初から信じていた、という証言だけが並んだら、逆に不自然です。ハルマ村で噂が広がったことも、不安があったことも記録に残っています。その不安が、井戸を見て、記録をつけることで少し変わった。そこが大事なんです」
ダリオさんが頷いた。
「いい。記録係らしいな」
ニコルは少し赤くなったが、筆は止めなかった。
「ですから、証言を守る柵を作りましょう」
トマが首を傾げる。
「柵って、どうやって?」
リーゼさんが地図を広げた。
「場所を分ける」
彼女は広間の見取り図を描き始めた。
「当日、王都の確認班と周辺村の証言者を、最初から同じ場所に集めない。証言者はこの部屋で待機する。質問を受ける時だけ、村長と記録係が同席して出る。侯爵家代理人が来た場合、証言者へ直接話しかけることは禁止する」
トマが目を丸くした。
「それ、できるのか?」
村長が答えた。
「ここはリベル村じゃ。現地安全責任は我らにある。無秩序に話しかけることは認めぬ、と先に通告すればよい」
ダリオさんが補足する。
「王都の現地確認班は記録を見るために来る。周辺村の証言者を圧迫するためじゃない。そこを明文化する」
ニコルは新しい紙を出した。
『証言保護手順』
見出しを書きながら、彼は少しだけ表情を引き締めた。
一、証言者控室を設ける。
二、証言時は村長、リベル村記録係、王都行政庁担当者が同席。
三、侯爵家代理人が参加する場合、証言者への直接質問は行政庁担当者を通す。
四、証言者の発言は原文記録と要約記録の両方に残す。
五、証言者が答えられない場合、「分からない」と記録してよい。
六、証言中の誘導、威圧、遮りがあれば、その行為自体を記録する。
最後の項目を書いた時、広間の空気が少し変わった。
トマが低く言う。
「遮りも記録するのか」
「はい」
ニコルは頷いた。
「何を言ったかだけではなく、誰がどう遮ったかも記録します。証言が曲げられそうになったなら、それも現場の事実です」
ダリオさんは満足そうに笑った。
「強いな、水土記録係」
「仮です」
「もう本採用でいいだろ」
ニコルは困ったように笑ったが、否定はしなかった。
ミード村の孫娘が、おずおずと手を上げた。
「あの、絵について質問された時も、分からないことは分からないでいいんですか」
「もちろんです」
セリアが答えた。
「お祖母さまが見たこと、自分が見たこと、分かる範囲だけでいいです。王都の人が難しい言葉で聞いてきても、無理に合わせなくて大丈夫です」
「でも、薬草の種類とか、土壌保持とか聞かれたら」
「“祖母はこう見ました”でいいです」
セリアはやわらかく言った。
「薬草を見る言葉は、薬草を見る人の言葉でいいんです」
孫娘は少し安心したように、絵の紙を撫でた。
北沢の井戸番の女性が鼻を鳴らす。
「難しいことを聞かれたら、土を触らせるよ」
「それは強いですね」
俺が言うと、彼女は当然のように頷いた。
「強いも何も、土の話だからね」
その言葉も、ニコルは原文記録へ書き足した。
午後、実際の証言動線を確認することになった。
村長宅の奥の部屋を証言者控室にする。
窓はある。
外から覗き込まれないよう、薄い布をかける。
ただし閉じ込めるようにはしない。
控室には水と椅子を置く。
証言を終えた者がすぐ外へ出られるよう、裏口に近い場所を使う。
リーゼさんは部屋の入口に立ち、周囲を見た。
「当日は、ここに私か村の若い衆を置く」
ハルマ村の若い母親が少し不安そうに聞いた。
「守るため、ですか」
「そうだ」
リーゼさんは短く答えた。
「見張るためではない。入ってくる者を止めるためだ」
その言い方に、若い母親はほっとしたようだった。
「それなら……安心です」
リーゼさんは少しだけ目を伏せた。
見張ることと、見守ること。
この村では、何度もその違いを考えてきた。
今度は人の証言を見守る番だった。
次に、広間で模擬質問を行った。
王都の担当者役は俺。
侯爵家代理人役はダリオさんがやることになった。
トマが「似合いそう」と言い、ダリオさんに睨まれた。
「悪役が似合うって意味じゃないからな」
「どっちでも不愉快だ」
まず、ハルマ村の若い母親。
俺が尋ねる。
「最初に井戸の水が不安になった時、何を考えましたか」
彼女は少し緊張しながらも答える。
「子供に飲ませる水が悪くなるのではないかと思いました。リベル村が危ないものを触っていると聞いて、怖くなりました」
ダリオさんが侯爵家代理人の声色を作る。
「つまり、あなたはリベル村の作業が原因だと感じたわけですね?」
彼女が固まった。
すぐにセリアが手を上げる。
「今の質問は誘導に近いです」
ニコルが記録する。
『模擬質問:発言の要約を装い、原因断定へ誘導』
ダリオさんは頷いた。
「そう。これをやってくる可能性がある」
若い母親の顔が青い。
「今みたいに聞かれたら、はいって言ってしまいそうです」
「その時は、言い直していいんです」
セリアが言った。
「“原因だと感じたのではなく、不安になりました”と。原因を知っているわけではない、と言っていいんです」
彼女は何度か小さく繰り返した。
「原因だと感じたのではなく、不安になりました」
その言葉は、証言の柵になった。
次は、北沢の井戸番の女性。
ダリオさんがまた侯爵家代理人役で聞く。
「土の冷えというのは、あなたの主観ではありませんか?」
北沢の女性は、土袋を机に置いた。
「主観だよ」
全員が一瞬止まる。
彼女は続けた。
「私は土を手で触って冷たいと思った。それを毎日同じ場所で見た。王都の測定道具じゃない。でも、畑を見てきた手の感覚だ。それが要らないなら、私を呼ぶ意味はないね」
ダリオさんが役を忘れて笑った。
「強い。今のはそのままでいい」
ニコルは必死に書いている。
次は、ミード村の孫娘。
ダリオさんが質問する。
「その絵は正確な植物記録ではなく、素人の写しではありませんか?」
孫娘は一瞬、言葉に詰まった。
だが、セリアが静かに頷くと、彼女は紙を握り直した。
「はい。祖母は王都の植物画家ではありません。でも、毎日同じ止血草を見て描きました。正確な図鑑ではありませんが、葉が丸まったことと、丸まりが止まったことは分かります」
ニコルが顔を上げた。
「とてもいいです」
孫娘は安心したように息を吐いた。
最後に、トマ。
旧水路下流の説明役だ。
ダリオさんが侯爵家代理人役で尋ねる。
「あなたは技師ではありませんね。水路操作の専門知識がないにもかかわらず、残滓採取を行ったのですか?」
トマは一瞬、眉を寄せた。
怒鳴りそうになったのが分かった。
だが、彼は水量板の方角を一度見た。
そして答えた。
「専門家じゃない。だから、勝手に水量板は触らなかった。ダリオさんの指示で、流れを変えずに黒い粒だけを採った。俺がやったのは、操作じゃなくて採取と記録だ」
広間が静かになった。
ダリオさんが、ゆっくり頷いた。
「満点だ」
トマは驚いた顔をする。
「本当に?」
「ああ。今のはいい」
トマは少しだけ顔を赤くした。
「……なら、本番もそれで行く」
証言練習が終わった頃には、全員が少し疲れていた。
だが、午前中より顔は落ち着いている。
質問される怖さは、消えたわけではない。
それでも、どう返せばいいかが少し見えた。
それは大きい。
夕方、村の入口に見張り札が立てられた。
『現地公開確認準備中。証言者への事前接触は村長の許可を要する』
トマがそれを見て言った。
「強いな、この札」
リーゼさんが答える。
「柵だ」
「証言の柵か」
「そうだ」
セリアは薬草予定地の柵を見つめた。
「柵は、隠すためではなく、踏ませないため」
村長の言葉を、彼女は繰り返した。
夜、俺は地下工房で記録を書いた。
『証言保護手順を作成。
証言者控室、証言時同席者、侯爵家代理人からの直接質問制限、原文記録と要約記録の併用、誘導・威圧・遮りの記録化を決定。
模擬質問を実施。
ハルマ村若い母親は“原因だと感じたのではなく、不安になりました”と修正する練習。
北沢集落井戸番は、土の冷えを主観として認めた上で、畑を見てきた手の感覚として証言する方針。
ミード村薬草係代理は、祖母の絵が図鑑ではなく日々の観察記録であると説明。
トマは、専門家ではないからこそ水量板を触らず、指示下で採取と記録を行ったと説明』
最後に書く。
『証言にも柵がいる。
隠すためではない。
踏ませないためだ。
井戸の不安、土の冷え、薬草の葉、失敗未満の採取。
それぞれの声が、王都の言葉に潰されないように。
公開する前に、守る線を引く。』
地上では、見張り札が夜風に揺れている。
王都の現地確認まで、あと二日。
リベル村は、井戸と水路だけでなく、人の言葉にも柵を立て始めていた。




