表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

118/173

第118話 井戸端の言葉は、王都の紙より強い

現地公開確認まで、あと二日。


 リベル村の朝は、いつもより少し賑やかだった。


 理由は簡単だ。


 他の村の人間が泊まっているからである。


 ハルマ村の井戸番の老人は、朝の鐘が鳴る前から中央井戸のそばにいた。自分の村の井戸ではないのに、じっと水面を見ている。


 北沢集落の井戸番の女性は、薬草予定地の土を触りたがったが、柵の手前でぴたりと止まった。


「触らない、だったね」


 そう言って、自分で手を引っ込めた。


 ミード村の薬草係代理の孫娘は、セリアと一緒に傷洗い草の芽を眺めている。手には、祖母が描いた止血草の葉の写し絵があった。


 リベル村の子供たちは、いつもの合言葉を他村の大人たちへ教えていた。


「触らない」


「踏まない」


「騒がない」


 ハルマ村の井戸番の老人が、それを聞いて笑った。


「こりゃ、うちの若い衆にも教えた方がいいな」


 トマが胸を張った。


「大事だからな」


 ダリオさんが横から言う。


「お前が言うと説得力があるような、ないような」


「あるだろ。俺、水量板触ってない男だぞ」


「肩書きにするな」


「水量板未操作担当」


「さらにやめろ」


 笑いが起きた。


 緊張はある。

 王都の現地確認班が来る。

 侯爵家側の人間も来るかもしれない。


 それでも、朝の井戸端に笑いがあるだけで、村の空気は少し軽くなった。


 ただ、その軽さは長くは続かなかった。


 午前のうちに、証言練習が始まったからだ。


 場所は村長宅の広間。


 机の上には、各村の記録が並んでいる。


 ハルマ村の井戸記録。

 北沢集落の水温表と土袋。

 ミード村の止血草の葉の写し絵。

 リベル村の旧水路残滓採取記録。

 遮断札一号の失敗記録。

 遮断札二号の破片封印記録。

 水土見守り基点の本来名解析記録。


 王都の人間が来た時、誰が何を話すか。


 それを確認するための練習だった。


 最初は、ハルマ村の井戸番の老人からだった。


 ニコルが紙を渡す。


「ええと、こちらが王都向けに整えた説明です」


 老人は紙を受け取り、目を細めながら読み上げた。


「ハルマ村中央井戸において、当初微弱な濁りを確認したものの、リベル村による水土見守り基点同期解除後、濁りは低下傾向を示し……」


 そこで老人は止まった。


 紙を下ろす。


「駄目だ」


 ニコルがぎょっとする。


「駄目ですか」


「こんな言葉、わしの口から出ん。出したら嘘くさい」


 広間が静かになる。


 老人は紙を机に戻し、自分の記録板を持ち上げた。


「わしが言えるのはこうだ。最初は水が少し濁った。みんな不安になった。リベル村のせいじゃないかと言う者もいた。だが、記録をつけて見たら、濁りは増えなかった。むしろ少しずつ澄んだ。だから、今も見ている」


 それだけだった。


 短い。


 飾り気もない。


 だが、さっきの整った文章より、ずっと強かった。


 ダリオさんが頷いた。


「それでいい」


 ニコルも慌てて記録する。


「原文記録にします」


 老人は笑った。


「王都の人間に通じるかね」


「通じさせます」


 ニコルは珍しく強く言った。


 次は、ハルマ村の若い母親だった。


 彼女は両手を膝の上で握っていた。


 練習だと分かっていても、顔がこわばっている。


 セリアが隣に座る。


「上手に話そうとしなくて大丈夫です。最初に不安だったことからでいいです」


 若い母親は小さく頷いた。


「私は……最初、リベル村を疑いました」


 トマが黙って聞いている。


 彼女は一度、トマの方を見た。


 トマは何も言わずに頷いた。


「子供に飲ませる水だったので、怖かったんです。王都から来た行商人が、リベル村が危ないものを触っていると言って……それなら、うちの井戸も悪くなるんじゃないかと思いました」


 声が少し震える。


 でも、彼女は続けた。


「でも、リベル村の人が来て、井戸を見てくれました。怒られると思っていました。でも怒鳴られませんでした。記録を見せてもらって、うちでも書くようになりました。私はまだ全部分かったわけじゃありません。でも、分からないことを噂だけで決めるのは怖いと思いました」


 セリアが静かに頷いた。


「とてもいいです」


「こんなのでいいんですか」


「はい。とても大事です」


 トマが少し鼻をこすった。


「俺も、あの時怒鳴らなくてよかった」


 若い母親は少し笑った。


「怒鳴られると思っていました」


「危なかった」


「正直ですね」


「セリアに止められた」


「セリアさんに感謝します」


 広間に柔らかい笑いが広がった。


 その笑いで、彼女の肩の力が少し抜けた。


 次は、北沢集落の井戸番の女性。


 彼女は土袋を机に置いた。


「私は紙より、まずこれを触ってもらう」


 ニコルが少し慌てる。


「ええと、王都の方々に直接ですか」


「そうだよ。土が冷えた話をするんだから、土を触らずに終わらせたら意味がない」


 彼女は袋を開けた。


 中には、北沢集落の畑北側の土が入っている。


 昨日より少し温度が戻ったとはいえ、リベル村の薬草予定地の土と比べると、まだ冷たい。


 セリアがリベル村の土と並べて置いた。


「比べると分かりやすいです」


「そう。王都の人にも、両方触ってもらう」


 リーゼさんが言った。


「拒まれたら?」


 北沢の井戸番は即答した。


「土を触らない人に、土のことで村を裁かれたくないね」


 広間が静かになった。


 強い。


 これは王都の文書にはない強さだった。


 ダリオさんが小さく笑った。


「それ、そのまま言ってください」


「言うよ」


 彼女は当然のように答えた。


 ニコルは筆を走らせる。


『土を触らない人に、土のことで村を裁かれたくない』


 トマが横から覗き込む。


「強すぎない?」


 ダリオさんが言った。


「強いからいい」


 最後は、ミード村の孫娘だった。


 彼女は祖母の絵を並べる。


 止血草の葉。


 最初は開いている。

 次の日は少し丸まる。

 さらに次の日はもっと丸まる。

 水土見守り基点の同期解除後、丸まりが止まり、葉の線が少し戻っている。


 絵は素朴だった。


 王都の植物図鑑のように正確ではない。


 だが、毎日同じ葉を見ていた人間の手だった。


 孫娘は緊張しながら言った。


「祖母は、止血草は嘘をつかないと言っています」


 セリアが顔を上げる。


「いい言葉ですね」


「はい。祖母は、葉が丸まる時は水が足りないだけじゃなく、土が落ち着かない時もあると言っていました。リベル村の人が“過剰に水をやらないで”と言ったので、祖母はそれを守りました。その後、丸まりが止まりました」


 彼女は絵を一枚持ち上げた。


「これが、その日の絵です」


 ニコルは静かに記録した。


 王都向けの言葉に直せば、いくらでも難しくできる。


 土壌保持。

 水分過多回避。

 薬草葉形状の回復傾向。


 けれど、今はそれよりも、


『止血草は嘘をつかない』


 その一文の方が、ずっと強かった。


 証言練習が一通り終わると、ニコルは机に並んだ紙を見て、深く息を吐いた。


「整える紙と、残す紙を分けます」


「どう分ける?」


 俺が聞くと、ニコルはもう迷わなかった。


「王都向けには、項目ごとに整理した要約を出します。でも、証言者が話す時は、原文記録の言葉を優先します。言葉を変えすぎると、その人の見たものが薄くなります」


 ダリオさんが頷いた。


「いい記録係だ」


 ニコルは少しだけ笑った。


「水土記録係です」


 トマがすかさず言った。


「採用されたのか、その肩書き」


「仮です」


「仮って便利だな」


 その時、村の入口から馬車の音が聞こえた。


 広間の空気が少し硬くなる。


 王都の現地確認班は、まだ二日後の予定だ。


 早すぎる。


 リーゼさんがすぐに立ち上がる。


「確認する」


 俺たちも広場へ出た。


 村の入口に止まっていたのは、小型の馬車だった。


 王都行政庁の紋はない。


 だが、商人の馬車にしては飾り気が少なく、旅人にしては書類箱が多い。


 降りてきたのは、中年の男だった。


 整った服。

 丁寧すぎるほどの笑み。

 そして、腰に下げた書記官用の印章。


 男は村長へ向かって深く一礼した。


「リベル村村長殿。突然の訪問、失礼いたします。私はローゼン侯爵家代理書記官、バルク・エイマーと申します」


 トマの肩がぴくりと動いた。


 セリアが隣で静かに立つ。


 リーゼさんは、剣には触れないが、半歩だけ前に出ていた。


 村長は表情を変えなかった。


「王都現地確認班は二日後と聞いておる」


「はい。私は確認班ではございません」


 バルクと名乗った男は、滑らかな声で答えた。


「侯爵家代理人が正式に同行を認められるかは、まだ行政庁の判断待ちです。ただ、その前に、リベル村側の公開確認準備について、事前にご挨拶をと思いまして」


 ダリオさんが低く呟いた。


「様子見に来やがったな」


 バルクは、こちらの声が聞こえていても気にしない様子だった。


 笑みを崩さない。


「もちろん、黒石祠本体や危険箇所への立ち入りを求めるものではありません。ただ、周辺村の方々もお集まりのようですので、誤解のないよう、侯爵家側の立場も簡単にお伝えできればと」


 ハルマ村の若い母親が、不安そうに身を引いた。


 北沢の井戸番の女性は、土袋を抱え直す。


 ミードの孫娘も、絵の紙を胸に寄せた。


 それを見た瞬間、セリアの表情が変わった。


 怒りではない。


 もっと静かな、線を引く顔だった。


 彼女は一歩前に出た。


「申し訳ありません。今日は、周辺村の方々の証言確認の日です。王都現地確認班の前に、侯爵家側の立場をお伝えいただく場ではありません」


 バルクは少し目を細めた。


「あなたは?」


「セリアです。リベル村の薬草予定地と土壌保持記録を担当しています」


「なるほど。ですが、私は争いに来たわけでは――」


「でしたら、なおさら今日はお控えください」


 セリアの声は穏やかだった。


 だが、退かなかった。


「ハルマ村の方は、不安だったことを話すために来ています。北沢集落の方は、土を持って来ています。ミード村の方は、薬草の絵を預かって来ています。その前で、侯爵家側の立場を先にお話しされると、証言が萎縮します」


 広場が静まり返った。


 バルクの笑みが、ほんの少し硬くなる。


 村長が杖を鳴らした。


「セリアの言う通りじゃ。今日の場には入れぬ」


「村長殿。私は正式な抗議ではなく、挨拶を――」


「挨拶なら受けた。今日はここまでじゃ」


 短い。


 だが、明確だった。


 バルクはしばらく村長を見つめ、それから丁寧に頭を下げた。


「承知しました。では、正式な場で改めて」


「そうしてもらおう」


 馬車が去るまで、誰も大きな声を出さなかった。


 馬車の音が遠ざかってから、トマが大きく息を吐いた。


「……殴らなかった」


 ダリオさんが言った。


「誰も殴る話はしてない」


「心の中ではした」


「それは記録しなくていい」


 ニコルがすでに記録板を開いていた。


「訪問自体は記録します」


「それはしてくれ」


 セリアは、ハルマ村の若い母親へ向き直った。


「大丈夫ですか」


 彼女は少し震えていたが、頷いた。


「はい。セリアさんが止めてくれたので」


 北沢の井戸番の女性が土袋を叩いた。


「今の男には、土を触らせたくないね」


 ミードの孫娘も、小さく頷いた。


「祖母の絵も、今は見せたくありません」


 リーゼさんが静かに言った。


「それでいい。見せる場は、こちらが決める」


 村長も頷いた。


「公開するとは、誰にでも踏み込ませることではない」


 その言葉が、その日のもう一つの記録になった。


 夜、俺は地下工房で記録を書いた。


『周辺村証言練習を実施。

整えた証言より、各村の言葉そのものが強いと確認。

ハルマ村井戸番:“最初は濁った。見たら増えなかった。だから今も見ている。”

ハルマ村若い母親:“子供に飲ませる水だったので怖かった。”

北沢集落井戸番:“土を触らない人に、土のことで村を裁かれたくない。”

ミード村薬草係代理:“止血草は嘘をつかない。”

ニコルは、整える紙と残す紙を分ける方針を決定』


 さらに、別項目として書く。


『ローゼン侯爵家代理書記官バルク・エイマーが予定外に来村。

現地確認前の“挨拶”を名目に、周辺村証言者へ接触しようとした可能性あり。

村長およびセリアが、証言確認の場への参加を拒否。

公開することは無制限に踏み込ませることではない。見せる場と線をこちらで決める必要あり』


 最後に書いた。


『井戸端の言葉は、王都の紙より強い時がある。

だからこそ、それを先に折らせてはいけない。

公開確認とは、すべてを無防備に差し出すことではない。

守るべき声を守ったうえで、見せるべきものを見せることだ。』


 地上では、周辺村の人たちがまだリベル村に泊まっている。


 その寝息は、昨夜より少し緊張しているかもしれない。


 だが、彼らは帰らなかった。


 王都の人間が来る前に、侯爵家の影が村へ触れた。


 それでも、リベル村はその手を中へ入れなかった。


 井戸の言葉も、土の言葉も、薬草の絵も。


 まだ、守られている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ