第117話 きれいすぎる証言は、弱くなる
現地公開確認まで、あと三日。
リベル村には朝から来客が続いた。
最初に着いたのは、ハルマ村の井戸番の老人だった。
腰に採水瓶を三本下げ、片手には分厚い記録板を抱えている。同行してきたハルマ村の若い母親は、村の入口で少し足を止めた。
リベル村を疑っていた側の一人だ。
彼女は、自分でもそれを分かっているのだろう。
こちらを見る目に、気まずさと緊張が混じっていた。
トマが水路脇から顔を出し、手を振りかけて、途中で止めた。
そして少し迷ってから、普通に頭を下げた。
「来てくれて、ありがとう」
若い母親は驚いた顔をした。
怒鳴られると思っていたのかもしれない。
いや、正直に言えば、少し前のトマなら怒鳴っていた可能性がある。
だが、今のトマは違った。
水量板を触らない男は、怒りも少しずつ触らずに置けるようになってきている。
「こちらこそ……」
若い母親は小さく頭を下げた。
「私、あの時、リベル村のせいだと思ってしまって」
「井戸が悪くなるかもって聞いたら、怖いだろ」
トマはそう言った。
責める言葉ではなかった。
彼女は一瞬、泣きそうな顔をした。
「はい。子供に飲ませる水だったので」
セリアがそっと近づいた。
「その話を、王都の人たちにも聞かせてほしいんです。不安だったことも、記録を見て少し変わったことも」
「不安だったことまで言っていいんですか」
「はい。むしろ、そこが大事です」
セリアは静かに答えた。
「最初からリベル村を信じていました、と言われるより、不安だったけれど井戸を見て記録をつけた、という方が本当ですから」
若い母親は、ほっとしたように胸に手を当てた。
「それなら、話せるかもしれません」
次に来たのは、北沢集落の井戸番の女性だった。
布袋の中には、畑北側の土が入っている。
彼女はそれを机の上に置き、開口一番に言った。
「この土、王都の人に触ってもらえるのかい?」
ニコルが少し戸惑う。
「ええと、たぶん……希望すれば」
「触らないで土の冷えを語られても困る」
女性はきっぱり言った。
「紙に書くのも大事だけどね。土は手に取らないと分からないよ」
ダリオさんが感心したように頷いた。
「そのまま言ってください」
「このまま?」
「はい。王都向けに直す必要はありません」
「王都向けにすると、どうなるんだい」
ニコルが手元の紙を見た。
「ええと……“北沢集落北側畑地における土壌温度の体感的低下が確認され……”」
「やめな」
井戸番の女性は即座に言った。
「そんな言葉、私の口から出たら嘘になる」
広間に、小さな笑いが起きた。
ニコルは赤くなったが、すぐに頷いた。
「分かりました。王都向けの文書には私が整理して書きます。でも、現地で話す時は、ご自身の言葉でお願いします」
「それならいい」
彼女は土袋を軽く叩いた。
「冷たい土は、冷たい土だ。それ以上でも以下でもない」
昼前には、ミード村から薬草係の孫娘が来た。
祖母に似た、よく通る目をした少女だった。
年はニコルと同じくらいか、少し上だろうか。
彼女は止血草の葉を写した絵と、乾きの記録を持っていた。
「祖母から預かってきました」
そう言って、丁寧に紙を広げる。
そこには、止血草の葉が日ごとに少しずつ丸まり、作業後に丸まりが止まった様子が描かれていた。
絵は精密ではない。
けれど、毎日同じ場所を見ていた人間の線だった。
セリアはその紙を見て、息を呑んだ。
「すごい……」
「祖母は字を書くより、葉を描く方が早いんです」
孫娘は少し恥ずかしそうに言った。
「王都の人に、こんな絵で通じるでしょうか」
「通じます」
セリアは即答した。
「むしろ、これはとても強い記録です。葉の変化が見えますから」
孫娘は安心したように笑った。
「祖母も喜びます」
こうして、リベル村の広間には、三つの村の記録が並んだ。
ハルマ村の井戸記録。
北沢集落の土袋と水温表。
ミード村の止血草の葉の絵。
王都向けの整った報告書とは違う。
字もばらばら。
紙の大きさも違う。
表現も統一されていない。
でも、だからこそ本物だった。
午後、ニコルはその記録を一つの説明台帳にまとめようとして、手を止めた。
紙の前で固まっている彼を見て、俺は声をかけた。
「どうしました」
「整えすぎると、弱くなります」
ニコルはぽつりと言った。
「ハルマ村の若いお母さんの“子供に飲ませる水だったので怖かった”という言葉も、北沢の井戸番さんの“土は手に取らないと分からない”という言葉も、ミードの絵も……正式な言葉に変えると、何かが減ります」
ダリオさんが横から覗き込んだ。
「いい悩みだ」
「いいんですか?」
「ああ。記録係がそこに気づくのは大事だ」
ニコルは少し困った顔をした。
「でも、王都の人に出すには整えないと」
「整える紙と、整えない紙を分けろ」
ダリオさんは言った。
「王都の机に置く要約は必要だ。でも、現場の言葉は別紙でそのまま残す。引用記録だ」
「引用記録……」
「そうだ。誰が、どこで、何を見て、どう言ったか。言葉は直しすぎるな。誤字は少し直してもいいが、口調まで綺麗にするな」
ニコルの目が明るくなった。
「分かりました」
彼は新しい紙を取り出し、見出しを書いた。
『周辺村証言・原文記録』
トマが覗き込む。
「原文って、俺のも入る?」
「入ります」
「また字が汚い証拠になる?」
「なります」
「なら仕方ないな」
なぜか少し誇らしげだった。
その後、現地公開確認の流れを周辺村の代表たちへ説明することになった。
場所は村長宅の広間。
王都から来る者たちがどこを見るのか。
誰がどこで話すのか。
どこまで案内し、どこから先は立入禁止にするのか。
俺は地図を広げて説明した。
「最初に中央井戸を見せます。ここでは、リベル村の水が安定していることと、毎日の記録方法を説明します」
ハルマ村の井戸番が頷く。
「そこで、うちの記録も見せるのかい」
「はい。ハルマ村の濁りがどう変わったかを、必要なら話していただきます」
若い母親が不安そうに手を上げた。
「私は、どこで話せばいいですか」
セリアが答えた。
「井戸のあとがいいと思います。不安だったこと、記録を見て変わったこと。短くて大丈夫です」
「短く……」
「はい。上手に話そうとしなくていいです」
若い母親は少し息を吐いた。
「それなら、何とか」
次に旧水路下流。
トマが説明役になる。
水量板を動かさなかったこと。
底泥を乱さなかったこと。
黒い粒子だけを採ったこと。
トマは練習のつもりで話し始めた。
「えー、ここが旧水路下流で、俺たちは黒いやつを取ったんだけど、水量板は触らず――」
ダリオさんが止める。
「“黒いやつ”は少し雑だな」
「黒石祠由来残滓?」
「それだと急に硬い」
「じゃあどうしろと」
ニコルが助け舟を出した。
「“黒石祠由来と思われる黒い粒子”でどうでしょう」
「長い!」
「でも分かりやすいです」
トマは練習し直した。
「黒石祠由来と思われる黒い粒子を、流れを変えずに採りました。水量板は触ってません」
北沢の井戸番の女性が笑った。
「最後だけ妙に力が入ってるね」
「そこ大事なんで」
「なら、それでいいんじゃないかい」
その次が薬草予定地。
ここはセリアが説明する。
薬草の芽を見せる。
ただし、柵の外から。
土壌保持線の説明はしすぎない。
土の湿りを見てもらい、ミード村の止血草の記録と合わせる。
セリアは少し緊張していた。
「私が説明すると、神殿の講義みたいになりませんか」
トマが首を傾げる。
「神殿の講義ってどんな感じ?」
「難しくて、眠くて、怒られる感じです」
「それは嫌だな」
リーゼさんが言った。
「今のセリアの説明は、そうではない」
「本当ですか」
「ああ。芽に話しかけるくらいだからな」
「それは説明とは違います」
「でも、分かりやすい」
セリアは困ったように笑った。
最後に、中枢室記録。
ここは、俺とダリオさんが説明する。
ただし、王都の監査員を地下工房へ入れるかどうかは、当日の人員を見て決めることになった。
全員を入れるのは危険だ。
地下工房は狭い。
中枢室は黒石祠本体の反応も受ける。
見せるとしても、代表者のみ。
残りには写しを見せる。
リーゼさんが言った。
「侯爵家代理人が来た場合、地下工房へは入れない」
「同意です」
俺は頷いた。
「王都行政庁、防衛局、外部監査員の代表者まで。侯爵家側は写しで確認してもらう形が安全です」
トマが言う。
「文句言いそう」
「言うでしょうね」
ダリオさんがあっさり答えた。
「でも、安全上の線は譲らない。黒石祠本体に関わる中枢室だ。好奇心や文句で入れる場所じゃない」
村長も頷いた。
「譲らぬ線は、先に決めておく。現場で揺れるな」
その言葉で、皆の表情が引き締まった。
夕方、周辺村の代表たちは、リベル村に泊まることになった。
五日後の本番まで一度戻る者もいるが、ハルマ村の井戸番と北沢の井戸番は、明日の確認練習まで残るという。
ミードの孫娘も、セリアと薬草予定地を見たいと言って残った。
村長宅と空き家、そして治療所の一室に寝床を用意する。
トマは井戸番の老人を案内しながら言った。
「すごいことになってきたな」
「何がだい?」
「王都の人が来る前に、周辺村の人がリベル村に泊まってる」
老人は少し笑った。
「井戸が繋いだんだろう」
「井戸が?」
「水が悪くならなきゃ、こんなに集まらなかった。妙な話だが、水が不安になったから、顔を合わせることになった」
トマはしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「黒石祠に感謝はしないけどな」
「そりゃそうだ」
老人は笑った。
「だが、悪いことが全部悪いまま終わるとは限らん」
その言葉は、トマの中に残ったようだった。
夜、広間にはいつもより多い人数が集まった。
リベル村の汁物が配られる。
豆と根菜の汁。
ダリオさんが当然のように二杯目を受け取り、北沢の井戸番に「豆が好きなのかい」と聞かれて、真顔で「村を支える食材だ」と答えていた。
トマが横で吹き出し、リーゼさんに睨まれた。
緊張はある。
けれど、同じ椀を持つと、人は少し近くなる。
王都の紙では作れない距離だった。
その夜、俺は地下工房で記録を書いた。
『現地公開確認に向け、周辺村代表が来村。
ハルマ村井戸番、若い母親。北沢集落井戸番。ミード村薬草係代理の孫娘。
各村の記録原本、土袋、止血草葉の写し絵を確認。
ニコルは“整えすぎると弱くなる”と発言し、周辺村証言・原文記録を作成開始。
現地確認の案内順を再確認。中央井戸、旧水路下流、薬草予定地、封印記録、中枢室記録。
水土見守り基点および黒石祠本体への立入は制限。侯爵家代理人が来た場合、地下工房立入は認めない方針』
筆を止める。
広間から、まだ少し話し声が聞こえる。
ハルマ村の井戸番。
北沢の井戸番。
ミードの孫娘。
リベル村の村人たち。
同じ問題に巻き込まれた者たちが、同じ屋根の下で汁物を飲んでいる。
黒石祠が作ったのは命令線だった。
でも、今ここにあるのは違う。
命令ではなく、顔を合わせる線だ。
俺は最後に書いた。
『きれいすぎる証言は、弱くなる。
王都の紙には王都の形が必要だ。
けれど、井戸番の言葉、母親の不安、薬草を見る人の線まで削ってしまえば、現地の強さが消える。
明日からは、記録を整えるだけでなく、言葉を残す作業になる。
リベル村は、紙だけでなく声を集め始めた。』
地上では、水車が回っている。
その音に、今夜は他村の寝息も混じっている。
王都が来る前に、リベル村にはもう、周辺村の声が集まり始めていた。




