第10話 辺境村の結界修復
地下工房から運び出した予備結界石は、朝の光を受けて淡く青く光っていた。
倉庫前の広場に並べられた石は全部で六つ。大きさは人の頭ほどで、表面には細い文様が刻まれている。古いもののはずなのに、泥や埃を拭き取ると、まだ芯に力が残っているのが分かった。
「これがあれば、結界は直るのか?」
トマが腕を組んで石を眺めている。
「直る、というより、安定させられます。外周柱そのものは傷んでいますが、この結界石を補助に使えば、反転していた流れを抑えられるはずです」
「つまり、魔物を呼んでたやつを止められる?」
「はい。少なくとも、今よりずっとましになります」
「昨日よりまし、だな」
トマがにやりと笑った。
いつの間にか、その言葉が村の合言葉のようになっている。
セリアは治療所の準備を終えて、こちらへ来た。手には清水の入った小瓶と、白い布を持っている。
「怪我人が出た時の準備はできました」
「ありがとうございます。セリアも無理はしないでください」
「はい。今日はレオンさんもです」
「分かっています」
そう答えると、彼女はじっと俺を見た。
「本当に?」
「……努力します」
「努力だけではだめです」
トマが横で笑う。
「完全に監視されてるな」
「最近、誰も俺を信用してくれません」
「信用してるから心配してるんだろ」
何気ないトマの言葉に、少し返事が遅れた。
信用しているから心配する。
勇者パーティーにいた頃、俺が誰かを心配することはあっても、俺自身を心配されることはほとんどなかった。だから、まだ慣れない。
「……そういうものですか」
「そういうもんだろ」
トマは当然のように言い、結界石を担ぎ上げた。
「で、まずどこからだ」
「東柱です。一番ひどい場所なので」
村人たちは、もう昨日までのように戸惑ってはいなかった。
石を運ぶ者。
木柵を補強する者。
水路の状態を見る者。
治療所で待機する者。
子供たちを安全な場所へ集める者。
それぞれが自分の役目を持って動いている。
昨日までは、壊れた村を俺が見ていた。
今日は、村人たち自身が村を見ている。
それだけで、作業の進み方はまるで違った。
東柱へ着くと、昨日仮固定した石柱が淡く光っていた。だが、近づくとまだ黒ずんだ筋が残っている。完全に浄化できていない証拠だ。
《東柱》
《状態:仮復旧》
《反転波形:残存》
《魔物誘引反応:低》
《推奨:補助結界石接続》
「ここに予備石を繋ぎます」
俺は地面に円を描き、結界石を置く位置を示した。
「柱そのものを無理に直すのではなく、横から支える形にします」
「折れた足に添え木をするみたいですね」
セリアが言った。
「そうです。かなり近い」
「なら、急に走らせてはいけませんね」
「はい。結界も慣らし運転が必要です」
セリアは真面目に頷いた。
「分かりました。弱く、長く、ですね」
彼女の理解は早い。
自分の魔力を制御する感覚が、少しずつ修復の補助にも使えるようになっている。
作業が始まった。
トマたちが東柱の周囲を掘り、結界石を半分だけ地中に埋める。俺は修復針を使い、柱と石の魔力線を繋いでいく。
修復針は、驚くほど手に馴染んだ。
細い銀色の針先を石に当てると、内部の魔力の流れがよりはっきり見える。どこが詰まり、どこが逆流し、どこへ逃がせばいいのか。まるで暗い部屋に灯りを入れるようだった。
「セリア、今です」
「はい」
彼女が清めた水を石に垂らす。
白い光が結界石へ染み込み、青い文様がゆっくり明るくなる。
黒ずんだ筋が、じわじわと薄れていく。
《補助結界石:接続》
《東柱:安定化》
《反転波形:低下》
《魔物誘引反応:極低》
「よし……」
思わず声が漏れた。
トマが顔を上げる。
「どうだ」
「かなり良くなりました。これなら、東側から魔物を呼び込むことはほぼなくなるはずです」
「ほぼ、か」
「完全と言い切ると危ないので」
「その言い方にも慣れてきたな」
トマは笑った。
「でも、信用できる」
その後、南東柱、南西柱へ移動した。
南側の柱は東ほどひどくはなかったが、長年の劣化で結界線が細くなっていた。予備結界石を補助に入れ、地下工房で見つけた古い金具を使って石柱のひびを固定する。
村人たちは手際よく動いた。
昨日までは「どこを持てばいい」「何をすればいい」と聞いていた人たちが、今日は先に道具を用意し、石を支え、危険そうな場所に布を巻いている。
何度も言うが、派手な作業ではない。
魔法で一瞬にして結界が蘇るわけでもない。
泥に膝をつき、石を運び、汗を拭い、何度もやり直す。
だが、その積み重ねが村を変えていく。
昼過ぎ、南西柱の接続が終わった時だった。
村の外側に、薄い光の膜が一瞬走った。
東から南へ。
南から西へ。
見えないはずの結界線が、青白い糸のように浮かび上がる。
村人たちが息を呑んだ。
「今の、見えたか」
「見えた」
「村を囲んでた……」
セリアが両手を胸の前で握る。
「綺麗です」
「まだ弱いです。でも、繋がっています」
俺の視界に表示が浮かぶ。
《リベル防衛結界:第一層安定化》
《外周防護:低位展開》
《魔物誘引反応:消失》
《結界安定率:五十三%》
五十三%。
中枢室の開放条件を超えた。
「レオンさん?」
セリアが俺の顔を見る。
「地下工房の中枢室が開けられるかもしれません」
「本当ですか」
「はい。結界安定率が五十%を超えました」
トマが斧を肩に担ぐ。
「じゃあ、すぐ戻るか」
「いえ」
俺は首を横に振った。
「今日はここまでです」
トマとセリアが、同時に目を丸くした。
「お前が自分から休むって言ったぞ」
「珍しいですね」
「俺を何だと思ってるんですか」
「放っておくと倒れるまで働く先生」
トマが即答する。
「人の怪我は見るのに、自分の顔色は見ない人」
セリアも続ける。
「ひどい評価ですね」
「だいたい合ってるだろ」
否定できないのがつらい。
だが、今日は本当に無理をするべきではないと思っていた。
中枢室には、何があるか分からない。
疲れた状態で開けるべきではない。
「中枢室は明日見ます。今日のうちに村全体の結界が安定しているか確認して、夜に異常がなければ」
村長にそう報告すると、彼は満足そうに頷いた。
「良い判断だ」
「意外そうですね」
「少しな」
「村長まで」
「冗談だ」
村長は淡く光る外周を見た。
「しかし、こうして見ると……儂らの村は、守られていたのだな」
「はい」
「そして、長く壊れていた」
「……はい」
村長はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言う。
「壊れていることに気づかぬまま生きるのは、怖いものだな」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
村だけではない。
人も、組織も、仲間も。
壊れていることに気づかず、ある日突然折れる。
カイルの聖剣のように。
夕方、治療所には小さな列ができていた。
結界修復作業で擦り傷を作った者。
重い石を運んで腰を痛めた者。
疲れた子供。
セリアは一人ひとりを丁寧に診ていた。大きな治癒魔法は使わない。小さな光で痛みを和らげ、傷を洗い、布を巻く。
その横で、村の女性たちが手伝っている。
「セリア、次はこの子だよ」
「はい。転んだんですね」
「うん。でも泣かなかった!」
「偉いですね」
セリアが小さく光を灯すと、子供の膝の赤みが少し引いた。
「すごい!」
「でも、今日は走らないでください」
「えー」
「走ったら、明日もう一度洗います」
「それはやだ」
子供が真剣に頷き、周りの大人たちが笑う。
セリアもつられて笑っていた。
最初に会った時、彼女は自分の力を恐れていた。
今は、その力で子供を叱っている。
大きな変化だった。
「見すぎです」
セリアがこちらを見ずに言った。
「すみません」
「心配ですか?」
「少し」
「大丈夫です。今日は無理をしていません」
「本当に?」
「本当です。レオンさんよりは」
「その比較はずるいですね」
周りの女性たちが笑った。
俺は少し居心地が悪くなり、治療所を後にした。
村の入口へ向かうと、修理した弓を持ったトマたちが見張りをしていた。
「結界が戻ったのに見張りですか」
「結界が戻ったからって、人が寝てたら意味ないだろ」
「頼もしいですね」
「昨日よりまし、だ」
トマは弓の弦を軽く弾いた。
「弓も昨日よりまし。村も昨日よりまし。俺たちも、まあ昨日よりはましだろ」
「十分です」
「十分か?」
「はい。壊れたものは一気には直りませんから」
「お前、本当に修理屋みたいなこと言うな」
「修復鑑定士らしいので」
「そうだったな」
トマは森の方を見た。
「なあ、先生」
「先生は」
「今だけだ。聞け」
その声が少し真面目だったので、俺は言い返すのをやめた。
「王都の連中が来たら、どうする」
「王都の?」
「商人が噂を持っていった。勇者パーティーの連中も、お前を探してるかもしれない。神殿だって、セリアのことを聞けば黙ってないかもしれん」
「……そうですね」
避けていた問題だった。
でも、避け続けられるものではない。
「正直、まだ決めていません」
「戻りたいのか」
トマの問いは、遠慮がなかった。
それがありがたかった。
「分かりません」
「嫌だったから追放されたんじゃないのか」
「嫌だったというより……自分の居場所じゃなかったんだと思います」
口にして、少し納得した。
勇者パーティーにいた時間が全部無駄だったとは思わない。
学んだことも、助けられたこともあった。
でも、あそこでは俺の力は正しく見られていなかった。
俺自身も、自分を正しく見られていなかった。
「ここは?」
トマが聞く。
「ここは居場所か?」
すぐには答えられなかった。
井戸の音。
水車の音。
セリアの笑顔。
村人たちの「先生」という呼び声。
それらを思い出す。
「……そうなり始めている気がします」
トマは満足そうに笑った。
「なら、そう言えばいい」
「誰に」
「連れ戻しに来た奴らに」
その言葉は、冗談のようで冗談ではなかった。
夜。
王都からリベル村へ向かう街道では、一台の馬車が走っていた。
乗っているのは、勇者カイル、賢者マリウス、魔導士エレナ、聖騎士ガレス。
馬車の中は重い沈黙に包まれている。
カイルは腕を組み、窓の外を睨んでいた。腰には、聖剣ではなく代用の魔剣がある。神殿鍛冶師から借りたものだが、本人は明らかに気に入っていない。
エレナは杖を膝に置き、宝玉の濁りを見つめていた。
ガレスは鎧の肩当てを外したまま、補強具を手でなぞっている。レオンが付けたものだ。
マリウスだけが地図を開いているが、視線は何度も同じ場所を行き来していた。
「リベル村までは明日の昼前だ」
マリウスが言う。
「思ったより遠いわね」
エレナが答えた。
「辺境だからな。魔物被害も多いらしい」
「そんな場所に、レオンはいるのね」
カイルが不機嫌そうに言う。
「あいつは昔から、自分の立場が分かっていない」
エレナは顔を上げた。
「立場って何?」
「勇者パーティーの鑑定士だ」
「もう違うわ。私たちが追放したんだから」
「一時的なものだ」
「本気でそう思っているの?」
カイルは答えない。
ガレスが低く言った。
「カイル。着いたら、まず謝れ」
「命令するな」
「命令じゃない。忠告だ」
マリウスが苛立ったように紙を畳む。
「謝罪より先に、状況確認だ。彼がまだ使える状態か、能力に問題はないか、村で何をしているか」
「使える状態?」
エレナの声が冷たくなる。
「マリウス、あなたまだそんな言い方をするの?」
「事実だ。必要なのは戦力の回復だ」
「レオンは道具じゃないわ」
「君は急に善人になったつもりか」
エレナは言葉に詰まった。
善人ではない。
自分も彼を軽く見ていた。面倒な鑑定士だと、何度も思った。
だからこそ、今さら綺麗な顔はできない。
「善人じゃないから、せめて間違ったことを認めたいのよ」
馬車の中が静まり返った。
カイルは窓の外を見たまま、低く言った。
「あいつは戻る」
誰も返事をしなかった。
同じ夜、リベル村は静かだった。
結界の薄い光が村を包み、森から遠吠えは聞こえない。水車の音も、夜の間は止めてある。井戸の水面だけが、月明かりを静かに映していた。
俺は空き家の前に立ち、村を見ていた。
昨日までより、夜が怖くない。
それは結界のせいだけではない気がした。
「レオンさん」
セリアが小さな灯りを手にやって来た。
「眠れませんか」
「少し」
「明日の中枢室が気になりますか」
「それもあります」
「他にも?」
「王都のことを考えていました」
セリアは少しだけ表情を曇らせた。
「勇者パーティーのことですか」
「はい」
「戻りたいですか」
トマと同じ質問だった。
けれど、セリアの声は少し違った。
怖がっているわけではない。引き止めようとしているわけでもない。
ただ、俺の本心を聞こうとしている。
「まだ分かりません。でも」
「でも?」
「少なくとも、今すぐ戻りたいとは思っていません」
セリアはゆっくり頷いた。
「よかった、と思ってしまいました」
「よかった?」
「はい。すみません。勝手ですね」
「勝手じゃないです」
俺は村の方を見る。
「俺も、ここを途中で放り出したくないと思っています」
セリアは少し嬉しそうに目を伏せた。
「明日、中枢室が開いたら、この村はもっと直せますか」
「たぶん」
「私も、もっと自分の力を直せますか」
「必ずとは言えません。でも、手がかりはあるはずです」
「なら、頑張ります」
「無理はしない範囲で」
「はい。レオンさんも」
「はい」
その約束を何度したか、もう分からない。
でも、何度でも必要なのだろう。
翌朝。
リベル村の倉庫前には、村長、トマ、セリア、そして俺が集まっていた。
地下工房の入口を開く。
階段の下から、青白い光が漏れる。
昨日は閉ざされていた中枢室。
その扉の前に立つと、表面の紋章が淡く光った。
《結界安定率:五十四%》
《条件達成》
《上位権限者:修復鑑定士》
《中枢室:開放可能》
俺は修復針を手に取る。
セリアが隣に立つ。
「行きましょう」
「はい」
扉に針を当てると、低い音が響いた。
そして、中枢室の扉がゆっくりと開き始めた。
その同じ頃。
リベル村へ続く街道の先に、一台の馬車が近づいていた。
村の見張り台にいた少年が、それに気づく。
「馬車だ!」
その声が、朝の村に響いた。
まだ、誰も知らない。
その馬車に乗っているのが、かつてレオンを「鑑定しかできない無能」と切り捨てた勇者パーティーであることを。




