第9話 町を守る段取り
無人岬から戻った日の午後、尚樹は役宅の床へ大の字になった。
天井の木目がやけに優しく見える。潮風で乾いた服は塩気を残し、焦げた袖は香ばしいを通り越して情けない匂いがした。腕も脚も重い。肩へ飛び乗っていた幼獣だけが元気で、尚樹の腹の上に陣取り、勝手に寝床を決めている。
「もう今日は何もしない。証拠は拾った。海獣も助けた。俺の勤労は年内ぶん終わった」
きゅう、と幼獣が短く鳴いた。
「異議は認めない」
言い終わったところで、戸が開いた。
茉奈が無言で立っていた。その後ろから晃治が帳面を抱えて顔を出し、さらに槙までいる。嫌な並びだった。
尚樹はゆっくり起き上がり、腹の上の幼獣を抱え直した。
「なんだ、その『怠け者の昼寝はここまでです』みたいな面子」
「だいたい合っています」
晃治が即答した。
「記録石を読み返しました。設備の配置も、輪の刻印も、かなりまずいです。向こうが岬の沈黙に気づけば、痕跡を消しに動きます」
「今日じゃなくて明日でもよくないか」
「明日には遅いかもしれません」
茉奈の声は静かだったが、そこに迷いはなかった。
槙は戸口にもたれたまま腕を組む。
「今夜、残る者を集める。証拠を見せる必要はないが、備えの理由は説明せねば動きが揃わん」
「つまり会議か」
「会議だ」
「俺、洞窟で燃えかけたんだが」
「だからだ。燃えかけた者の話は通る」
ひどい理屈なのに反論しにくい。
尚樹は幼獣の頭を撫で、深く息を吐いた。休みたい気持ちは本物だった。だが岬の洞で見た拘束具と術式輪を思い出すと、床へ戻る気にもなれない。あれを置いていた連中が、証拠だけ失って黙って引き下がるようには見えなかった。
「……分かった。せめて水くれ」
「もう用意しています」
茉奈は卓へ湯冷ましの壺を置いた。最初から起こして働かせる気満々だったらしい。
*
日が西へ傾く前、診療所の広間に町の者が集まった。
集まったといっても大人数ではない。旧港を守る漁師夫婦、塩田を手伝う老人、湯屋を再開してから行き来が戻った女たち、香莉の工房へ出入りする若者、見回りに回る槙の元部下たち。踏みとどまってきた顔ぶれが、壁際の長椅子と床机を埋めている。
炊き出しの鍋からは、里未が放り込んだ海藻と芋の匂いが立っていた。話が重くなりすぎないように、茉奈が先に腹へ入れる算段をしたのだろう。こういう時の段取りだけは、町の誰もが自然に揃う。
尚樹は前へ出る前に小声で言った。
「俺、こういうの苦手なんだけど」
「知っています」
晃治が冷静に返す。
「ですが、臨時代官が出ないと『やばい』が『かなりやばい』になります」
「励ましてるのか脅してるのか統一しろ」
槙が背を軽く押した。
「どのみち話せ」
押し出されるようにして前へ立つ。
視線が集まった。歓迎よりは、聞いてやる、という種類の目だった。ここに来たばかりの頃なら、それだけで足が止まっていただろう。だが今は、鍋の湯気の向こうに、干物小屋で笑った顔や詩会で灯を持った顔が混じっている。
尚樹は咳払いを一つした。
「まず先に言っておく。ここ数日の自然発火まがいの件、ただの潮の気まぐれじゃない」
広間が静まる。
「岬の先で、昔この土地に置かれていた設備を見つけた。棕櫚狐や海獣の熱を無理に抜いて、火を暴れさせるための道具だ。怪異が全部人の仕業とは言わない。でも少なくとも、誰かがこの町を危ないままにしたがっていたのは確かだ」
ざわめきが起きた。
老人の一人が顔をしかめる。
「また中央か」
「中央の中の、もっと性質の悪い連中だと思ってくれ」
尚樹は答えた。
「証拠はある。だが今ここで王都へ駆け込んで、明日には全部片がつく、みたいな都合のいい話じゃない。向こうが黙るとも思ってない。だから今日は、戦うためじゃなく、生き残るための段取りを決める」
その言い方に、何人かの肩から少し力が抜けた。
槙が前へ出て、卓へ木片を並べた。港、役宅、診療所、塩田、工房、旧倉庫。町の主な場所を示した簡単な模型だ。
「やることは四つだ」
槙の声は短く、だが通った。
「火を広げない。食い扶持を切らさない。怪我人をすぐ抱える。狐を奪わせない」
香莉が広間の隅で頷く。里未は鍋をかき混ぜる手を止めず、茉奈はすでに紙へ必要物資を書きつけ始めていた。
話し合いは、思ったより早く動いた。
誰がどこの見回りを増やすか。
夜の灯りをどこまで落とすか。
子どもと足の遅い者を先にどこへ寄せるか。
乾燥食をどこへ隠すか。
棕櫚狐の群れを散らさず守るには、どの浜を空けておくか。
住民たちは怖がりながらも、逃げ腰にはならなかった。ここを守ると決めて何年も踏みとどまってきた人間ばかりだ。やることが具体的なら、手は動く。
逆に尚樹は、具体的になるほど逃げたくなっていた。
「量が多いな……。俺の担当、何個ある」
「多いですね」
晃治が容赦なく言う。
「まず旧塩田の図面を出してください。火除けの水路を作れるか見ます」
「そんな都合よくあるか?」
「あるかどうかは鞄次第です」
銀色の鞄は、尚樹の椅子の横で何事もなかった顔をしていた。最近、この鞄に対して腹を立てるのも少し飽きてきた。都合よく助かる時だけ返事をし、こちらの覚悟が足りない時は黙る。性格の悪い相棒に近い。
広間の隅へ鞄を引き寄せ、尚樹はしゃがみ込んだ。
「今ほしいのは、旧塩田の図面。燃え広がる前に海水を回せる道筋が分かるやつだ」
留め金は最初、ぴくりとも動かなかった。
尚樹は眉をひそめる。
「なんだよ。条件が雑だと出さないのか」
隣へ来た里未が、桶を床へ置いた。
「水を流すだけじゃ足りない」
彼女は模型の塩田を指で弾く。
「今の塩田は半分しか生きてない。昔のまま水を入れたら、逆に町へ塩水が溜まる。必要なのは、どこを湿らせて、どこを乾かしたまま逃げ道にするか、そこまで分かる図」
香莉も近づき、小さく言った。
「狐の通り道も」
茉奈が続ける。
「診療所へ運ぶ道はぬかるませないでください」
槙は腕を組んだまま付け足した。
「見回りの交差も要る。暗い中でぶつかれば火より先に混乱する」
注文が多い。
だが、そのどれも外せなかった。
尚樹は鞄の取っ手を握り直した。
「……分かった。今必要なのは、町を濡らしすぎず、燃やさず、逃げ道と運ぶ道と狐の通り道まで分かる、昔の塩田と海水路の図面だ」
留め金が、かちりと鳴った。
口が開き、巻物が三本、帳面が一冊、真鍮の小箱が一つ転がり出る。
晃治が息を呑む。
「出ましたね」
「出たな……」
巻物を開くと、古い無人汀領の地図だった。今は埋もれている支水路まで、細い墨線で描かれている。塩田の仕切り板の位置、海水を引く刻限、潮位の印、さらには『棕櫚狐は昼寝の邪魔をすると噛む』など、妙に生活感のある書き込みまであった。
「誰が残したんだ、これ」
晃治が目を走らせる。
「筆跡は複数あります。代々、使い継いだのでしょう。最後の追記は……三年ほど前です」
茉奈が地図の端を押さえ、目を細めた。
「この字、兄に似ています」
その一言で、広間の空気が少し変わった。
遼真は洞の奥だけではなく、町へ戻すための手筋まで残していたのだ。遅すぎる手助けかもしれない。だが今は、それが確かにここにある。
里未はもう泣かせる暇も与えず、地図の上へ指を滑らせた。
「なら使う。ここ、旧干物小屋の裏。水門が埋まってるけど、掘れば生きる。こっちは診療所の南。細いけど、湿り帯にできる」
槙が模型へ木片を足しながら言う。
「水路を戻せば、火が直線で走りにくくなるな」
「夜のうちに全部は無理だ」
里未は首を振る。
「でも、三本だけでも繋げば違う。火は乾いた道を好むから」
尚樹は地図を見下ろした。
これだ、と分かる線があった。町を豊かにする大計ではない。王都へ胸を張る成果でもない。ただ、燃える前に海水を通し、人が逃げる隙を作る道筋だ。
そういう具体さは、妙に腹へ落ちる。
「やるか」
「やってください」
茉奈が即答した。
「返事が早すぎる」
「遅いよりずっといいです」
*
翌日から町は、戦の備えというより、大きな冬支度みたいな忙しさに包まれた。
朝一番で、槙が見回り組を二つに分けた。ひとつは外周を回って灯と煙を監視する組、もうひとつは町中の避難誘導を担う組だ。鐘を鳴らす回数、浜へ下ろす者と診療所へ運ぶ者の振り分け、夜中に子どもを起こす順番まで決めていく。
「戦う前に、迷わないことだ」
槙は若い兵へ何度もそう言った。
「剣は後でいい。まず誰を抱えてどこへ走るか、足に覚えさせろ」
その指示を聞きながら、尚樹は少しだけ感心した。元領兵隊副長という肩書は伊達ではないらしい。怒鳴る声は怖いが、怖がらせるためではなく、迷いを削るために使っているのが分かる。
里未は浜と塩田を行き来し、備蓄の指揮を取った。
焼き上げた塩、乾かした魚、海藻、芋、固焼きの薄餅。食べ物は散らして置くと湿気と火にやられるため、三か所へ分けて隠す。倉庫が一つ焼けても他が残るように、という理屈だった。
「全部まとめるのがいちばん楽なんだけどな」
尚樹が荷を運びながらぼやくと、里未は砂を払って言う。
「楽な置き方は、燃えた時いちばん泣く」
「身に沁みる言い方するな」
「泣きたくなかったら手を動かす」
容赦がない。
だが彼女の指示で干物小屋の床下まで使うと、思った以上に量が入った。尚樹の『できれば一か所に寄せて管理したい』という怠け心を、里未は『一か所が駄目になっても生きる置き方』へ矯正していく。
茉奈は診療所の中を丸ごと組み替えた。
待合の長椅子を壁際へ寄せ、中央へ簡易の寝台を三つ。棚には火傷用の軟膏、煙を吸った者へ飲ませる薬湯、熱を下げる布、乾燥した麦粥の素、塩水を薄めた飲み水。外から来た者がすぐ座って温まれるよう、入口脇には湯を張った桶まで用意する。
「ここ、前より湯屋みたいだな」
尚樹が覗くと、茉奈は布を畳みながら答えた。
「怪我人は冷えるんです。怖い時も、冷えると余計に悪くなります」
「なるほど」
「だから、最初に温めます。それから診る」
彼女の手つきに迷いはなかった。兄の手紙を胸に入れたままでも、茉奈は止まらない。止まらないことでしか保てないものがあるのだろう。尚樹はそれを知って、何も言わずに入口の桶へ水を足した。
香莉の工房では、棕櫚狐用の防具づくりが進んだ。
棕櫚繊維に防湿布を合わせ、胸と背を覆う軽い胴着にする。熱を閉じ込めすぎず、火の粉だけは弾く形だ。動きやすさが大事らしく、香莉は狐を一匹ずつ膝へ乗せ、前脚の幅としっぽの根元の角度を丁寧に見ていた。
「そこまで細かく見るのか」
尚樹が感心すると、香莉は頷く。
「合わないと、走らない」
「人間と同じだな」
「人間より正直」
それは否定できない。
幼獣も試作品を着せられたが、最初は三歩で転び、次に怒って尚樹の袖へ噛みつき、最後は香莉の指示で胴の留めを少しずらしたら、得意げに歩き回った。
「おまえ、案外うるさいな」
きゅう、と胸を張る。要求が通る顔だった。
晃治は広間に机を二つ並べ、帳面と記録石の整理に籠もった。
岬で回収した設備の刻印、術式輪の型、これまで町で起きた自然発火もどきの日時、風向き、潮位。すべてを書き合わせ、どの夜にどの設備が使われた可能性が高いかを洗っていく。
「外へ訴える文がいるなら、整えておかないと」
晃治は墨で汚れた指先を見ずに言う。
「口で『怪しい』と言うだけでは負けます。向こうはもっと整った言葉で潰してきますから」
「嫌な慣れ方してるな」
「嫌でも覚えます」
紙の上では晃治がいちばん冷たく見える。だが冷たさは臆病さの裏返しでもあり、その臆病さが今は確実に町を助けていた。
そして尚樹は、地図を片手に里未と一緒に古い海水路を掘り返していた。
旧干物小屋の裏手、診療所の南、役宅と工房の間。埋もれた溝をさらい、腐った板を抜き、石をどける。潮位の高い刻限に合わせて仮の堰を外すと、細い海水がするすると入り込み、乾いた地面を帯のように濡らした。
「おお」
尚樹は思わず声を上げた。
たったそれだけなのに、町の景色が変わって見える。火を止めるための線が、目に見える形で通ったのだ。
里未は腰を伸ばし、目を細めた。
「ここが生きれば、旧倉庫から診療所へ火が跳びにくい」
「役宅は」
「その時は諦める」
「諦めが早い!」
「代官は足がある。診療所と倉庫は足が遅い」
あまりに正しいので、尚樹は反論を飲み込んだ。
夕方には、町のあちこちに濡れた帯が走った。塩田から引いた細い水路は、普段なら見向きもされない地味な工夫だ。けれど火種を見る目には、その湿りが赤い熱の道筋を寸断する線としてはっきり見えた。
尚樹は少しだけ安堵した。
派手な術ではない。英雄譚にもならない。だが、こういう地味な線の方が、自分には扱える気がした。
*
三日後の夜、最初の避難訓練が行われた。
訓練といっても、鐘を鳴らし、灯を落とし、寝台の人間をどう運ぶか試すだけである。だがやってみると問題だらけだった。
子どもが途中で泣く。老人が「自分は歩ける」と意地を張る。狐が面白がって先頭を横切る。若い兵が焦って同じ道へ集まり、工房の前で渋滞する。
「駄目だなこれ」
尚樹が額を押さえると、槙は逆に口元を緩めた。
「駄目な場所が分かっただけ上出来だ」
茉奈は泣いた子の背を撫でながら、穏やかに言う。
「次は最初に温かい布を持たせます。真っ暗だと、それだけで怖いですから」
香莉は狐を一匹抱え上げ、真顔で告げた。
「こっちは鈴」
「鈴?」
「狐に。先頭を走らせるなら、どこにいるか分かるように」
里未は渋滞した場所を見て、地面へ棒で線を引いた。
「工房前は狭い。荷車をどける。あと、魚籠は今夜じゅうに移す」
晃治は帳面へ欠点を書きつけながら、顔を上げずに言った。
「問題点が二十七あります」
「数えるな」
「数えた方が減らせます」
正論が多すぎる町だ、と尚樹は思う。
けれど誰も、『どうせ無理だ』とは言わなかった。失敗しても、その場で直す。誰かが困れば別の誰かが手を足す。訓練ひとつで、ばらばらだった動きが少しずつ揃っていくのが分かる。
終わる頃には夜も更け、皆へとへとだった。
そのまま解散かと思ったら、里未がどこからか大鍋を運び出した。
「腹減ってると覚えたことも抜ける」
鍋の中は魚のつみれと芋の汁だった。茉奈が薬味を散らし、香莉が焼いた薄餅を籠ごと持ってくる。槙は若い兵へ先に配れと顎で示し、晃治は帳面を閉じてようやく湯気を見た。
尚樹は椀を受け取り、思わず笑った。
「なんで避難訓練のあとに飯が出るんだ」
「次も来てもらうため」
里未が真顔で答える。
「人は、腹が満たされる段取りには付き合う」
「分かりやすすぎる」
槙が椀を持ったまま低く言う。
「だが正しい。守ると言っても、空腹では足が鈍る」
茉奈は尚樹の椀へつみれを一つ多く落とした。
「今日は水路を三本通したので、その分です」
「評価が給仕に直結する仕組み、かなり好きだな」
「明日も働けば、もう一つ増えます」
「餌で使うな」
「効いてますよ」
否定できなかった。
診療所の軒下に皆で腰を下ろし、海風の中で湯気を囲む。誰かが昼の失敗を笑い話にし、若い兵が狐に鈴をつけたら自分の方が追いかけ回されたと嘆き、香莉が『当然』とだけ返し、晃治がそれでも経路改善には役立つと真面目に言う。槙まで一度だけ声を出して笑った。
その輪の端で、尚樹は椀を持ったまま黙っていた。
守ると言うと、大きく聞こえる。
だが実際に自分たちがやっているのは、水路を掘り、乾燥食を分け、毛布を増やし、鐘の回数を決め、訓練のあとに汁を食べることだ。
拍子抜けするほど地味だ。
それでも、こうして一つずつ積んだ地味さが、誰かを生かすのだろう。
茉奈が隣で海を見ながら言った。
「少し、家みたいですね」
「どこの家が夜中に避難経路を確認してから汁を飲むんだ」
「変わった家です」
「それは認める」
茉奈は小さく笑い、椀の湯気へ目を細めた。
尚樹はその横顔を見て、ふと、もう自分は『半年だけ無難にやり過ごす』場所としてこの町を見ていないのだと気づいた。
面倒は増えた。
抱える名前も顔も増えた。
そのぶん、失いたくない物も増えた。
幼獣が足元で丸くなり、鈴を小さく鳴らす。どこかの家からは、水路を試しに流した海水の音がまだ細く聞こえていた。
遠くの沖は暗い。
だが町の中には、火事を恐れて消した灯りとは別の、消えにくい熱が少しずつ増えている。
それを見失わないための段取りなら、たぶんまだ、やっていける。




