第8話 無人岬の捜索
翌朝、尚樹はまだ空が青くなりきる前に叩き起こされた。
役宅の戸を、槙が容赦なく三度叩く。
「起きろ、臨時代官。潮は寝坊を待たん」
「俺は待つぞ……。潮の方が空気を読め……」
布団に顔を埋めたまま呻くと、戸の向こうから間髪入れずに返ってきた。
「読まないから海なんだ」
もっともで腹が立つ。
結局、尚樹は起きた。起きたうえで台所へ行くと、すでに茉奈が握り飯を並べ、晃治が燭台の横で持ち物一覧を確認し、槙は縄と鉤を肩に掛けていた。香莉が幼獣用に作った小さな胴着まで卓の端に置かれている。
幼獣は尚樹の椅子の上を先に占領し、しっぽを丸めてこちらを見た。
「おまえまで行く気か」
きゅ、と短く鳴く。行く気だった。
茉奈は湯気の立つ茶碗を差し出しながら言った。
「食べてください。腹が減っている時の決断はだいたい間違うそうなので」
昨日読んだ手紙の一文だ。
尚樹は茶碗を受け取り、げんなりした。
「死んだ兄に朝から説教されるの、地味に効くな」
「効いているなら結構です」
目の下には、寝不足の薄い影が残っている。けれど茉奈の声は昨日よりずっと平らだった。泣ききったわけではないだろう。ただ、泣くより先にやることがある日に戻ったのだ。
それが彼女らしくて、尚樹は少しだけ安心した。
食後、里未が岬までの潮時を最後に確かめ、香莉が幼獣の胴着の紐を締め直した。
「熱、上がったら引っ張る」
香莉は尚樹へ細い綱を渡す。
幼獣の胴着に結ばれたその綱は、迷子防止でもあり、危険を感じた時に一気に引き戻すための命綱でもあった。
「狐を置いていく案は」
「却下」
茉奈と香莉の声が重なった。
尚樹は黙って綱を受け取る。どうせ最初から通らない案だと思っていた。
無人岬は、町から北へ半刻ほど歩いた先にある。
名のとおり人の寄りつかない岬で、海蝕で削られた黒い岩肌が幾重にも折れ、潮が満ちると細道のほとんどが消える。朝の海はまだ低く唸るだけだったが、足元の石は濡れて滑りやすく、油断するとすぐ靴裏を持っていかれそうだった。
槙が先に立ち、縄を使って危ない箇所を渡していく。晃治は帳面の写しと潮時表を何度も見比べ、茉奈は背嚢の中の薬包と包帯の位置を歩きながら指で確かめていた。
尚樹は最後尾で、幼獣の綱を手に、ひたすら帰りたさを募らせていた。
「どうして手紙の暗号って、だいたい崖の下とか洞窟なんだろうな」
「人に見つかりにくいからでしょう」
晃治が振り返りもせず答える。
「もっとこう、町役場の二番棚とかにしてくれれば平和なのに」
「そんな所に置いたら三日で噂になります」
「だったら壺の底」
「それは里未さんが塩を詰める時に見つけます」
「じゃあ診療所の天井裏」
前を歩いていた茉奈が、肩越しにちらりと見た。
「そこに隠したら、兄さんなら『虫が入る』って言ってやめます」
尚樹は小さく肩をすくめた。遼真という男がだんだん分かってくるほど、会ったことがないのが妙な気分になる。
岬の先端へ着く頃には、朝日が海霧を押し上げ始めていた。
棕櫚林がざわりと鳴り、海からの風が向きを変える。帳面にあった「棕櫚林が北へ倒れる刻」という文の通り、斜面の木々が一斉に陸の方へ葉を伏せた。
その時だった。
幼獣が腕の綱をぐいと引いた。
足元の裂け目へ向かって、低く唸る。
見れば、黒い岩壁の継ぎ目に、潮が引いたことで初めて現れた細い亀裂があった。人一人がやっと横向きで入れるくらいの口だ。外から見れば、ただの影にしか見えない。
「当たりです」
晃治の声が少しだけ硬くなる。
槙が先に身を屈め、短刀で奥の足場を探ってから頷いた。
「通れる。だが戻りの潮が早ければ、帰路は急ぐぞ」
順番に裂け目へ入ると、外の光はすぐ背後で細い線になった。
中は冷たいはずなのに、数歩進んだだけで妙な温みが肌にまとわりつく。湿った岩の匂いに混じって、焦げた毛と古い薬品のにおいが残っていた。尚樹はそれだけで顔をしかめる。
洞の壁面には、ところどころ人工の削り跡があった。自然の洞穴をあとから削り広げたのだろう。さらに奥へ行くと床は平らになり、鉄輪の打たれた柱、腐りかけた木台、割れた硝子管まで現れた。
研究塔の連中が使う道具と、同じ種類のものだった。
「……保護施設、ね」
茉奈が吐き出すように言った。
その言葉の先を見て、尚樹は返事を失った。
壁際に並ぶ低い金具。幼獣なら首が届く高さ、大人の棕櫚狐でもぎりぎり身を起こせない間隔。床には焼けた毛がまだ何筋かこびりつき、排熱用らしい管が天井へ伸びている。
誰が見ても、ここは獣のための場所ではなかった。
尚樹の視界の奥で、赤い火種が滲んだ。
設備のあちこちに、黒ずんだ朱がへばりついている。ただの残り火ではない。命令に逆らうな、逃がすな、もっと熱を引け――そんな声の形を持った、粘つく火だ。見れば見るほど胸が悪くなる。
幼獣は耳を伏せ、尚樹の脚へぴたりと身を寄せた。
「無理に進めるな」
尚樹は綱を短く持ち直す。
槙が前方を確認し、晃治は壁の刻印を紙へ写していた。茉奈は一つ一つの金具を見て、唇を噛んでいる。
やがて洞の最奥に、小さな作業台が見つかった。
上に載っていた木箱は朽ちていたが、その下の石板だけは水をかぶっても残っている。中央に掌ほどの透明な石が埋め込まれ、周囲に火を模した術式線が走っていた。
「記録石です」
晃治が身を乗り出す。
「塔式の旧型。熱を与えれば再生するはずです」
「ここでか?」
「長くはもちませんが、確かめる価値はあります」
尚樹は嫌な予感しかしなかった。こういう時の『確かめる価値』は、たいてい面倒と同義である。
それでも、ここまで来て見ないわけにもいかない。
尚樹は火種を見る力を意識し、記録石へ指先を近づけた。石の内側に眠る小さな灯りへ、自分の熱をそっと触れさせる。
最初は何も起きない。
次の瞬間、石の中で青白い火が立ち上がった。
洞の壁に、若い男の影が滲む。
茉奈が息を呑んだ。
「……兄さん」
影は輪郭の粗い幻灯にすぎない。だが、少し肩の落ちた立ち方と、話す前に一度だけ視線を横へ流す癖が、そこにいる誰かを確かに遼真だと教えていた。
『これを見ている相手が茉奈なら、まず謝る。違う相手なら、その相手にも謝る。面倒なものを押しつけた』
記録の声は、紙の文面より少しだけ若かった。
『無人汀領の離火潮は自然現象じゃない。依存火の副産物だ。人や獣の中にある執着を火種にして、命令に従う形へ癖をつける。最初は安心や愛着に似せて入り込み、逆らうたび苦痛を返す。だから、かかった側ほど自分の意思だと思い込みやすい』
晃治の筆が早くなる。
茉奈は一言も発さず、影から目を離さない。
『ここでは棕櫚狐で試験が進められた。熱を貯める獣だから、依存火が定着しやすい。だが、従うようになる代わりに体温の巡りが狂う。怒りも怯えも増幅されて、最後には、自分の熱で自分を焼く』
壁の影が少し乱れる。録った時点ですでに隠れていたのだろう、周囲を窺う気配が混じっていた。
『もし止めるなら、笛や命令役を壊すだけじゃ足りない。奪われた火種を持ち主へ返す道筋が要る。……あと、茉奈。おまえは、人の世話をする時ほど自分の飯を後回しにするな』
そこだけ、遼真の声が少しだけ柔らかくなった。
茉奈の喉がかすかに鳴る。
だが次の言葉を最後まで聞く前に、洞の奥で金属の擦れる音がした。
槙が即座に振り返る。
「下がれ!」
床が震えた。
作業台の足元、海水が溜まっていた窪みの底で、錆びついた輪が回る。誰かが記録石を再生した時に連動するよう仕掛けていたのだ。古い罠が、今さら生き返った。
窪みの海水が一気に赤く発光した。
次の瞬間、何かが飛び出した。
大きさは荷車一台分ほど。魚とも獣ともつかない海獣だった。濡れた背に甲殻めいた瘤が並び、口は裂け、四肢の先には岩へ食い込む爪がある。その全身を、橙と黒の火が縄のように巻いていた。炎そのものが骨に食いつき、無理やり立たせているみたいだった。
海獣が咆哮し、洞の天井から砂と小石が降る。
「これ、洞窟で相手にする大きさじゃないだろ!」
尚樹は半歩下がった。正しい判断だった。だがその半歩だけで終わるあたり、最近の自分はあまり褒められない変わり方をしている。
槙が前へ出る。
「尚樹、右へ寄れ! 茉奈は後方、晃治は記録石を確保しろ!」
海獣の視線が、いちばん熱の強い方へ吸い寄せられるのが見えた。幼獣の尻尾の先が、恐怖で淡く光っている。
最悪だった。
このままでは、あれは棕櫚狐を追う。囮に使えば逃げる隙は作れる。誰の頭にも一度は浮かぶ、最短で最低の手だ。
尚樹の喉元まで「走れ」が上がりかける。
だが綱の先で震える小さな体が、昨夜の井戸端で見た茉奈の濡れたまつ毛と重なった。
ここでまた、守ると言っておきながら別のものを差し出すのか。
それは、さすがに格好が悪すぎる。
「駄目だ」
尚樹は自分に言い聞かせるみたいに吐いた。
「狐は使わない。洞も崩すな。証拠まで埋まる」
「では代案を!」
晃治が珍しく語尾を荒げる。
海獣が突進してきた。槙が横から鉄鉤を打ち込み、進路をずらす。爪が岩を削り、火花が散った。茉奈は幼獣を抱えて後ろへ跳び、背嚢から薬湯の瓶を抜いて炎の薄い部分へ投げつける。蒸気が立ち、海獣の動きが一瞬だけ鈍る。
尚樹はその隙に、火種を見る。
海獣そのものが燃えているんじゃない。
胸の奥、喉の奥、脊の瘤に打ち込まれた三つの火が、外から命令を引いている。本来の体温はその下で怯えて丸まり、痛みに縮こまっていた。
銀色の鞄が、尚樹の腰でかすかに熱を持つ。
「……分かった。今ほしいのは武器じゃない。あれを繋いでる金具を外す道具だ」
留め金が跳ね、鞄の口が開いた。
中から転がり出たのは、柄の短い古びた工具だった。先端が二股に割れ、術式輪の芯を抜くための鍵に見える。見たことはないのに、使い方だけは妙に分かった。
「晃治! あの瘤の金具、外せば止まるか!」
「理屈では!」
「理屈では、か。最高だな!」
最高ではない。だがやるしかない。
尚樹は工具を掴み、海獣の横を走った。逃げたい。心の底から逃げたい。けれど今は、逃げる向きより先に見るものが増えてしまっている。
槙が怒鳴る。
「三つ数えたら頭を下げさせる!」
茉奈が即座に応じた。
「尚樹さん、左の前脚、古傷があります!」
海獣の歩き方を診ていたのだろう。茉奈の声に合わせ、槙が鉄鉤をその脚へ引っかける。痛みで海獣の体勢が崩れ、頭が低くなる。
一つ。
二つ。
三つ。
尚樹は滑る岩を蹴り、脊へ飛びついた。熱い。服の袖が焦げる。だが火種の見える目には、瘤の根元に埋め込まれた黒い輪がはっきり見えた。
「うお、近い近い近い!」
叫びながら工具を差し込む。輪の奥で赤い火が喚いた。逆らうな、と。離れるな、と。誰のものでもない命令が、耳のすぐ横で怒鳴る。
知るか、と尚樹は歯を食いしばった。
自分が言われる分には勝手だが、獣の中にまで押し込むな。
力任せでは抜けない。火の流れが集まる節を探し、工具を半回し、さらに引く。銀色の鞄が掌の熱を少しだけ保ってくれた。
輪が、一つ外れた。
海獣が絶叫する。だが怒りではなく、長い苦痛が裂けた声だった。
残り二つ。
脊を振り落とされそうになりながら、尚樹は喉元の輪へ手を伸ばす。下から槙が体を支え、茉奈が海水を汲んで炎へ浴びせ、晃治が「右へ二寸!」などと役に立つのか立たないのか微妙な指示を飛ばす。
幼獣は茉奈の足元で震えながら、それでも高い声で鳴いた。
その声に、本来の体温の火がわずかに応じる。
尚樹は二つ目の輪も引き抜いた。
最後の輪は胸の奥に埋まり、手が届きにくい。海獣は膝をつき、荒い息を吐く。ここで洞を崩してしまえば、安全だけなら取れる。だがそれでは、この獣ごと依存火の痕跡を潰すだけだ。
尚樹は息を整え、胸の赤い火へ指先を差し向けた。
「返せ」
誰に教わったわけでもない言葉だった。
それでも、銀色の鞄の中に眠る何かと、遼真が残した記録と、自分がこれまで見てきた火種が、同じ方向を示した。
「そいつの熱は、そいつのものだ」
胸の輪へ工具を差し込み、同時に火種の流れを押し返す。
命令の火が軋み、ほどけ、本来の体温へ押し戻される。橙と黒の縄が一瞬だけ宙でねじれ、次いで、潮に濡れた砂みたいに崩れ落ちた。
海獣の炎が消えた。
洞に残ったのは、荒い息と、滴る海水の音だけだった。
誰もすぐには動かなかった。
やがて海獣は大きく身を震わせ、尚樹を振り落とさないよう妙に慎重な動きで顔を上げた。赤く濁っていた目は、深い海藍に戻っている。こちらを一度見て、それから裂け目の奥の海へ身を滑らせた。
最後に尾が水を打ち、暗い潮だまりへ消えた。
尚樹はその場に座り込んだ。
「……もう二度と洞窟の奥で記録石は見ない」
槙が息を吐き、鉄鉤を下ろす。
「次も同じことを言え。生きていれば聞く」
「縁起でもない励まし方やめろ」
晃治は震える指で記録石と外れた輪を布へ包み込み、真顔で言った。
「充分すぎる証拠です。設備、術具、記録、実験個体の痕跡。これで自然現象だとは言わせません」
茉奈は返事をせず、海獣が消えた潮だまりを見ていた。
それからゆっくり尚樹の方へ向き、焦げた袖を見て眉を寄せる。
「手、見せてください」
「え、今そこ」
「今です」
有無を言わせない声だった。
差し出した手の甲には、浅い火傷と擦り傷が走っていた。茉奈は慣れた手つきで薬を塗りながら、小さく言う。
「……ありがとう、ございます」
尚樹は視線を逸らした。
「礼なら、あとで飯を多めにしてくれ」
「それくらいで済むと思ってるんですか」
「違うのか」
「違います。帰ったら説教もつきます」
それを聞いて、ようやくいつもの調子が少し戻る。尚樹は肩の力を抜き、洞の入口の方を見た。
外の光はまだ細いが、満ち潮まで長くはない。
「帰るぞ。証拠も回収した。今日はこれ以上、何か出てきても全部見なかったことにする」
「賛成です」
晃治が即答した。
「私もです」と茉奈も続ける。
槙だけが最後に周囲を見回し、壊せる範囲の管と拘束具だけを簡単に使えなくしてから頷いた。
帰り道、幼獣はずっと尚樹の肩へ前脚をかけていた。怖かったのか、離れる気がないらしい。
裂け目を抜けると、外の光が目に痛いほど明るかった。
海風は冷たく、岬の上では棕櫚林が朝より強く鳴っている。あの洞の中に残っていた悪意の熱が濃かったせいか、外の空気がまるで別の季節みたいだった。
茉奈は歩きながら、胸元の手紙を一度だけ確かめるように触れた。
兄が残したのは、ひどい真実と、遅すぎる言葉と、それでも次へ進むための道筋だった。
尚樹は肩の幼獣が落ちないよう手を添え、岬の下で光る海を見た。
逃げたい気持ちは、相変わらずある。
ただ最近は、その気持ちと同じくらい、連れて帰るべきものの数が増えてきた。
それが面倒で、厄介で、少しだけ悪くないと思ってしまう自分に、尚樹はまだ慣れなかった。




