第7話 君を忘れたふりをした
日が落ちたあとの診療所は、煎じた薬草の匂いと、一日じゅう紙と現場を往復した人間の疲れで満ちていた。
尚樹は長椅子の背へ頭を預けたまま、机の上の『人生和了聴牌』を睨んでいた。睨んだところで頁が勝手に増えるわけではないが、あの題名の軽さを思うと、少しくらい視線で責めても罰は当たらない気がした。
晃治は帳面の写しと原本を並べ、頁の端を順に指で弾いている。眠そうな顔をしているくせに、指先だけは妙に正確だ。茉奈は奥の棚から湯を持ってきて、誰の前にも黙って湯呑を置いた。香莉は夜のうちに数え直した棕櫚狐の頭数を書きつけ、槙は潮時表を窓際で広げている。
帳面の符丁と、塩田脇の石道、夜に増える灯りの数、消えた棕櫚狐の頭数。その照合に一日かかり、皆の声は朝より一段低くなっていた。
帳面に書かれていたことが本当なら、無人汀領で起きてきた火事も失踪も、ただ運が悪かったわけではない。誰かに都合よく数えられ、選ばれ、切り捨てられてきたということだ。そう知ってしまった日の終わりに、普段通りの大きな声など出るはずがなかった。
幼獣が卓の端へ前足をかけ、帳面の後ろ側をしきりに嗅いでいる。
尚樹は湯呑を持ち上げながら言った。
「そこ、飯は出ないぞ」
きゅう、と不満そうに鳴いて、幼獣は後ろ表紙を爪で引っかいた。
晃治の手が止まる。
「……待ってください」
「また何かあったのか」
「頁数は合っているのに、厚みが合っていません」
晃治は原本を持ち上げ、光へ透かした。表紙裏から最後の見返しにかけて、薄く波打つ影が見える。紙を貼り重ねた時の、わずかな歪みだ。
茉奈が身を乗り出した。
「隠し袋ですか」
「たぶん。潮を吸って糊が浮いている」
尚樹は帳面を受け取り、後ろ表紙の縁へ爪をかけた。だが古い糊は意地が悪く、めくれそうでめくれない。力任せにやれば、中の物まで裂ける。
幼獣が待ちきれないように尚樹の袖を噛んだ。しっぽの先がほのかに明るい。
「おまえ、まさか温めろって言ってるのか」
試しに帳面の背へ幼獣の尾先を近づけると、糊の線がゆっくり柔らかくなった。棕櫚狐の熱は火傷する熱さではない。干物小屋ではありがたいが、秘密を剥がすには充分らしい。
香莉が小さく呟く。
「狐の熱で開くなら、兄さんも狐を使ったんだね」
晃治が薄刃の紙刀を差し込み、慎重に表紙裏を持ち上げた。
ぺり、と、乾いた音がする。
中から出てきたのは、帳面と同じ大きさに折り畳まれた一通の手紙だった。封はされていない。紙の端は少し焦げ、角には塩が白く噴いている。それでも、表に書かれた二文字だけは、驚くほどはっきり残っていた。
――茉奈へ
診療所の中から、音が消えた。
尚樹は反射で茉奈を見た。彼女は立ったまま、湯呑を置いた手の位置すらそのままで固まっている。目だけが、紙の上の文字へ吸いついていた。
槙が潮時表を静かに畳み、里未も声を出さずに戸口から身を引く。誰も急かさない。急かせる空気ではなかった。
晃治が手紙を両手で持ち、茉奈へ差し出す。
「読めますか」
茉奈は一度だけ頷いた。けれど受け取った指先は、思ったよりずっと弱く震えていた。
尚樹は立ち上がりかけ、それもやめた。ここで椅子を引く音すら邪魔に思えた。
茉奈は最初の一行を見て、息を止めた。
そのまま、声に出さず何行か追い、三行目で唇を噛む。もう一度最初へ戻り、今度は小さく読み上げた。
「……『君を忘れたふりをした。そうしなければ、おれが見つけたことまで燃やされるからだ』」
紙を持つ手が、かすかに下がる。
誰も口を挟まなかった。
茉奈は続きを見た。読み上げる声は細いのに、途中で一度も途切れなかった。
「『塔の文箱は開かれる。返事の行き先も、使いも、顔も、癖も見られる。おまえに一通返せば、次は町ごと見られる。だから書かない。書かないで、忘れた男の真似をする。恨まれている方が、生きていてくれる確率が高い』」
尚樹は拳を握った。
勝手な理屈だ。だが、理屈としては分かってしまうのが腹立たしい。研究塔が本当にそこまでしていたなら、遼真が家族への文を断った理由にもなる。
茉奈は紙の端を押さえ、次の行を追った。
「『もしこの手紙を読む時が来たなら、たぶんおれは戻れない。戻れなかったとしても、捨てたわけじゃない。おまえが診療所で湯を沸かす手も、町の年寄りの咳も、浜で眠る狐も、忘れた日はない。忘れたふりをしただけだ』」
そこで初めて、茉奈の声が掠れた。
彼女は喉を鳴らして息を継ぎ、もう一度、同じ行を目でなぞった。確かめるように。遅すぎる言い訳なのか、本当に兄の字なのか、何年ぶんもの怒りを通してもまだ信じていいのかを、紙の上で量るように。
尚樹は口の中だけで舌打ちした。
軽口の一つでも飛ばせば、少しは空気が動くのかもしれない。そう思ったが、どの言葉も薄っぺらくて使い物にならなかった。
茉奈はさらに続きを読んだ。
「『帳面の最後の印は、町へ返すための道筋だ。灯りを数えろ。赤い潮の前夜だけ増える灯りを追え。棕櫚林が北へ倒れる刻、岬の裂け目の下に口がある。見つけても、一人で行くな。待ちを一人に負わせるな』」
晃治が息を呑む。
「無人岬の位置指定です」
槙もすぐに言った。
「潮時表と合わせれば、降りられる時刻が絞れる」
だがその実務的な声すら、茉奈の耳には半分も入っていないようだった。
彼女は最後の段を見つめたまま、動かなかった。
やがて唇だけが、ほんの少し笑う形になった。
「……ひどい」
誰へ向けた声か分からないくらい小さい呟きだった。
「ひどいですよ、兄さん。こんなの、今さら読んだら、怒ればいいのか安心すればいいのか分からないじゃないですか」
笑っているはずなのに、まつ毛が濡れている。
尚樹はその顔を見た瞬間、胸の奥で何かが鈍く詰まるのを感じた。茉奈は泣き崩れる方ではない。泣く前に湯を沸かし、怪我人を診て、終わってから一人で片づける方だ。だからこそ、今みたいな笑い方がいちばんきつい。
里未が静かに近づき、茉奈の肩へ手を置いた。
「外、少し歩くかい」
茉奈は首を横に振った。
「大丈夫です。読めます」
大丈夫な声ではなかった。だが無理に奪うのも違うと、皆分かっていた。
彼女は最後まで読み切った。
そこには謝罪と、遅れても必ず町へ返すつもりだった記録のことと、診療所の裏手に植えた薬草が今年も根を張るだろうという、妙に生活じみた一文が並んでいた。最後の締めは、遼真らしいとしか言いようのない不器用さだった。
『怒るなら、生きている誰かと飯を食ってからにしろ。腹が減っている時の決断はだいたい間違う。』
尚樹は思わず天井を仰いだ。
「最後までそれかよ」
茉奈の肩が、小さく震えた。泣いたのかと思ったら、少し遅れて笑い声が混じった。
「……そういうところ、ほんとうに変わらない」
けれど笑いは長く続かなかった。彼女は手紙を胸元へ引き寄せ、診療所の裏口の方へ向いた。
「少しだけ、風に当たってきます」
誰も止めなかった。
戸が閉まり、海から来る夕方の冷たい風が一瞬だけ室内へ入り込む。薬草の匂いが薄れ、その代わり潮の匂いが残った。
晃治は帳面と手紙を見比べ、低く言う。
「位置の手掛かりは充分です。明朝の二刻後、潮が引きます。その時なら岬の裂け目へ降りられる」
「見張りがいる前提で動く」
槙が即座に応じる。
「四人は要るな。狐も連れていく」
香莉は頷き、幼獣の背を撫でた。
「洞の熱、狐の方が先に気づく」
尚樹は返事をせず、裏口を見た。
晃治が一度だけ視線を寄越す。
「……行ってきてください。こちらは準備します」
言外に、今は書記官より臨時代官の役目だと押しつけてくる言い方だった。尚樹はそれに反論せず、外へ出た。
裏手の井戸端に、茉奈はいた。
夕日はもう低い。海霧のせいで輪郭が柔らかく、診療所の白壁も、干した布も、皆どこか濡れた色をしている。茉奈は井戸の石縁へ手を置き、もう片方の手で手紙を握っていた。
泣くなら見ないふりをするつもりで来たのに、彼女は泣いていなかった。
ただ、まつ毛の先だけが夕方の光を受けて濡れている。
尚樹は少し離れた場所で立ち止まった。
「……寒いぞ」
声をかけると、茉奈は振り向いた。
「そうですね」
「中の方がましだ」
「そうかもしれません」
会話になっているようで、半分もなっていない。だが今は、その曖昧さの方が助かった。
茉奈は手紙を見下ろし、笑いそうで笑えない口元のまま言う。
「私、ずっと、捨てられたんだと思ってました」
尚樹は答えなかった。
「町を出た時は手紙が来たのに、途中から急に何もなくなって。噂だけは王都から流れてきて、兄がうまくやっているとか、塔で認められているとか、そういうのばっかりで。だから、兄はあっちを選んだんだと思ったんです。こっちより、研究塔の方が大事だったんだって」
彼女の声に責める調子はなかった。何度も胸の中で言い尽くして、角が削れた言葉だった。
「そう思わないと、待ってしまうから」
尚樹は井戸のそばまで歩き、石縁へ背を預けた。
それでも、何も気の利いたことは浮かばない。
大変だったな、と言うには軽すぎる。よかったな、と言うには遅すぎる。兄さんなりに守ったんだ、などと他人が綺麗にまとめる話でもない。
茉奈は手紙を胸元で折り直した。
「分かってしまうのが、悔しいです。兄なら、たしかにそうするって。嫌われる方を選ぶの、上手だったから」
そこでようやく、尚樹は口を開いた。
「下手だろ」
茉奈が目を上げる。
「守るつもりで黙って、残された方に一年も二年も勝手に考えさせるんだぞ。かなり下手だ」
茉奈の目が少しだけ丸くなり、それから、今度はちゃんと笑った。涙の縁を抱えたままの、細い笑いだった。
「……そうですね」
「腹が立つなら、あとで直接言えばいい」
「直接、ですか」
尚樹は海の方を見た。
無人岬は霧の向こうでまだ形を見せない。だが帳面と手紙が同じ場所を指しているなら、行く先は決まっている。
軽口を叩くなら、ここだろうと思った。どうせまた面倒な場所へ首を突っ込む羽目になったとか、怠け者に洞窟探検をさせるなとか、言おうと思えばいくらでも言えた。
けれど喉元まで来た言葉は、どれも消えた。
尚樹は茉奈を見ずに言った。
「明日、探しに行く」
その一言だけだった。
茉奈はしばらく何も返さなかった。返せなかったのかもしれない。やがて、握っていた手紙をそっと胸へ押し当て、小さく頷く。
「……はい」
風が吹き、干し布が鳴った。
診療所の中からは、槙が誰かを呼ぶ声と、晃治が必要道具を書き上げる声が聞こえてくる。香莉はたぶんもう狐用の胴着を選んでいて、里未は潮の癖を頭の中で並べている。町の夕方は、止まってくれない。
茉奈は袖口で目元を押さえたあと、いつもの調子を少しだけ取り戻した声で言った。
「夕餉、作ります。兄の遺言ですから。腹が減っている時の決断は間違うそうなので」
「本人に言われると腹立つ文だな」
「でも当たってます」
「否定しにくいのがもっと腹立つ」
ようやく、いつもの掛け合いがほんの少し戻る。
それだけで、さっきまで井戸端に張りつめていたものが少し緩んだ。
茉奈は診療所へ戻る前に、尚樹へ手紙を見せた。
「これ、兄の字ですよね」
「そこは俺よりおまえの方が詳しいだろ」
「確認したかっただけです」
「なら、そうなんだろ」
茉奈は頷き、今度こそ裏口へ向かった。
尚樹はその背を見送り、遼真という男に会ったこともないのに、勝手に文句だけは山ほど浮かぶ自分へ気づいた。黙ることで守ったつもりになって、結局はこんな夕方を妹に残した。だが同時に、その黙り方でしか残せなかった物もあったのだろう。
厄介な兄妹だ、と尚樹は思う。
そして、その厄介さを面倒だと感じながらも見捨てきれない自分にも、もうだいぶ気づいていた。
夕餉の支度が始まり、湯の沸く音がした。
尚樹は井戸端を離れ、役宅へ戻る前に一度だけ岬の方を見た。霧の向こうに、赤みはない。だが帳面の印も、手紙の文も、同じ裂け目を指している。
次は、紙の上ではない。
潮と岩と、残された火種のある場所だ。
その入口に何が待っているにせよ、もう『知らなかった』では済まないところまで来ていた。




