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怠け者次男は銀色の鞄で辺境を温める  作者: 乾為天女


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第6話 人生和了聴牌

 『ピンク色の嘘』が町じゅうで笑い話になってから二日、尚樹は役宅の机へ肘をつき、笑っている場合ではない現実と向き合っていた。


 机の上には帳面が山になっている。


 棕櫚狐の仮管理簿。干物小屋の出入り表。塩田の持ち回り表。診療所の消耗薬一覧。見回り番の交替記録。晃治はそれらをきっちり分けて積み、さらに横へ空の紙束まで置いていた。


 「これ全部、後日提出する候補です」


 「候補って言い方に嫌な希望が混じってるな」


 「正確には、提出しても痛手が少ない物から順番に並べています」


 「もっと嫌だな」


 尚樹は紙束の端を指で弾いた。潮を吸った帳面は少し波打っている。中身はどれも暮らしのために必要な記録だが、研究塔や監理院へ素直に渡して喜ばれる種類ではない。人手、獣の数、夜の見回り線、食料の減り具合。そういうものは、守る側の手札でもある。


 窓の外では、干物小屋の棚を入れ替える音がしていた。香莉の工房からは、織機の小さな軋みも聞こえる。診療所の方では茉奈が誰かを叱る声がして、その直後に老人の笑い声が上がった。港は動いている。動いているからこそ、机の上の紙がただの紙では済まない。


 「虚偽の診断書で三日稼いだのはいいとして」


 尚樹は背もたれへ身を預けた。


 「三日後に本物の査察が来たら、次はどうする」


 晃治は羽根筆の先を整えながら答えた。


 「同じ嘘は使えません。ですので、本当の記録を揃えます」


 「急に正攻法だな」


 「前回が反則だっただけです」


 そこへ、戸を足で押して里未が入ってきた。両腕に塩袋を抱えたまま、机の帳面の山を見て笑う。


 「港の魚より紙の方が多い。あんたら、冬支度っていうより葬式の算段みたいな顔してるね」


 「今やってるのは、できれば葬式を増やさないための算段だ」


 尚樹が言うと、里未は塩袋を土間へ置いた。


 「なら、笑えるうちに笑っときな。真崎って男の顔、帰り際ひどかったよ。あれはまた来る」


 「同感です」


 晃治が即座に頷く。


 「しかも次は、こちらの管理簿と診療記録だけでなく、保護根拠や領内異常の報告書も求めてくるでしょう。離火潮が自然現象ではない証拠をこちらが握っていない限り、向こうは『危険だから引き取る』の一点で押し切れます」


 「危険なのは向こうの箱だろ」


 「その通りですが、記録に残る危険ではありません」


 尚樹は眉間を押さえた。


 紙の上で勝てない面倒が、いちばん嫌いだ。


 剣なら抜かなければ済む。殴り合いなら、強い誰かの後ろへ回るという逃げ道もある。だが文書は、逃げても追ってくる。しかも追ってきた後で「手続きですから」と澄ました顔をする。


 「真面目に聞く」


 尚樹は机へ身を乗り出した。


 「俺たちが今いちばん欲しいのは何だ」


 晃治は少しも迷わなかった。


 「研究塔側の名前が載った、本物の記録です」


 「誰が、いつ、何を、どこへ運んだか」


 「はい。加えて、離火潮と棕櫚狐の扱いが繋がる文書。できれば予算の流れも」


 里未が口笛を吹く。


 「魚の腹から金貨を出せって言う方がまだ簡単だよ」


 「だから困ってる」


 その時、役宅の縁側で丸くなっていた棕櫚狐の幼獣が、ふいに耳を立てた。次いで、机の足元へ置きっぱなしだった銀色の鞄へ前足をかけ、きゅ、と短く鳴く。


 尚樹は視線を落とした。


 鞄は静かだった。けれど革とも金属ともつかない銀の面に、薄い熱が走っている。怒っている時とも、急かしている時とも違う。あれはたぶん、持ち主がやっと欲しい物を正しく言い当てそうになった時の熱だ。


 里未が目を細める。


 「また出すのかい」


 「出すって言い方、賭場みたいで嫌だな」


 「題名が賭場みたいな帳面だったら笑うね」


 晃治は机の上を片づけ、空いた場所を作った。


 「試してください。今の尚樹さんは、何を欲しているか自覚している」


 「珍しく人を追い込む方向で褒めるな」


 それでも尚樹は鞄へ手を伸ばした。


 必要なのは、次の嘘を上手くつくための材料ではない。


 桃色の封蝋で追い返せたのは一度きりだ。次に要るのは、あの連中が笑って踏み越えられない本当の記録。ここが終わった土地ではなく、終わらせるために細工された土地だと示す手札だ。


 そこまで思った瞬間、鞄の留め具がすっと軽くなった。


 「……素直だな、今日は」


 尚樹が口を開くと、幼獣が期待に満ちた顔で覗き込んでくる。中へ腕を差し入れると、底は思ったより深かった。工具の冷たさでも、布の感触でもない。紙束に近い乾いた手触りがある。


 引き抜いたのは、手のひらより少し大きい古い帳面だった。


 革の色は褪せて茶に近い。角は潮と火で丸くなり、表紙の中央へ、妙に楽しそうな字が踊っている。


 『人生和了聴牌』


 役宅の空気が、一瞬だけ止まった。


 最初に吹き出したのは里未だった。


 「ほんとに賭場の題だ!」


 「誰だよ、こんなふざけた題つけたの」


 尚樹が思わず言うと、帳面を覗きこんでいた茉奈が、戸口で足を止めた。


 いつのまにか診療所から戻っていたらしい。薬籠を抱えたまま、彼女は表紙の字へ目を留め、しばらく瞬きもしなかった。


 「……兄です」


 笑い声がぴたりと止む。


 茉奈は薬籠をそっと脇へ置き、帳面へ手を伸ばした。すぐには触れず、指先だけを表紙の文字の上でためらわせる。


 「この『聴』の書き順、昔から変だったんです。兄は急ぐと、耳のところを先に上げるから」


 尚樹は帳面を持つ手へ少し力を入れた。


 兄の名が出るたび、茉奈の顔はいつも少しだけ固くなる。怒りと、置いていかれた気持ちと、まだ捨てきれない期待が、いつも同じ場所へ絡まっている顔だ。


 今はそこへ、懐かしさまで混じっていた。


 晃治が静かに言う。


 「開いていいですか」


 茉奈はゆっくり頷いた。


 最初の頁には、これまた軽薄な書き出しが並んでいた。


 『朝飯前に人生を決めるな。腹の虫はたいてい判断を誤る。』


 『勝ちを急いだ者から盤をひっくり返す。』


 『最後の一枚ほど、いちばん高くつく。』


 『北風の日に良い顔をする奴は、たいてい手が冷たい。』


 『鳴かせて取った勝ちは、夜に帳尻が合う。』


 里未が肩を揺らす。


 「すごいね。ためになるようで、まるでならない」


 「兄はたまに、こういうことを真顔で言ってました」


 茉奈の声は乾いていたが、完全には呆れていない。


 香莉も工房から呼ばれて来て、帳面を覗き込む。


 「お守り帳ですか」


 「嫌な守り方だな」


 尚樹は頁をめくった。どこを開いても、気の抜けた人生訓ばかりだ。海、風、盤、最後の一枚、待ち、鳴き、引き際。麻雀だか航海だか説教だか分からない文が、細かい字でぎっしり並ぶ。


 だが、紙の端に目を凝らした晃治が、ふいに表情を変えた。


 「……これ、ただの冗談帳ではありません」


 「どこでそうなる」


 「頁番号です」


 帳面の下角には、普通の数字ではなく『東一』『東三』『南二』『西四』といった文字が小さく振られていた。順番も素直ではない。飛んでいる頁があるうえ、見開きの左右で局の進み方が逆転しているところまである。


 「遊び心が悪趣味なだけじゃないのか」


 「研究塔の文書倉には、持ち出し防止のため、正規の頁順を隠す写本形式があります。外から見ると雑記帳にしか見えないものです」


 晃治は指先で頁の端をなぞった。


 「これは、その崩し方に似ています」


 茉奈が顔を上げる。


 「兄が塔で覚えた、ということですか」


 「ええ。しかも、急いで書いた筆致ではない。隠す前提で整えています」


 尚樹は帳面を睨んだ。


 さっきまで冗談にしか見えなかった字が、急に別の顔へ変わる。そうなると題名のふざけ方さえ、隠すための煙幕に思えた。


 「つまり、真面目に解く羽目になるわけか」


 「はい。非常に面倒ですが」


 「嫌な肯定だな」


 それでも尚樹は机の上へ帳面を置き直した。


 この手の面倒が、結局いちばん先へ進む鍵になることを、最近いやというほど学び始めている。


 晃治は筆と紙を新しく広げた。


 「まず規則を探します。頁順、見出し、語の偏り、繰り返し。尚樹さんは、もし字の上に残る火種が見えるなら教えてください」


 「おまえ、便利に使う気満々だな」


 「今さらです」


 役宅の土間へ日が差し込み、帳面の上に幼獣の影が落ちる。幼獣は題名を読めるわけでもないのに、なぜか得意げに尻尾を振っていた。


 その日の昼から、役宅は干物小屋でも診療所でもない、妙な解読部屋になった。


     *


 最初の一刻は、まったく進まなかった。


 晃治は頁順を書き出し、東南西北の並びを表にし、同じ語が出る場所へ印をつけた。尚樹は火種を見る力で字面を追ったが、紙に残る熱はどれも薄い。遼真が書いた時の気配は感じられても、それが答えそのものを教えてくれるわけではない。


 里未は三度目の茶を運びながら言った。


 「で、どうなんだい。人生は和了したのかい」


 「まだ配牌ですらない」


 尚樹が机へ突っ伏しそうになりながら返すと、晃治が即座に否定する。


 「配牌は済んでいます。現在は整理段階です」


 「細かいな」


 「細かくないと読めません」


 香莉は帳面を別の角度から眺めていた。


 「同じ言葉でも、濃いところと薄いところがあります」


 「筆圧の違いですか」


 茉奈が訊く。


 「たぶん。でも、笑うところみたいな字だけ、少し深いです」


 それを聞いて尚樹は帳面へ顔を近づけた。


 火種を見ると、たしかに熱の残り方が違う行がある。表面をなぞる程度の軽い筆と、腹の底で何かを堪えて押し込んだ筆。遼真が冗談として書いた部分と、本当に残したかった部分は、熱の色が少し違っていた。


 「深い字は、赤が濃い」


 尚樹が言うと、晃治の手が止まる。


 「どの語です」


 「盤、最後、一枚、北風、鳴かせる、引く、待つ……あと、『夜』」


 晃治はその語を一覧へ書きつけた。


 「行為か、条件か、場所か」


 「食べ物の話じゃないのは確かだな」


 「最初からそうです」


 晃治は唇の端を指で押さえ、しばらく考え込んだ。その顔は、楽しい謎を解いている顔ではない。嫌な記憶が噛み合い始めた時の顔だった。


 「……塔の下働きの間で、俗称があります」


 「俗称?」


 「正式な部署名をそのまま口にすると、聞かれて面倒なことがある。ですから、内輪では別の言い方をする。帳簿室を『盤』、持出許可札を『一枚』、夜間搬送を『鳴き』、査察前の差し替えを『引き』」


 尚樹は顔を上げた。


 「なんでそんな賭場みたいな呼び方なんだ」


 「面白がっていた古株がいたのでしょう。役人は、秘密の匂いがすると急に下品になります」


 里未が笑う。


 「分かりやすい連中だね」


 晃治は笑わなかった。


 「笑えません。塔の記録係も、その俗称を知っていました。遼真さんはたぶん、それを逆手に取って書いた」


 茉奈が帳面の一頁へ指を置く。


 『勝ちを急いだ者から盤をひっくり返す。』


 「これも?」


 「はい。『勝ちを急ぐ』は、査察前に成果を作る、あるいは成果を装うこと。『盤をひっくり返す』は帳簿差し替え。つまり、査察の前に記録改竄がある、という警句になる」


 「警句って言うと聞こえはいいが、要するに最悪の内部告発だな」


 尚樹が言うと、晃治は頁の余白を指差した。


 そこには小さな点が三つ、縦に並んでいた。飾りかと思っていたそれが、よく見ると一定の間隔で刻まれている。


 「点の数は鐘数です。夜三つ。塔では第三鐘から夜番が始まる」


 「つまり、夜の帳簿差し替え」


 「ええ。さらに、頁番号が『東三』。東区画の第三書庫か、東回廊第三室」


 尚樹の首筋がひやりとした。


 第1話の火災の夜、ひそひそ声が聞こえたのも、東回廊から禁書庫へ入る途中だった。


 「それ、俺がいた場所に近い」


 晃治の視線が上がる。


 「確信に変わりました」


 茉奈は何も言わずに、次の行を見た。


 『最後の一枚ほど、いちばん高くつく。』


 晃治は別の紙へ、塔の持出許可札の種類を書き出した。


 「一枚は許可札。最後の一枚、というのは最終承認。通常、危険物か生体試料を外へ出す時だけ必要です。『高くつく』は、賄賂か、あるいは高位者の関与」


 「許可を切る人間が、いちばん上ってことか」


 「そうなります」


 「嫌な当たりだな」


 晃治は更に頁の下端を爪で弾いた。薄く貼られていた別紙が、わずかに浮く。そこへ細い数字が書かれていた。


 九、二、四。


 「時刻か、数量か」


 尚樹が言うと、晃治は首を振った。


 「塔の許可札番号の下三桁です。私は写しを作ったことがある」


 「そんな嫌な記憶ばかり役立つな」


 「役に立たないよりましです」


 遼真の帳面は、ここで初めて冗談帳から記録帳へ姿を変えた。


 その後、解読は少しずつ速度を増した。


 『北風の日に良い顔をする奴は、たいてい手が冷たい。』


 北風は北棟。良い顔は表向きの慰撫。手が冷たいは現場に出ない上役。頁端の二点は第二鐘。北棟第二室で、監理院向けの報告文が作られた。


 『鳴かせて取った勝ちは、夜に帳尻が合う。』


 鳴かせるは本来従わない棕櫚狐を術で動かすこと。夜に帳尻が合うは、夜間搬送と出納の一致。つまり、捕獲数と予算の流れが同じ夜に整えられている。


 『引く時に惜しむな。残した灰は翌日に踏まれる。』


 これは処分命令だった。証拠を燃やし、翌日には人の出入りで痕跡を潰す。火災現場の掃除順まで含んでいる。


 尚樹は頁をめくるたび、じわじわと腹が冷えていくのを感じた。


 遼真はただ見ていたのではない。見たことを、あとから読み返せる形へ必死に縫い止めている。軽口のふりをして。笑い話のふりをして。そうでもしなければ、持ち出せなかったのだ。


 茉奈もまた、笑わなくなっていた。


 帳面の字を追う指先だけが静かに動いている。兄がどんな気持ちでこれを書いたか、今さら想像したくないのに、しないわけにもいかない顔だった。


 午後、槙が見回りを終えて戻ってきた時には、机の上はもう解読紙で埋まっていた。


 「なんだこれは」


 「ひどい遺書のふりをした帳簿だ」


 尚樹が言うと、槙は眉を寄せたまま帳面をめくった。


 「ふざけてるのかと思った」


 「第一印象は正しいです。意図も」


 晃治が答える。


 「ふざけて見えた方が、見逃される」


 槙は『盤』『一枚』『夜』と並んだ解読紙を見て、短く息を吐いた。


 「ここまで書いてあったなら、殺される」


 茉奈の指先が、一瞬だけ止まる。


 誰も続けて言葉を出さなかった。


 代わりに外で、棕櫚狐の幼獣が何かに驚いて短く鳴いた。海風が障子を鳴らす。生きている町の音が、沈みかけた空気を少しだけ戻した。


 尚樹はわざと乱暴に頁をめくった。


 「止まるな。まだ全部じゃない」


 晃治が頷く。


 「ええ。ここからが本題です」


 帳面の中ほどには、人生訓めいた文が急に短くなる連なりがあった。


 『待ちは海へ流すな。』


 『赤は増やすな。』


 『寄り火は従う。』


 『返らぬ熱を数えろ。』


 最初に読んだ時、尚樹はこれを酔っ払いの走り書きだと思った。だが晃治はそこへ手を置いたまま、顔色をなくしていた。


 「これ、俗称ではありません。術式メモです」


 「分かるのか」


 「塔の研究補助が使う語の崩しです。『寄り火』は、依りつく火。正式には依存火の前段階で使われることがある」


 茉奈が勢いよく顔を上げた。


 「依存火?」


 晃治は一度だけ目を閉じた。


 「人や獣の感情へ寄生させる術式です。怒り、恐怖、執着の熱を増幅し、特定の指示や相手に逆らいにくくする。表向きは鎮圧用の補助術として扱われかけましたが、危険性が高すぎて凍結されたはずでした」


 「はず、ね」


 尚樹が低く言う。


 「続いてたわけか」


 「おそらく、もっと悪い形で」


 晃治は解読紙へ書き足した。


 『寄り火は従う』——感情誘導後の追従性確認。


 『返らぬ熱を数えろ』——抽出後に戻らない体内熱の計測。


 『赤は増やすな』——海面発赤、つまり離火潮の過剰発生を抑える指示。


 それを読んだ里未が、がた、と椅子を鳴らした。


 「待ちな。海が赤くなるのを“増やすな”って書いてあるなら、増える前提ってことかい」


 「そうです」


 晃治の声は平坦だったが、指先だけが紙を強く押さえていた。


 「離火潮は自然現象ではない。少なくとも一部は、研究塔が制御しようとしていた副産物です」


 「副産物でこの町がああなったのか」


 槙の声が低く沈む。


 「港の火事も、倉の発火も、海の赤みも」


 「全部が全部ではないでしょう。しかし、人為が混ざっている。しかも継続的に」


 尚樹は帳面へ手を置いた。


 紙の奥から、じりじりとした熱が見える。遼真がこれを書いた時、怒っていたのか、恐れていたのか、その両方だったのか。もう本人に聞けないのが腹立たしかった。


 茉奈は口を開いたが、すぐには声にならなかった。


 ややあって、絞るように言う。


 「兄は……これを止めようとしたんですね」


 「たぶん、証拠を持ち出して」


 尚樹が答える。


 「だから火をつけられて、帳簿を消されて、無人汀領ごと危険地帯のままにされた」


 晃治が更に帳面をめくる。


 後半の頁は、人生訓というよりほとんど符丁の羅列だった。


 『盤は東から西へ。』


 『濡れた道は三番目を使え。』


 『狐は朝に数えず、夕に眠らせろ。』


 『見張りの少ない夜は、塩の匂いを嫌う。』


 槙がそこへ顔を寄せる。


 「道だ」


 「分かるのか」


 「旧港の搬出路だ。三番目ってのは塩田脇の狭い石道。表からは見えにくい」


 里未もすぐ頷いた。


 「濡れた日は車輪跡が残りにくい。昔、塩袋を隠して運ぶのに使ったことがある」


 「隠して運ぶ方の知恵、今日は役立ちすぎるな」


 「生きる知恵は、表も裏も紙一重だよ」


 解読は一気に現場へつながった。


 旧港の三番道。塩田脇の石道。海蝕洞へ抜ける裏坂。使われていない倉の裏戸。すでに町の暮らしから切り離された道ばかりが、帳面の中で太い線になって浮かぶ。


 尚樹の脳裏に、前夜の旧倉庫火災で見た赤い火種がよみがえった。あれは怪異ではなく、人の悪意に似た色だった。帳面の道筋と重ねると、倉は偶然燃えたのではなく、何かを通すために邪魔だから火をつけられたのだとすら思えてくる。


 晃治が別紙へ年表を書き始めた。


 「遼真さんが塔へ招かれたのが三年前。無人汀領で離火潮の報告が増え始めたのも同じ頃です。翌年、旧港から棕櫚狐が急に減った季節がある」


 里未が顔をしかめた。


 「いたよ。群れごと姿を消した年が。海獣にやられたって話もあったけど、死骸が一つも流れなかった」


 「この帳面では、その頃の項目に『夕に眠らせろ』とある。鎮静剤か、依存火か、あるいは両方」


 香莉が小さく息を呑む。


 「あの子たち、運ばれていたんですか」


 尚樹は否定できなかった。


 帳面には、数量らしき点線もあった。一点、二点、五点。晃治がそれを数えて、群れ単位の搬出と照らし合わせる。大人の群れ、小さな群れ、幼獣の数。紙の上の印が、生き物の重さへ変わっていくたび、役宅の空気は重くなった。


 夕方前、茉奈が一度だけ席を立った。


 診療所へ戻るわけでも、誰かを呼ぶわけでもない。縁側へ出て、海の方を向いたまま、しばらく動かなかった。


 尚樹は少し迷ってから、その隣へ立った。


 海は穏やかだった。だが夕方の光を吸う水面には、いつものようにわずかな赤みが差している。見慣れたから怖くなくなる種類の色ではない。


 「休憩か」


 そう声をかけると、茉奈は前を向いたまま答えた。


 「兄は、私が帳面を嫌うのを知ってたんです」


 「そうなのか」


 「数字ばかり並んでると、人の顔が消える気がして苦手だったから。だから子どもの頃、買い物のメモまで変な歌みたいに書いてたんです。『豆は三つ、味噌は忘れるな』とか」


 「だいぶ面倒な兄だな」


 「面倒でした」


 茉奈は少しだけ笑った。笑ったのに、そのまつ毛は濡れていないのに重そうだった。


 「でも、こういう書き方しかできなかったんでしょうね。見つかったら終わる場所で、本当のことを残すには」


 尚樹は答えを探したが、気の利いた慰めはやはり出てこなかった。


 代わりに、縁側の柱へ背を預けて言う。


 「俺は正直、帳面なんて燃えてなくなればいいと思う方だ」


 「知ってます」


 「でも、こういう時だけは別だな。残してくれて助かる」


 茉奈はほんの少しだけ目を細めた。


 「素直に言うと変ですね」


 「言い慣れてない」


 「それも知ってます」


 海風が吹いた。


 棕櫚の葉が擦れ合う音の向こうで、幼獣が縁側の下を走り抜ける。生き物の体温がある音は、それだけで人を現実へ戻す。


 茉奈は深く息を吸ってから、役宅の中を振り返った。


 「続きをやりましょう」


 「休まなくていいのか」


 「今休むと、たぶん余計なことを考えます」


 「じゃあ、考える暇がないくらい面倒を増やそう」


 「ひどい誘い方です」


 それでも彼女は戻った。


 尚樹も後を追う。結局、自分たちはこういう時、並んで机へ戻るしかないのだと思った。


     *


 日が傾く頃、帳面の最後から三枚目に、他の頁とは明らかに違う筆致が現れた。


 字が丁寧すぎる。


 ふざけた題名の帳面の中で、そこだけは笑いを捨てたような整った行だった。


 『待ちを一人に負わせるな。』


 『盤の赤は海へ出る。』


 『返らぬ熱は、人にも獣にも残る。』


 『数が合う夜は、灯を数えろ。』


 晃治の羽根筆が止まる。


 「これは記録というより、警告です」


 「誰への」


 「たぶん、後から読む人間への」


 晃治は最後の一文を指した。


 「数が合う夜は、灯を数えろ。つまり、搬出記録と予算記録の数が一致した夜に、港や岬の灯りを見ろという意味です。実際に物が動いている」


 槙が腕を組む。


 「港の灯りなら、こちらでも記憶してるかもしれん」


 里未も頷く。


 「赤い潮が濃い日の前夜、岬の方に灯が増えるって話はあったよ。漁じゃないのに、夜更けに」


 「その夜を割り出せれば、旧港のどこを通したかも見えてきます」


 晃治は帳面の頁順と鐘数、許可札番号、道筋の符丁を繋いでいった。


 やがて一枚の紙の上に、ばらばらだった情報が一本の流れになる。


 三年前の春、研究塔北棟第二室で監理院向け報告書作成。


 同年初夏、東回廊第三室で帳簿差し替え。


 夜第三鐘、塩田脇三番道から旧港外れの海蝕洞へ試料搬送。


 翌朝、海面発赤の報告を自然現象として処理。


 これが一度ではなく、少なくとも十数回。


 「十数回……」


 茉奈が紙を見つめる。


 「そのたびに、町では火事か怪我か失踪があった」


 「そういうことになります」


 「じゃあ、兄はそれを全部見てたのか」


 尚樹が言うと、晃治は苦く頷いた。


 「全部は無理でも、繋がりには気づいていた。でなければ、ここまで符丁を残せない」


 尚樹は鞄へ目をやった。


 銀色の表面は静かだった。


 必要な物は出した。あとは読む側が腹をくくれ、と言われているようでもある。


 「最悪だな」


 思わず漏れた言葉に、誰も異論を挟まなかった。


 最悪だ。


 無人汀領は、怪異の起きる不運な土地なんかではない。研究塔が都合よく怪異扱いできるよう、少しずつ壊してきた土地だ。棕櫚狐は保護対象ではなく資源として狙われ、離火潮は災害ではなく実験の副産物で、火事や発赤や失踪はその副作用か隠蔽か、その両方だった。


 働きたくないだの、楽をしたいだの言っている余地が消える種類の最悪である。


 だからこそ尚樹は、わざといつもの声で言った。


 「で、ここまで分かったところで、人生は和了したのか」


 里未が鼻で笑う。


 「まだ聴牌だろうね」


 晃治が珍しく、口元だけで同意した。


 「題名通りです。あと一枚で形になる。しかし、その一枚がいちばん危ない」


 「最後の一枚ほど、高くつく、か」


 尚樹が帳面の文を拾うと、茉奈が静かに続けた。


 「兄は、それも分かってて書いたんでしょうね」


 帳面の最終頁近くには、許可札番号と見られる数字の横へ、小さな印があった。


 火。塩。尾。


 そして、岬を示すらしい線。


 晃治はその印へ指を置く。


 「ここが搬出先です。少なくとも一つは、無人岬の海蝕洞。旧設備が残っている可能性が高い」


 槙の顔が硬くなる。


 「夜までに行くのは無理だな。潮が満ちる」


 里未もすぐ計算する。


 「明日の朝なら降りられる。けど、向こうもまだ使ってるなら見張りがいるかもね」


 「行く前に、町の中でもう一つ確かめたい」


 尚樹は帳面を閉じた。


 「この帳面の数字と、こっちの現実がどこまで重なるかだ。旧倉庫の火事の日、港の灯り、消えた群れ、塩田脇の道。証拠を増やせる分だけ増やす」


 晃治が頷く。


 「帳面だけでは向こうに『偽造』と言い張られる余地がある。現場の痕跡と一致すれば、反論は減ります」


 「つまりまた働くのか」


 「はい」


 「嫌だな」


 「知っています」


 気の抜けたやり取りのはずなのに、その場の誰も少しも気を抜いていなかった。


 外はもう夕方だった。炊き出し場から湯気が上がり、港のあちこちに灯が入る。帳面に書かれた『灯を数えろ』という文が頭に残り、尚樹は思わず町の明かりを見回した。


 今夜光っている灯の一つ一つが、生きている側の灯だ。


 けれど三年前の夜には、この灯りの数を別の連中も数えていたのだろう。どの家が寝静まり、どの道が空き、どの時間なら獣を運べるか。そう考えると腹の奥が冷える。


 茉奈が帳面を抱き上げた。


 動作は丁寧だったが、抱きしめるというより、取り落とさないように支えている手つきだった。


 「これ、診療所の奥へ置いてもいいですか」


 「役宅より安全か?」


 「私の目の届くところの方が」


 尚樹は少しだけ考え、それから頷いた。


 「いい。ただし、一人で抱え込むな」


 茉奈が顔を上げる。


 「抱え込んでるように見えますか」


 「かなり」


 「失礼ですね」


 「当たってる時だけ言う」


 彼女は何か言い返しかけて、やめた。代わりに帳面の角を軽く撫でてから、短く息をつく。


 「……分かりました」


 晃治は解読紙をまとめながら言った。


 「今夜は写しを二部作ります。一部は役宅、一部は診療所。原本は別に隠す」


 「隠し場所、もうあるのか」


 「あります。言わない方が安全です」


 「そこだけ頼もしいな」


 「褒め言葉として受け取ります」


 香莉が静かに口を開く。


 「狐たちの数も、今夜もう一度数えます」


 「頼む」


 「朝じゃなく、夕です。帳面に合わせて」


 尚樹は少しだけ笑った。


 「そうだな。兄さんの遺した悪趣味に、少し乗ってやるか」


 茉奈はすぐには笑わなかった。


 だが役宅を出る前、ふっと視線を落として、ほんのわずかに口元をゆるめた。


 「たぶん、喜びますよ。そういう言い方」


 その夜、港の灯りはいつもより慎重に数えられた。


 塩田脇の石道には槙が二人つけ、海側の裏坂には里未が顔の利く漁師を回した。香莉は棕櫚狐の群れを数え、幼獣の尾の熱まで一匹ずつ見た。晃治は写しを取りながら、許可札番号と鐘数を別紙へ清書する。茉奈は診療所の奥で帳面を抱えたまま、必要な頁だけを正確に開き、尚樹が読み上げる符丁へ静かに印をつけた。


 皆で同じ紙を見る夜だった。


 誰か一人の記憶や覚悟だけに預けない夜だった。


 それは、遼真が最後の方の頁でわざわざ『待ちを一人に負わせるな』と書いた理由への、少し遅い答えにも思えた。


 深夜前、最後の写しが終わる頃、尚樹は診療所の裏口で海を見た。


 暗い水面の向こう、無人岬のあたりだけが、わずかに赤い。


 自然の色ではないと知ってしまった今、その赤は前よりずっと醜く見えた。


 足元へ幼獣が寄ってきて、外套の裾へ尾を押しつける。温かい。


 尚樹はその頭を撫でながら、誰に言うでもなく呟いた。


 「あと一枚、か」


 帳面の題名はふざけている。


 けれど内容はふざけていない。人生和了聴牌。勝つ寸前、でも盤はひっくり返されやすい場所。油断した方が負ける場所。


 なら、ひっくり返される前に、こっちが盤ごと抱えて走るしかない。


 面倒だ。心の底から面倒だ。


 それでも尚樹は、もうその面倒を、前みたいに知らないふりだけでは通り過ぎられなかった。


 診療所の中で、茉奈が帳面を閉じる音がする。


 晃治が写しを数える声もする。槙の足音、里未の笑い声、香莉が狐をあやす小さな声。どれも、守る価値がある側の音だ。


 尚樹は赤い海から目を離し、役宅へ戻る前に一度だけ深く息を吐いた。


 明日は、帳面の示す道を確かめる。


 そして、その先に何が残っているかを見る。


 勝ちはまだ遠い。


 だが、もう盤の外へ逃げる気もしなかった。



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