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怠け者次男は銀色の鞄で辺境を温める  作者: 乾為天女


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第10話 君依存

 避難訓練の夜から四日、無人汀領は、張りつめたまま少しずつ日常の顔を取り戻し始めていた。


 見回りの鐘は決まった刻限に鳴り、海水路は朝夕に流れを確かめ、診療所の桶にはいつでも湯が張られている。緊張が消えたわけではない。けれど人は、ずっと肩へ力を入れたままでは暮らせない。干物は干さねば腐るし、塩田は放っておけば板のように固まるし、棕櫚狐は腹が減れば遠慮なく鳴く。


 その晩、尚樹は役宅の縁側へ腰を下ろし、帳面の上に顎を載せていた。


 「平和だな……」


 「顔が平和じゃない」


 晃治が即座に返す。


 広間の机では、王都へ持ち込む文書の清書が続いていた。岬で見つけた旧設備の見取り図、記録石の写し、火災が起きた夜の潮位表。晃治の文字は相変わらず腹立たしいほど整っている。


 「平和が怖い顔だ。ほら、嵐の前だけ妙に凪ぐ海ってあるだろ」


 「縁起でもないことを代官が口にしないでください」


 「じゃあ書記官が代わりに口にしてくれ」


 「断ります」


 診療所の方では、茉奈が夜番用の薬湯を火から下ろしていた。香莉は工房の軒先で、小さな鈴を縫いつけた狐用の胴着を並べている。里未はさっきまで浜で備蓄の魚籠を確かめ、槙は外周の見回りを終えて、いまちょうど門のあたりで若い兵へ何か言っていた。


 町はそれぞれの手で、ちゃんと備えている。


 だからこそ尚樹は、胸の奥のざらつきを持て余していた。


 岬の旧設備を潰したあと、研究塔は妙に静かだった。静かすぎる。こちらが証拠を揃えるのを待っているのではなく、もっと早い手で町を折りに来る気配が、ずっと消えない。


 足元で丸くなっていた幼獣が、ふいに耳を立てた。


 きゅう。


 眠気を含んだ甘い声ではない。短く、喉の奥で弾くみたいな警戒の声だ。


 次いで、工房の前で胴着を試していた三匹も一斉に立ち上がった。鈴がかすかに鳴る。しっぽの毛が逆立ち、鼻先が同じ方向を向く。


 海ではない。


 棕櫚林の方だった。


 その時、夜気を裂くような笛の音が流れた。


 高くも低くもない、妙に胸へ引っかかる三音。歌にも合図にも聞こえる半端な長さで、聞いた瞬間、尚樹の背中を冷たいものが這った。


 門の外で見張っていた若い兵が振り返る。


 「今の、誰だ」


 槙の声が飛ぶより早く、棕櫚林の暗がりがざわりと揺れた。


 出てきたのは、人ではなかった。


 棕櫚狐の群れだ。


 十や二十では利かない。成獣ばかり、それも町の周りで見かける野生の群れよりずっと痩せ、毛の艶が悪い。しっぽの先には本来の柔らかな橙ではなく、どす黒い紅がまとわりつき、足取りは獣の走りというより、無理やり前へ引かれている荷車みたいに硬かった。


 「待って」


 香莉が鈴つきの胴着を取り落とした。


 彼女の声は大きくなかったのに、その場の全員が振り向くほど切実だった。


 「あの前脚、白い筋がある」


 暗がりの先頭にいた一匹の右前脚へ、月の薄明かりが落ちる。確かに、古い怪我が治ったあとみたいな細い白筋があった。


 香莉が一歩、さらに一歩と前へ出る。


 「去年の春に網へ絡んだ子」


 もう一匹を見て、唇を噛む。


 「耳の欠けたの、あれも……」


 尚樹は理解した。香莉はあの群れの何匹も知っている。毛並みで、脚の癖で、耳の欠け方で。工房の前へよく餌をねだりに来たやつもいるのだろう。


 槙が剣を抜いた。


 「門を閉めろ! 水路の内へ入れるな!」


 若い兵が走り、里未は浜側の堰へ向かう。茉奈は診療所の戸を開け放ち、寝台の布を広げた。


 尚樹も立ち上がったが、群れの火を見た瞬間、喉が詰まった。


 見える。


 棕櫚狐たちの胸の内には、確かにいつもの体温の火があった。海風を食べ、日差しを溜めた、丸く柔らかな橙の火だ。けれどその上へ、細く尖った別の火が食い込んでいる。耳の奥から胸へ、胸から尾へ、焼き針みたいな暗紅が何本も刺さり、遠くの笛の音へ繋がっていた。


 それは命の火ではない。


 命へ噛みついて、言うことだけを聞かせる火だ。


 晃治が青ざめた顔で呟く。


 「記録石の注記にあった……。『君依存』」


 「おい、今それ説明してる暇あるか」


 「あります。あれです」


 晃治の指先が震えた。


 「依存火を群れ制御へ転用する際の塔内通称です。対象が笛や声の主へ従うよう、恐怖と安心を一つの命令へ縛りつける。ふざけた名前をつけて隠していたんだ」


 君依存。


 恋文の題みたいな響きだった。


 それが目の前では、獣の心へ釘を打ち込む術の名になっている。


 尚樹は吐き気に似たものを飲み込んだ。


 群れが一斉に走り出す。


 先頭の二匹が水路を飛び越えようとして、しっぽの黒い火を散らした。濡れた地面へ火の粉が落ち、じゅっと鈍い音がする。海水路がなければ、そのまま乾いた板塀へ燃え移っていた。


 「槍を構えろ!」


 槙が叫ぶ。


 若い兵が門前で半月型に並ぶ。だが尚樹はその前へ出た。


 「待て!」


 「噛まれたいのか、代官!」


 「噛まれたくないから待てって言ってる!」


 笛が二度目に鳴る。群れの目が一斉にぎらついた。


 今ここで兵が刺せば、町は守れるかもしれない。けれど香莉の顔を見れば、もうそれを簡単な答えにしてはいけないのが分かる。


 「殺さず止める!」


 尚樹はほとんど反射で怒鳴っていた。


 「水を使え! 濡らした網を持て! 刺すな、絡めろ!」


 「難題を増やすな!」


 槙が吠える。


 「分かってる!」


 「分かっていて言うな!」


 それでも槙は若い兵へ手を振った。命令は変わった。槍先が少し下がり、代わりに倉庫脇へ積んでいた網が引っ張り出される。


 里未が堰を外した。


 ざあっと海水が走り、門前の地面をもう一段濡らす。狐たちは濡れた帯を嫌い、いったん踏みとどまった。その隙へ濡らした網が一枚、二枚と投げられる。


 だが群れの数が多い。


 網に絡まっても、黒い火に煽られた狐は身をよじり、唸りながら前へ出る。喉の奥から漏れる声は、いつもの腹をすかせた甘え声ではなく、苦しみと怒りが混ざった掠れた咆哮だった。


 香莉がたまらず駆けた。


 「駄目!」


 茉奈が呼ぶ。


 けれど香莉は止まらなかった。門の脇に掛けてあった鈴束を掴み、群れへ向かって振る。


 ちりん、ちりん、と軽い音が夜へ散る。


 不思議なことに、先頭の数匹がその音で一瞬だけ足を止めた。


 香莉は息を切らしながら、低い声で言う。


 「おいで。こっち」


 声は叱りつけるでも、怯えるでもない。工房で毛を梳き、足裏を拭き、眠くなった狐へ布を掛ける時と同じ調子だった。


 「寒かったろ。もういいから」


 先頭の白筋の狐が、ぐらりと頭を揺らした。


 胸の中の橙がわずかに強くなる。けれど次の瞬間、笛が鋭く鳴り上がり、暗紅の針がぎちりと食い込んだ。


 狐は跳んだ。


 香莉へ真っ直ぐ。


 尚樹は考えるより早く走っていた。


 足元の海水が跳ねる。香莉の肩を掴んで引いた瞬間、白筋の狐の爪が彼の袖を裂いた。熱い。布の上から火を押し当てられたみたいな痛みが走る。


 二人まとめて地面へ転がり、幼獣が怒って鳴いた。


 「香莉!」


 尚樹が叫ぶと、彼女は起き上がるより先に、倒れた姿勢のまま狐を見ていた。


 「この子、噛みたくて来たんじゃない」


 その声に、尚樹は息を呑む。


 狐の口元は唸っているのに、前脚は地面を掻くだけで、とどめへ踏み込めない。胸の奥では橙の火が逃げ場を探し、暗紅の針とぶつかっている。


 噛みたくない。


 でも、行けと焼かれている。


 尚樹の視界で、その二つの火ははっきり分かれて見えた。


 「……そうか」


 彼は狐へ手を伸ばした。


 槙が怒鳴る。


 「やめろ!」


 「少し黙ってくれ!」


 尚樹は濡れた袖のまま、白筋の狐の額へ掌を当てた。熱い。けれど焼けるだけの熱ではない。怯え、飢え、命令されるたびに『従えば痛みが引く』と刷り込まれた火が、耳の奥で縮こまっている。


 その下に、本来の火がある。


 海辺で昼寝した熱。


 香莉の工房の前で干した布へ潜り込んだ熱。


 魚の匂いを追って子どもに叱られた熱。


 生きていた時の、柔らかな火だ。


 尚樹は息を吸い、そちらへ意識を向けた。


 奪うんじゃない。引き剥がすんでもない。


 黒い火へ『出て行け』と怒鳴るより、下にいる本来の火へ『起きろ』と声をかける方が、今はたぶん近い。


 「おまえの帰る場所、そっちじゃないだろ」


 自分でも妙なことを言っていると思った。けれど掌の下で、橙の火がふっと膨らんだ。


 暗紅の針が揺らぐ。


 同時に、香莉が鈴をもう一度鳴らした。


 ちりん。


 白筋の狐の耳が動く。


 「そう。それ、知ってる音」


 香莉の声は震えていたが、逃げてはいなかった。


 「工房の前で寝る時の音。餌ができた時の音。忘れるな」


 狐の喉から低い唸りが消え、代わりに苦しそうな鳴き声が漏れた。暗紅の針が一本、ふっと薄くなる。


 尚樹は顔を上げた。


 「いける!」


 「何がだ!」


 「こいつらの中に、まだ元の火が残ってる! 命令の火だけじゃない!」


 槙は舌打ちしたが、その目は尚樹の手元を見ていた。


 「で、どうする」


 「足を止める。笛より、町の音を聞かせる」


 晃治がはっとする。


 「鈴……」


 香莉が立ち上がる。


 「胴着、全部出す」


 「今から着せる気か」


 「着せるんじゃない」


 香莉は工房へ走った。次に戻ってきた時、その腕には鈴つきの胴着が束になっている。


 彼女は町で世話している棕櫚狐たちへ、それを次々に投げた。幼獣だけでなく、工房の周りにいた成獣も、見回りに慣れた数匹もいる。香莉が短く指を鳴らすと、狐たちは慣れたように首を入れ、鈴を鳴らして走り出した。


 「門の内を回して!」


 香莉が叫ぶ。


 「音を切らさないで!」


 鈴の輪ができた。


 門前を、町の狐たちがぐるりと回る。ちりん、ちりん、ちりん。軽い音が幾重にも重なり、笛の三音へ割り込んでいく。海水路の湿った空気と、狐の体温と、工房の布の匂いが混ざった。


 すると、外から来た群れの足が目に見えて乱れた。


 笛へ引かれた首が、鈴のたびに横へぶれる。


 「今だ、網を!」


 槙の声で、若い兵が濡れ網を低く投げた。今度は刺さない。逃げ道を塞がず、足だけを絡める投げ方だ。里未は横から海水をかけ、茉奈は転んだ狐へ火傷止めの薬草水を浴びせる。怒涛のような手際だった。


 それでも、全部は止まらない。


 群れの奥にいた大きな雄が、鈴も網も無視して突っ込んできた。しっぽの黒火がいちばん濃い。笛の音があの一匹を芯にして群れを押しているのが、尚樹の目には見えた。


 「笛の主が近い!」


 彼は棕櫚林の向こうを睨んだ。


 暗がりの奥、低い砂丘の上で、確かに何かが動いた。月明かりに、細い杖か笛のようなものが一瞬だけ光る。


 槙が即座に二人へ命じる。


 「回り込め! 生かして捕まえろ、逃がすな!」


 若い兵が脇道へ駆ける。


 だが大きな雄の方が速い。門柱へ飛びつき、そのまま内側へなだれ込もうとした。


 尚樹は銀色の鞄を掴んだ。


 今ほしいものは何だ。


 剣ではない。派手な火でもない。刺せば終わる道具じゃ駄目だ。


 笛の音を削ぎ、熱を奪わず、押し返すもの。


 留め金がひとりでに外れる。


 飛び出したのは、古い漁で使う太い麻の投げ綱だった。手のひらへ収まった瞬間に、尚樹は理解した。濡らして重くすれば、火より先に体を倒せる。


 「里未!」


 「分かってる!」


 彼女は綱へ海水をぶっかけた。尚樹は重くなった綱を振り、雄の前脚へ投げる。鈍い音とともに脚が絡まり、雄が半歩よろめいた。


 そこへ香莉が真正面から出る。


 「見て」


 誰へ言ったのか分からない短い声だった。


 彼女は胸の前で鈴を鳴らし、もう片手で自分の喉元を指した。


 「こっち。怖くない方」


 雄の瞳が揺れる。暗紅の針がさらに強く刺さる。だがその奥で、本来の橙が怒ったみたいに燃え返した。


 尚樹はその火へ、今度ははっきりと手を伸ばした。


 「返せ」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。狐へか、笛の主へか、火そのものへか。


 ただ、掌の向こうで黒火が一瞬だけ剥がれ、雄の体から鈍い呻きが漏れた。


 笛が途切れる。


 次の瞬間、棕櫚林の向こうで短い悲鳴が上がった。


 槙が走らせた兵の一人が声を張る。


 「ひとり倒した! 笛を落としました!」


 群れが、そこで崩れた。


 統率を失ったわけではない。もっと単純に、皆が急に『痛い』の方を思い出したように、その場へ伏せ、うずくまり、あるいは海水路の湿った地面へ腹をつけた。黒い火はまだ尾の先で燻っているが、さっきまでのように命令の形を保てない。


 茉奈がすぐ駆け寄る。


 「熱傷の布、こっち!」


 里未が桶を運び、香莉は伏せた狐の首を一匹ずつ撫でた。町の狐たちの鈴はまだ鳴っている。ちりん、ちりん、と、今度はなだめるような間隔で。


 尚樹はその場へ膝をついた。


 腕の袖は焦げ、掌はひりつく。だが奇妙なくらい頭は冴えていた。


 さっき、自分は確かに見た。


 支配の火の下で、本来の火が押し返す瞬間を。


 完全には返せない。まだ一匹ずつ、触れられる範囲でしかほどけない。けれど、道がないわけではない。


 奪うしかないと思っていた火へ、別のやり方がある。


 晃治が息を切らして戻ってきた。手には布で包んだ細い笛と、折れた封蝋片がある。


 「逃げた兵は自決しました。顔は焼いてあって、身元は分かりません。ただ――」


 彼は封蝋片を開いた。


 月明かりの下でも分かる塔印が刻まれている。さらに笛の内側には、小さく術式名が焼きつけてあった。


 君依存・群制御第三式。


 尚樹は鼻で笑いそうになったが、うまく笑えなかった。


 「恋の歌みたいな名前をつければ、まともな術に見えると思ったのか」


 香莉が、伏せた白筋の狐の背を撫でたまま言う。


 「ひどい」


 それだけだった。


 けれど、その二文字より重い言葉は、たぶん今の町にはなかった。


 白筋の狐が震えながら顔を上げ、香莉の指先へ鼻を寄せた。噛みはしない。鈴の音を聞きながら、ようやく長い息を吐く。


 茉奈は狐の火傷へ布を巻き、尚樹の裂けた袖も見て眉を寄せた。


 「自分も診せてください」


 「狐の方が先だろ」


 「両方です」


 有無を言わせない言い方だった。


 槙が戻ってきて、笛を見下ろす。


 「これで、向こうが隠す気を失ったのははっきりした」


 晃治も頷く。


 「文書と記録石だけでは、まだ偽造と言い張る余地がありました。でもこれは現物です。しかも群れ制御の術名まで焼いてある」


 「王都へ持っていけば、言い逃れはしにくくなる」


 茉奈が布を絞りながら言う。


 尚樹は門の外を見た。


 濡れた地面。散った網。荒い息を吐く狐たち。鈴を鳴らしながらその周りを回る町の狐。皆の足で守った、ぎりぎりの境目。


 今夜は守れた。


 だが次は、もっと大きい手で来る。


 ここへ残って守るためにも、誰かが王都へ持っていかねばならない。帳面も、記録石も、この笛も、今夜見た『ひどい』の証拠も。


 尚樹は立ち上がった。


 膝が少し笑ったが、無視した。


 「……行くか」


 槙が目を細める。


 「どこへ」


 「決まってる。あの暑苦しい塔と、そこへ尻尾を振る連中のいる場所だ」


 晃治が息を呑み、茉奈は手を止める。香莉だけが狐を撫でながら、静かに鈴を鳴らした。


 ちりん、と一つ。


 尚樹は焦げた袖口を見下ろし、それから銀色の鞄を肩へ掛け直した。


 働きたくない。


 できれば面倒から遠い場所で、魚でも食って昼寝していたい。


 それなのに、守りたいものが増えると、人は遠い方へ足を向けるらしい。


 門の内側では、鈴の音に合わせて、苦しんでいた棕櫚狐たちの呼吸が少しずつ揃い始めていた。



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