第15話 海辺の冬支度
離火潮の夜から、二十日が過ぎた。
海風には、ようやく冬の乾いた冷たさが混じり始めていた。無人汀領の朝は、前より少しだけ忙しく、前よりずっと賑やかになっていた。
旧港の桟橋では、焼け残った柱へ新しい縄が渡され、塩田では里未が長靴のまま海水路を見回っている。診療所の脇には、湯屋へ続く仮囲いが組まれ、香莉の工房の前には棕櫚繊維を積んだ荷車が二台並んでいた。浜の上では槙が若い領兵崩れを三人並べ、見回りの交代時刻を叩き込んでいる。
そして尚樹は、代官屋敷の縁側で膝を抱え、真顔で現実逃避をしていた。
「忙しい」
誰に向かって言ったのでもないのに、隣で帳面を繰っていた晃治が即座に返した。
「はい」
「多すぎないか」
「はい」
「そろそろ誰か、臨時代官は午前中に二刻ほど日向でぼんやりする権利があるって法を作ってくれ」
「残念ながら、その前に決裁すべき文書が九通あります」
晃治は淡々と紙束を差し出した。
王家からの正式な達書。西岸監察府からの再建補助一覧。研究塔から押収された資材の返還目録。保護獣登録の予備申請。診療所と湯屋の併設許可。旧港修繕に伴う人足賃の内訳。どれも読まずに判を押すと後で刺さりそうな書類ばかりである。
尚樹は一番上の封を見て、顔をしかめた。
王家の紋だ。
「嫌な予感しかしない」
「中身はもう確認済みです。嫌な方と、少しだけましな方と、どちらも入っています」
「分類が雑だな」
「忙しいので」
晃治はさらりと言い、封を切った文書の一枚目を机へ広げた。
赫堂の失脚と、爻辞研究塔〈離為火〉の調査開始。
離火潮が自然災害ではなく、依存火を応用した違法術式の副産物であったこと。
無人汀領を危険地帯として放置した責任の一端を中央が認め、西岸の再建を王家直轄支援に切り替えること。
そこまでは読めた。
その次で、尚樹は紙を持つ手を止めた。
「……なお、榛家次男、尚樹を臨時代官職より暫定領主代理へ移行し、向こう一年――一年?」
「はい。一年です」
「半年で解雇じゃなかったのか」
「解雇され損ねましたね」
「最悪だ」
「町の者はだいぶ喜ぶと思います」
「おれはだいぶ喜ばない」
そう言いながらも、紙を置く指先に妙な力が入る。嫌だ嫌だと口では言えても、完全に他人事として放り出されるわけではないと知った瞬間、胸の底の何かが静かに落ち着いた。
無人汀領は、もう半年だけやり過ごす場所ではない。
その事実が、紙の墨よりはっきり重い。
晃治は二枚目をめくった。
「こちらが少しだけましな方です」
「何」
「中央から復職命令、もしくは王都詰めの監察補佐官待遇での登用打診」
「嫌だが」
「でしょうね」
「返事は」
「保留にしてあります」
尚樹は思わず顔を上げた。
晃治は何でもない顔で続ける。
「勝手に断ると角が立ちます。勝手に受けると町が怒ります。なので、今日の午後に使者が来たら、あなたが自分で断ってください」
「面倒の先送りを人の手柄みたいに言うな」
「失礼な。面倒の配分です」
そこへ、縁側の下からふかふかしたものが飛び乗ってきた。
棕櫚狐の幼獣――もう幼獣と呼ぶには少し育ちすぎた小柄な狐が、尚樹の脛へ鼻面を押しつける。銀に近い毛先が朝日に透け、尻尾の先だけが炭火みたいにぬくい。
「おまえはいいよな。判もいらないし、達書も読まなくていい」
狐は答える代わりに、尚樹の足へ丸くなった。
そのぬくもりに肩の力が抜けかけたところで、門の方から里未の声が飛んできた。
「尚樹! 日向ぼっこしてるなら、塩田の覆い布の枚数だけでも数えな!」
「ぼっこしてない! 公務だ!」
「座ってるだけにしか見えないよ!」
「今、国の未来を決めてる!」
「だったらついでにうちの塩田の未来も決めといて!」
決めることが多い。
尚樹は額を押さえた。
*
その日の午後、王家の使者は予想よりまともな人間だった。
もっと鼻持ちならない物言いで「辺境の者どもは王恩に感謝せよ」とでも言うのかと思っていたが、現れたのは四十前後の女官で、潮風に濡れた板張りの応接間へ通されるなり、まず湯気の立つ茶に礼を言った。
「王都から長く揺られてきましたので、温かいものがありがたいです」
茉奈が静かに茶碗を置く。
「乾燥した棕櫚花を混ぜています。喉が荒れにくいので」
女官は一口飲み、わずかに目を細めた。
「評判どおりですね」
尚樹はその一言で嫌な予感を強めた。
評判。今や無人汀領には、離火潮を退けた町だの、研究塔不正の証拠が残った港だの、棕櫚狐を正気へ戻した海辺だの、そういう尾ひれのついた話がいくつも流れているらしい。
尾ひれだけならまだいい。
最近では、尚樹が王都で単身赫堂を論破したとか、火を拳で殴り返したとか、明らかに違う噂まで混ざっている。
殴ってはいない。かなり逃げ腰ではあった。
女官は書状箱から二通の文書を取り出した。
「正式な達書はすでに届いていると伺っています。私はその補足と、口頭での打診を預かっています」
「補足がある文書はたいてい重い」
「ええ。ですので率直に申し上げます」
女官はまっすぐ尚樹を見た。
「王家は、無人汀領を今後十年、西岸再建の優先地として扱います。旧港、塩田、診療所、湯屋、棕櫚繊維工房、いずれも支援対象です。その代わり、現場で人と土地を知る者が要ります。あなたが残るなら話が早い」
「残らない場合は」
「中央から別の管理官を送ります」
部屋の空気が少し変わった。
槙が黙って壁際に立ち、晃治は表情を消し、香莉は湯呑を置く手をほんの少しだけ止める。茉奈だけは茶器の位置を整えながら、顔を上げない。
女官は脅しているわけではなかった。ただ事実を並べている。
だからこそ厄介だ。
尚樹はため息をこらえ、もう一通へ目を落とした。
王都詰め監察補佐官待遇。年俸増。家格回復の余地あり。将来的な中央復帰を視野に――などと、読み飛ばしても意味が通るくらいには、都合のいい言葉が並んでいる。
「つまり」
尚樹は紙を卓へ戻した。
「王都へ来れば面倒の少ない椅子をやる。残るなら、ここで面倒を片づけ続けろ、ってことですか」
女官は少しだけ考え、それから苦笑した。
「かなり率直に言えば、そうなります」
尚樹は黙った。
正直に言えば、条件だけ見れば王都詰めの方が楽そうだ。雨戸の修繕に頭を抱える必要も、塩の出来を見て天気に文句を言う必要も、狐の冬毛用胴着の寸法で揉める必要もない。書類の山はあるだろうが、海風で帳面が反ることはないだろう。
ないが。
ないのだが。
部屋の隅では、香莉がいつの間にか小さな狐用の胴着を膝へ載せていた。針の先が細かく動くたび、棕櫚繊維と柔らかな灰毛がきれいに馴染んでいく。縁側の向こうでは里未が怒鳴りながらも若い衆へ塩俵の積み方を教え、槙の靴裏にはまだ浜の砂が残っている。茉奈の袖口には薬湯の匂いがしみついていて、晃治の帳面の端には、さっきまで狐の足跡がついていた。
王都には、こういう雑多さがない。
いや、あるのだろうが、自分にとって帰る理由になる種類の雑多さではない。
尚樹は茶碗を手に取り、一口だけ飲んだ。
棕櫚花の香りが、喉の奥でふっと広がる。
「断ります」
思ったより、声はすんなり出た。
女官が眉を動かす。
「中央復帰を、ですか」
「はい」
「理由を伺っても」
尚樹は茶碗を置き、少しだけ肩をすくめた。
「王都の椅子はたぶん座り心地がいいでしょうけど、こっちは先に風除けと干物棚を直さないと、冬に座ってる場合じゃないので」
晃治が咳払いで笑いを誤魔化した。
槙は露骨に口角を上げ、里未の笑い声は戸口の外からはっきり聞こえた。
女官だけがきょとんとしたが、すぐに目元を和らげる。
「なるほど。よく分かりました。言い換えれば、無人汀領を選ぶと」
「はい」
尚樹は一度だけ、周囲を見た。
それから、今度は言い逃れしない声音で続ける。
「ここで楽をする仕組みを、まだ作りきってないんです」
里未が戸口で吹き出した。
「そこ、格好つけるところじゃないのかい!」
「格好つけた結果、作業が増えるのは嫌だ!」
「十分それで通じてるから怖いねえ!」
応接間に笑いが広がった。
女官は目を瞬かせたあと、笑いをこらえるように唇を押さえる。
「……承知しました。では王家としては、無人汀領再建の現地責任者として、引き続きあなたへ支援を行います」
「責任者、の響きは薄めでお願いします」
「文面上は難しいですね」
「ですよね」
断った。
それで終わりのはずなのに、なぜか腹の底は軽かった。
*
使者が帰った翌日から、町はますます騒がしくなった。
王家の支援が入ると決まった途端、止まっていた荷が動き出したのである。
旧港には補修用の木材と鉄釘が届き、塩田には新しい木枠が運び込まれた。診療所の裏手には湯屋用の石材が積まれ、香莉の工房には正式な発注札が束になって届く。棕櫚狐の保護獣登録が進めば、胴着や運搬具は王都の商家からも注文が来る見込みだという。
「繁盛しすぎると困る」
香莉は工房の床に反物を広げたまま、真顔で言った。
「困るのかよ」
尚樹が呆れると、香莉は頷く。
「一人だと縫えない。雑に増やすと質が落ちる。質が落ちると狐が噛む」
「最後、だいぶ困るな」
「噛まれるのは嫌」
「そこは全員一致してる」
工房の隅では、完成したばかりの冬用胴着を着せられた若い棕櫚狐が、くるりと回って誇らしげに胸を張っていた。胴着は棕櫚繊維の芯へ柔らかい灰毛を合わせ、背には細い留め紐と、小さな荷袋用の輪がついている。海風を防ぎつつ、動きを邪魔しない形だ。
「これ、王都へも売れると思う?」
尚樹が問うと、香莉は針を止めずに答えた。
「売れる。でも、先に町の分」
「そうだな」
「あと、狐が気に入らない意匠はだめ」
「狐の意匠審査が入るのか」
「入る」
言い切られた。
尚樹が視線をやると、若い狐がわざわざ鏡代わりの磨き板の前へ行き、自分の胴着姿を横から確認していた。たしかに審査している。
「厳しいな……」
「その代わり、通れば仕事する」
実際、胴着を着た狐たちは以前より浜の見回りへ出やすくなり、荷運びも嫌がらなくなっていた。香莉の手は、相変わらず静かだが確かだ。
工房を出ると、潮の匂いに混じって湯屋の木材を削る匂いがした。
診療所の隣では、茉奈が大工へ図面を見せている。元は炊き出し小屋だった裏棟を広げ、片側を薬湯の桶場、もう片側を日帰り湯へつなげるつもりらしい。
「本当にやるのか」
尚樹が声をかけると、茉奈は振り向いて頷いた。
「冷えたまま診療所へ来る人が多いんです。湯で温めてから診る方が、咳も関節痛も落ち着きやすいですし」
「理屈は分かる」
「それに」
茉奈は少しだけ目を細めた。
「具合が悪くなくても、誰かが寄れる場所がほしいので」
その言い方に、尚樹はふと足を止めた。
診療所は助かるために行く場所だ。だが湯屋がつながれば、治療のない日にも人が集まる。冷えた手を温め、ついでに世間話をし、帰りに干物や塩を買っていくような流れが生まれる。
生き延びるための施設から、生きていく場所へ変わる。
茉奈はたぶん、それを最初から見ていた。
「また、ちゃんと人を集めるつもりか」
尚樹がそう言うと、茉奈は少しだけ笑う。
「誰かに言われましたから。頑張りすぎる前に、人を使えって」
遼真の声が、一瞬だけ朝の記録石みたいに蘇る。
尚樹は照れ隠しに図面を覗き込んだ。
「桶場、こっちに寄せた方が配管短くないか」
「そう思って、今ちょうど直していたところです」
「……先に気づいてたのか」
「はい」
「なんだよ」
「でも言う前に考えてくださったので、えらいです」
「子ども扱いするな」
「してません」
口では否定しながら、目元は少し笑っている。
その顔を見ていると、王都の補佐官待遇がますます遠い出来事みたいに思えた。
*
浜では、槙が若い三人へ容赦なく怒鳴っていた。
「足音を揃えるな! 三人まとめて見つかってどうする!」
「はい!」
「返事も揃えるな!」
「……はい!」
「少しは学べ!」
若い衆のうち一人が尚樹に気づき、助けを求めるような目を向けた。尚樹は見なかったことにした。下手に口を挟むと、自分まで巻き添えで訓練へ放り込まれる。
槙は木柵に地図を貼り、旧港、塩田、棕櫚林、無人岬への道筋を赤と青で引き分けている。
「昼は青、夜は赤。棕櫚狐が二匹つく巡回は緑。避難誘導はこの白線だ。線を覚えろ。覚えてから理由を考えろ」
尚樹は地図を見て感心した。
「きれいにまとまってるな」
「まとまっていないと死ぬ」
「言い方」
「実際そうだ」
槙は短く答え、若い衆へ木札を投げた。
「おまえらは今日から西浜と旧倉庫の巡回を交代で回る。狐が座ったら、その場に何かあると思え。狐が寝たら、そこは今のところ安全だ」
「狐が怒ったら?」
「おまえが悪い」
即答だった。
尚樹は思わず笑う。
槙はその横で声を落とした。
「離火潮は消えた。だが、焼け跡に集まる盗人と、研究塔の残党が全員消えたわけじゃない」
「分かってる」
「だから兵が要る。今いる連中は半分が漁師上がり、残りは行き場のない若いのだ。だが鍛えれば使える」
「おまえがいるなら安心か」
槙は鼻で笑った。
「俺一人で全部やると、どこかで穴が空く。指揮はおまえが取れ」
「いやだが」
「知ってる。だが、おまえが一番、逃がす順番を間違えない」
その言葉が、妙に重かった。
尚樹は少し黙り、やがて地図の端を指で叩いた。
「だったら旧湯屋の裏道にも白線を足そう。診療所とつながるなら、避難経路になる」
槙は一瞬だけ目を細め、それから赤墨の筆を差し出した。
「書け」
「おれが?」
「言い出したのはおまえだ」
尚樹は嫌そうな顔をしながらも筆を受け取り、地図へ白線を書き足した。裏道は狭いが、火からは隠れやすい。昨夜の風向きなら、この線の方が人を通しやすかったはずだ。
槙がそれを見て、小さく頷く。
「悪くない」
褒め言葉としては短すぎるが、槙にしては十分だった。
*
日が落ちる前、尚樹は晃治に引きずられるようにして旧税庫へ連れて行かれた。
焼け残った石壁の倉庫を掃除し、棚を入れ、窓へ防湿布を張っただけの場所だが、机と帳面が入ると途端にそれらしく見えてくる。
扉の上には、晃治が自分で書いたらしい木札が掛かっていた。
『無人汀文書館』
「館?」
尚樹が眉を上げると、晃治は胸を張った。
「館です」
「倉庫だろ」
「今日から館です。名称は大事です」
中へ入ると、棚には整理された束が並んでいた。旧港の古地図、塩田の権利記録、研究塔から戻った没収品目録、遼真の暗号帳の写し、離火潮発生年ごとの潮位記録、棕櫚狐の生態観察帳。奥には小箱があり、そこへ記録石が布に包まれて収まっている。
「全部ここで?」
「全部ここで」
晃治は机上の札を揃えた。
「町が戻ると、人も戻ります。人が戻ると、忘れたふりをする者も出る。だから残します。何があったか、誰が何をしたか、誰が残ったか」
「嫌な書き方だな」
「記録はたいてい嫌なものです」
晃治はそこで、少しだけ声を和らげた。
「でも、それだけではありません。塩の出来がいい年も、詩会で笑った夜も、狐が初めて自分から湯屋へ入った日も、残す価値があります」
尚樹は棚の一角を見た。
そこには空の帳面が十冊ほど積まれている。
「そんなに書くことあるか?」
「あなたが毎日何かやらかすので、十分に」
「おれを災害みたいに言うな」
「災害より予測しづらいです」
反論しにくい。
晃治は一冊を手に取り、表紙を尚樹へ向けた。
『冬支度日誌』
「これは何だ」
「今から書いてもらいます」
「嫌だ」
「後で必要になります」
「後で必要になるものは大体今やりたくない」
「知っています」
晃治は有無を言わせぬ手つきで筆を渡した。
尚樹は渋々、一行目へ書く。
『塩田の覆い布、七枚不足。増産前に穴ふさぎ優先』
字が曲がった。
晃治はそれを覗き込み、珍しく少しだけ笑った。
「いいですね」
「どこが」
「暮らしを回す文になっています」
その言い方が妙に照れくさくて、尚樹は顔をしかめた。
だが帳面を閉じる気にはならなかった。
*
冬の支度は、結局、皆でやると早かった。
塩田の覆い布は香莉の工房で急ぎ縫われ、棕櫚狐たちは干物小屋の換気口へ順番に入って風向きを知らせた。里未は海水路の底をさらい、槙は浜沿いの柵を立て直し、晃治は支援物資の搬入記録を一刻ごとに取った。
茉奈は診療所の脇で薬湯の試作を重ね、冷え込みの強い夕方には大鍋で生姜と棕櫚花を煮出して、作業帰りの者へ椀で配った。
尚樹はというと、働きすぎて倒れないための仕組みを考えるという、いかにも自分らしい理由で走り回る羽目になった。
干物棚の高さを変えれば腰を曲げる回数が減る。
塩俵の置き場を桟橋寄りへずらせば運搬が一往復減る。
湯屋の薪置き場を北壁へ寄せれば風で湿りにくい。
狐用の待機箱を巡回路の中間へ置けば、夜番の交代が楽になる。
どれも派手さはない。
だが一つずつ積むと、翌日の疲れ方が違った。
その変化を、尚樹はちゃんと覚えていた。
だからこそ三日後の夕方、旧湯屋の裏手で若い衆が壁板を抱えて右往左往しているのを見つけた時、反射で声が出た。
「違う違う、そっちから立てると先に釘打つ人間が詰む!」
若い衆が一斉に振り向く。
「え、でもこっちの方が早くないですか」
「今だけな。明日外す時に泣く」
「明日、外すんですか?」
「裏に湯気抜き穴を足す。茉奈がそう言ってた」
「聞いてません!」
「おれは聞いた!」
結局、壁板は尚樹の言う順で組み直された。
横でその様子を見ていた茉奈が、腕を組んで頷く。
「えらいですね」
「だからその言い方やめろ」
「では、頼もしいです」
そちらはもっと心臓に悪かった。
尚樹は壁板から目を逸らし、咳払いで誤魔化す。
「……頼もしいかは知らないけど、二度手間は減らしたい」
「それでも助かります」
茉奈は穏やかに言い、少し間を置いて続ける。
「ここに残ってくださって、よかった」
海風が、二人の間をすり抜けた。
尚樹は返事に困り、視線を上げる。空は薄い群青で、まだ完全な冬ではないが、日が落ちるのは確実に早くなっている。
「……王都に戻っても、たぶん暇だったし」
「嘘ですね」
「なんで」
「今、考えてから言いました」
見抜かれた。
尚樹は諦めて肩を落とす。
「戻れたとしても、落ち着かなかったと思う」
それは本音だった。
楽な椅子はあったかもしれない。だが座った先で、潮風のない夜にちゃんと眠れたかは分からない。朝になっても、鍋の音も、狐の鈴も、里未の怒鳴り声も、晃治の嫌味も、槙の短い指示も、茉奈の薬湯の匂いもない部屋で、自分がどんな顔をしていたのか想像がつかない。
茉奈はその答えだけで十分だったらしく、軽く笑った。
「では、ここで落ち着いてください」
「落ち着く前に冬が来る」
「なので、冬支度です」
「容赦がないな」
「生き残った町は忙しいので」
またその台詞だ、と尚樹は思い、今度はちゃんと笑った。
*
初霜が降りる二日前、無人汀領の新しい湯屋が試し焚きの日を迎えた。
まだ看板も磨き切れていないし、脱衣棚は片側しかできていない。それでも石造りの浴槽へ湯が張られ、棕櫚花を干した小袋が梁から吊られると、そこはもう立派に人の集まる場所だった。
入口には『汀の湯』と墨で書いた仮札が掛かっている。
「仮のわりに字がきれいだな」
尚樹が言うと、晃治が胸を張った。
「文書館主ですので」
「館主が湯屋の札まで書くのか」
「町が小さいので」
里未は女湯側の戸を覗き込み、温度を確かめる。
「悪くないね。少し熱いが、このくらいなら働き帰りにはちょうどいい」
槙は男湯側の桶を足で整え、若い衆へ睨みをきかせた。
「騒ぐな。走るな。桶を浮かべるな」
「桶を浮かべるやつがいるのか」
尚樹が呟くと、若い衆が気まずそうに目を逸らした。いるらしい。
香莉は入口脇へ狐用の低い桶を二つ置き、そこへ冬用胴着を着た小柄な狐たちを座らせている。狐たちは湯気を嗅ぎ、丸い耳をぴくぴく動かし、やがて一匹が勇気を出して前足だけ桶へ入れた。
「入るのか」
「たぶん」
香莉が見守る。
次の瞬間、その狐は桶へ半分落ちた。湯が跳ね、周囲から笑いが起きる。狐は驚いて一度飛び出したが、すぐまた戻り、今度は慎重に前足から浸かった。
「気に入ったみたいです」
茉奈が柔らかく言う。
試し焚きの湯は、町の者へ順番に開かれた。
漁から戻った男たちが肩をほぐし、塩田帰りの女たちが指先を温め、診療所へ寄るほどではないが冷えがつらい老人が長椅子で薬湯を飲む。湯上がりに乾物を買う者、湯冷め前に湯屋脇のかまどで粥をすすっていく者、ただ人の声を聞きながら桶へ手を浸している者。
茉奈が言っていたとおり、ここは病人だけの場所ではなくなった。
尚樹は入口の柱へもたれ、その流れを眺めていた。
誰かが笑う。
別の誰かが、今度の塩の出来を話す。
狐の鈴が鳴る。
湯気の向こうで、湯上がりの頬がほのかに赤い。
それは派手な勝利の景色ではない。
ただ、町がちゃんと冬を迎えようとしている景色だ。
その時、晃治が横へ来て帳面を差し出した。
「記録します」
「またか」
「またです」
開かれた頁の見出しには、すでにこう書いてあった。
『汀の湯 試し焚き初日 来訪者三十七名 狐四匹』
「狐も数えるのか」
「当然です」
「で、おれに何を書けと」
晃治は筆を渡した。
「今日の所感を一行」
「面倒くさい」
「記録に残す価値があります」
尚樹は盛大に嫌そうな顔をしてから、結局、柱へ帳面を押し当てて書いた。
『湯があると、人は長く喋る。長く喋ると、明日の段取りが少し早く決まる』
晃治がそれを読み、静かに頷く。
「いいですね」
「またそれか」
「本当にいいので」
尚樹は筆を返し、湯屋の奥を見る。
茉奈が湯気の向こうでこちらへ気づき、ほんの少しだけ手を振った。忙しい合間の、ごく短い合図だ。
尚樹も片手を上げる。
それだけで十分だった。
冬はもうすぐ来る。
やることは山ほどある。
それでも、今日の無人汀領なら越えられる気がした。
銀色の鞄が、腰の脇で小さく重みを返す。開けなくても分かる。中にはまだ使っていない図面も、帳面も、誰かが残した火種も眠っている。
だが今の尚樹は、何でも鞄へ頼るつもりはなかった。
目の前にいる人たちの手の方が、ずっと確かだと知っている。
「尚樹」
里未が湯屋の脇から呼ぶ。
「次は何を直す?」
尚樹は少しだけ考え、それから湯屋の庇、塩田への道、旧港の灯台代わりに立てた見張り櫓へ順に目をやった。
「まず、北風をまともに受ける庇だな。その次が塩田の道。あと、見張り櫓の階段を広くする」
「理由は?」
槙が問う。
「庇は湯冷め防止。塩田の道は俵運び。櫓は狐が上りやすいように」
香莉が即座に頷いた。
「最後、大事」
「そこ最優先かもしれないねえ」と里未が笑う。
茉奈も湯屋の奥から声を重ねた。
「では明日の朝、庇からで」
尚樹は一瞬だけ空を見た。
西の端に、冬前の薄い星が出ている。
逃げ道ではなく、明日の段取りを口にしている自分へ、まだ少し驚く。
けれど不思議と嫌ではなかった。
「ああ」
尚樹は笑い混じりに頷いた。
「朝飯のあとでな」




