第14話 濡れたまつ毛の朝
夜が明けきる前の町は、勝ったというより、どうにか倒れずに踏みとどまっている顔をしていた。
旧港の石畳には黒く濡れた焦げ跡が幾筋も残り、防湿布はところどころ煤け、塩田へ引いた水路の縁には夜の騒ぎで折れた棕櫚の葉が引っかかっている。海はようやくただの海の色へ戻ったが、波が砕けるたび、昨夜までそこに赤い潮が立っていたのを思い出させる匂いがした。
それでも、町は静まり返ってはいなかった。
診療所では鍋が鳴り、工房では香莉が濡れた布を広げ、塩田では里未がもう水の引き具合を見ている。槙は若い兵を突堤へ並べ、夜明けと同時に見張りの配置を組み直していた。晃治は寝る気配も見せず、見張り台の机へ向かって、焼け残った記録と昨夜の経過を並べている。
誰も、昨日で終わったような顔をしていない。
尚樹は診療所の長椅子に座らされ、腕へ薬草を塗られながら、その働きぶりをぼんやり見ていた。
「何で勝った側がこんなに忙しいんだ……」
「勝ったからです」
茉奈は即答し、包帯を締める手を緩めない。
「負けたら忙しいどころじゃありません。あと、少ししみます」
「その予告、塗った後に言う意味あるか?」
「あります。文句を言う余裕があるか確認できます」
尚樹が顔をしかめると、茉奈はやっと少しだけ口元をゆるめた。けれど目の下には夜をまたいだ赤みが残っている。泣いた痕というより、泣く暇もなく朝まで走った人間の顔だった。
幼獣はその足元で丸くなっていた。昨夜の鈴はそのまま首に残り、尻尾の先だけが、眠っていてもかすかに温かい。香莉がさっき見に来て「大丈夫」と言っていたから、本当に大丈夫なのだろう。
診療所の奥では、昨夜の混乱で足を痛めた老人が、若い兵へ偉そうに指図している。
「そっちの棚だ、薬湯の器は上に重ねるな。落とす」
「さっきから落としてませんよ」
「今から落とすかもしれんだろう」
「予防が厳しいな!」
そんなやり取りへ、寝台で横になっていた女が笑い、戸口の外を掃いていた子どもがつられて笑う。笑った拍子に咳き込む声も混じるが、それでも昨夜よりずっと、生きている町の音だった。
尚樹は包帯を巻かれた腕を見下ろした。
昨夜、実験船の甲板で胸へ刺さった依存火の痕は、火傷とも打撲とも違う鈍い重さになって残っている。茉奈は胸の痛みまで診ようとしていたが、そこはさすがに説明が面倒で、今は「息を吸うと少し嫌だ」で済ませていた。
実際、嫌だった。
だが、呼吸のたびに薬草と塩気と炊き上がりかけの粥の匂いが入ってくるので、痛みのわりに気分は悪くない。
「……なあ」
「はい」
「そろそろ水くらいくれてもいいだろ」
「粥の前に白湯です」
「管理が細かい」
「昨夜、誰かさんが『水を一杯くれ』と言いながら立ったまま寝かけたので」
「そんな情けない真似したか、俺」
「しました」
茉奈はきっぱり言い切り、湯呑みを差し出した。
受け取った白湯は、熱すぎず、薄く塩が入っている。喉を通るだけで、昨夜ずっと張りつめていたどこかが、ようやくほどけた。
その時、戸口の方で晃治が遠慮なく言った。
「尚樹、休憩は終わりです」
「終わるの早すぎないか」
「いいえ。むしろ遅いです。確認したいものがあります」
彼の手には、小さな布包みがあった。
布の形だけで分かる。無人岬の洞窟で持ち帰り、昨夜の騒ぎの中もずっと槙が預かっていた、あの記録石だ。
茉奈の手が、湯呑みを受け取る途中で止まった。
晃治は少しだけ声を落とす。
「熱の乱れが収まりました。いまなら、余計なノイズなしで読めるはずです」
記録石。
遼真が最後に残した声。
茉奈はすぐに返事をしなかった。代わりに空いた鍋をひとつ持ち上げ、流しへ運び、布巾を絞り、棚の薬瓶の向きを直した。どう見ても急ぎでない仕事ばかりを、急ぎの顔で片づけていく。
尚樹はそれを黙って見ていた。
止めれば、たぶん今は逆効果だ。
忙しくしていないと、立っていられない時がある。
やがて茉奈は、ようやく鍋の縁から手を離した。
「……どこで」
小さな声だった。
晃治が答える。
「人の少ないところがいいでしょう。術式は安定していますが、最初は一度しか開けないかもしれません」
槙が外から顔を出し、それだけ聞いて短く言った。
「浜は片づけ中だ。旧湯屋の裏なら静かだ」
旧湯屋。
いまはまだ湯を張る余裕もない、半分壊れた建物だ。だが茉奈がずっと、いつか診療所の隣へ湯屋をつなげたいと言っていた場所でもある。
茉奈はこくりと頷いた。
*
旧湯屋の裏手には、棕櫚林の影がまだ長く残っていた。
海はすぐそこに見えるが、表の通りからは板壁で隠れ、朝の片づけの音も少し遠い。濡れた砂と灰の匂いの間を、潮風草の青い匂いが通り抜ける。
壊れたままの木の長椅子へ、茉奈が腰を下ろした。尚樹は少し離れて壁へもたれ、晃治は記録石を布から取り出す。槙は立ち会うつもりはなかったらしいが、気づけば板壁の外で見張りを買って出ていた。香莉も来ていない。たぶん、こういう時は少ない方がいいと皆分かっているのだろう。
記録石は、夜の騒ぎが嘘みたいに静かだった。
掌に乗るくらいの透明な石。その内部に、ごく細い火の筋が一本だけ眠っている。
晃治が術式記号をなぞると、石の奥で橙の光がゆっくり回り始めた。
「茉奈さん」
「……うん」
「途中で止めたければ止めます」
「最後まで聞く」
答えは早かった。
その早さだけ、ここへ来るまで時間がかかったのだと分かる。
晃治は頷き、記録石へ最後の熱を通した。
石が、かすかに鳴る。
最初に聞こえたのは、風の音だった。
海蝕洞の奥か、あるいはどこか狭い場所で記録したのだろう。遠くに波音が混じり、布の擦れる音、息を整える小さな間が入る。
それから、男の声がした。
『……聞こえるか、茉奈』
茉奈の肩が、目に見えて揺れた。
尚樹は無意識に壁から背を離しかけ、また戻す。ここで何か言う役ではない。
記録石の中の遼真は、少し息を切らしていた。だが声の癖は、帳面の軽口そのままだ。
『たぶんおれは、これを直接は渡せない。そういう顔をしている連中に囲まれてる。だから先に謝る』
短く咳払いが入る。
『連絡を絶ったのは、おまえを忘れたからじゃない。君を忘れたふりをした。そうしなければ、おれが見つけたことまで燃やされるからだ』
茉奈の指先が、膝の上でぎゅっと布を掴んだ。
遼真の声は続く。
『怒るよな。知ってる。おまえはそういうところ、昔から絶対に許さない。でも、許されないままでもよかった。生きていてくれればよかった』
そこで一度、記録石の音がざらついた。術式が揺れたのかと思ったが、違う。向こうで誰かが走った気配と、石を持つ手が壁へぶつかった音だ。
遼真は息を整え、今度は少しだけ声を低くした。
『塔の火は、奪う方へ傾きすぎた。人の不安も、獣のぬくもりも、役に立つ形へ切り分ければ管理できるって、本気で思ってる。だから返す式を残す。おまえの町へ返す』
かすかに笑う気配。
『あの海辺は、不便だし、塩気で帳面は傷むし、冬の風は痛いし、鍋はすぐ焦げる。でも、飯がうまい。火を囲んで、同じ魚の文句を言いながら食うのが、たぶん一番まともだ』
尚樹はそこで、少しだけ目を伏せた。
兄妹だな、と思う。大事なことを言う前に、どうでもよさそうな飯の話を挟むあたりが妙に似ていた。
『だから茉奈、おまえは残ってくれ。残って、腹を空かせたやつに何か食わせてやってくれ。誰か一人で抱えるな。困ったら、ちゃんと人を使え。おまえは頑張りすぎる』
今度こそ、茉奈の目から雫がひとつ落ちた。
けれど彼女は袖で拭わない。拭えば止まらなくなると分かっているみたいに、ただ正面を見たまま聞いている。
遼真の声は、最後だけ少し遠くなった。
『……それと、もし町へ変なのが流れ着いたら、最初から追い返すな。面倒くさがりでも、逃げ腰でも、火を見る目だけはまともなやつが、ときどきいる』
尚樹は思わず顔を上げた。
「おい」
晃治が小さく肩を震わせる。たぶん笑っている。
記録石の中で、遼真が最後に短く息を吐いた。
『間に合わなかったら悪い。でも、灯りは戻せる。おれはそのために動いた。だから――』
そこで音が一瞬だけ切れた。
火の筋が細く揺れ、石の奥で最後の声がこぼれる。
『茉奈。朝飯は、食え』
光が、静かに消えた。
風だけが残る。
板壁の向こうで遠く誰かが桶を置く音がし、海がいつもの調子で波を返した。
茉奈はしばらく動かなかった。
目を閉じてもいないのに、そこにいない誰かの顔を、ちゃんと見ているみたいだった。
そして次の瞬間、ようやく息が抜けるように、肩が落ちた。
泣き声は大きくなかった。
どこか壊れたみたいに声を上げるのではなく、ずっと胸の奥でつっかえていたものが、朝の冷えた空気へ溶けていくような泣き方だった。
尚樹は一歩だけ近づき、また止まる。
慰めのうまい言葉なんて、思いつかない。
「……その」
やっと出た声は、驚くほど役に立たなかった。
茉奈は泣いたまま、少しだけ笑う。
「ひどい顔、してます?」
「してる」
「正直ですね」
「嘘ついてもたぶん見抜くだろ」
「見抜きます」
涙の筋が頬に残ったまま、茉奈は袖で顔を押さえた。けれど今度は乱暴に拭わない。泣くこと自体を、ようやく許したみたいだった。
尚樹は少し考え、長椅子の横へ腰を下ろした。
肩が触れるか触れないかの距離。
それ以上は寄らない。その代わり、逃げるみたいにも離れない。
「遼真さん、最後まで勝手だな」
「本当に」
「飯の話で締めるところとか」
「そこ、いちばん兄らしいです」
茉奈は濡れたまつ毛のまま笑った。
朝の光が差し込んで、その笑い方だけ先に明るく見える。
尚樹はその横顔を見て、妙に胸の奥が落ち着かなかった。昨夜刺さった依存火の痕とは別の場所が、じわじわ熱い。
たぶん、これも火種といえば火種なのだろう。
だが名前をつけるには、まだ早い気がした。
茉奈が小さく息を整える。
「聞けて、よかった」
「うん」
「ちゃんと怒れます。ちゃんと泣けます。たぶん、これでやっと、続きができます」
尚樹は頷いた。
続き。
その言葉が、ひどくしっくり来る。終わった、ではなく、続くのだ。町も、食卓も、この人の泣いた後の顔も。
だからこそ、尚樹は気の利いたことを言う代わりに、もっと別の現実的なことを口にした。
「じゃあ、そろそろ戻るか」
「はい」
「腹が減ったら、今日も生きるしかないな」
茉奈は一度だけ目を丸くし、それから泣き笑いのまま頷いた。
「それ、今のところ一番いい励ましです」
*
診療所へ戻ると、鍋の蓋が盛大に鳴っていた。
里未が勝手知った顔で味見をしており、香莉は狐用の浅い皿を並べ、槙は兵に粥を配る前に人数を数え直している。晃治は記録石を丁寧に布へ包み直したあと、何事もなかったみたいな顔で机へ向かった。
尚樹は茉奈より先に台所へ入り、杓子を掴んだ。
「おい、患者を働かせるなって言うんじゃなかったのか」
里未が呆れた顔をする。
茉奈は目元を洗ってきたらしく、もう涙の跡は薄い。ただ、まつ毛の先にだけ、朝の水気が少し残っていた。
「軽い作業なら許可します」
「基準が曖昧だな」
「粥をよそうのは軽いです」
「鍋、重いけど」
「そこは周りが持ちます」
その言葉どおり、槙が何も言わず鍋の持ち手を掴み、香莉が器を滑らせ、里未が塩加減だけ容赦なく口を出す。
「薄い」
「起きたばかりの傷病人に濃い味を出すな」
「じゃあ後で漬物つける」
「最初からそうしてください」
晃治が机から顔も上げず言った。
「記録として残しますが、離火潮の翌朝に最初に交わされた重要会話は粥の塩気について、でいいですか」
「いいわけあるか」
尚樹が返すと、診療所のあちこちで笑いが起きた。
粥の湯気が上がる。
狐たちが皿の前で鈴を鳴らす。
戸口からは、焼け残った海辺へ朝の日差しが差し込んでいた。
昨夜の火は、もう人を追い立てる色ではない。
鍋の下で静かに揺れる、ごく普通の朝の火だ。
尚樹は器をひとつ、茉奈へ渡した。
彼女は受け取り、ほんの少しだけ目を細める。
その顔を見て、尚樹は肩の力を抜いた。
責任なんて、やっぱりできれば軽い方がいい。
けれど、こうして誰かと鍋の前に立ち、次の飯の段取りを考える程度なら、悪くない。
むしろ、そのためなら少しくらい面倒を引き受けてもいいかもしれない。
まだ海辺には片づけるものが山ほどある。
研究塔の後始末も、町の修繕も、兄の記録をどう残すかも、全部これからだ。
それでも、尚樹は昨夜までみたいに、次の季節から目を逸らしたくはなかった。
湯気の向こうで、茉奈が静かに言う。
「食べたら、旧湯屋の壁を見に行きませんか」
「何で」
「直せそうなら、直したいので」
尚樹は一瞬だけ呆れ、それから笑った。
「朝飯の次に修繕か。順番が容赦ないな」
「生き残った町は忙しいんです」
「さっき聞いた」
「何度でも言います」
そう言う茉奈のまつ毛は、もう濡れていなかった。
けれど朝の光を受けて、そこに落ちた涙の名残だけが、消えたあとまで小さな灯りみたいに残って見えた。




