第13話 爻辞研究塔〈離為火〉の答え
海が立ち上がったのは、比喩ではなかった。
沖からせり上がった赤い潮が、夜の底を持ち上げるみたいに弧を描き、旧港の石積みへ向かってゆっくりと高さを増していく。波頭には炎の筋が絡みつき、崩れる前から熱だけが先に浜を舐めた。
棕櫚林がざわめく。
海鳥はもう鳴かない。代わりに、工房の鈴と、見張りの鐘と、幼獣のかすかな唸りだけが聞こえた。
尚樹は見張り台の縁を握ったまま、沖の船影を睨む。
火柱の前に止まった黒い実験船は、波を受けても揺れ方が不自然だった。船底のどこかへ外海の術式炉が直結しているのか、持ち上がる赤い潮に逆らうどころか、それを足場にして滑ってくる。
甲板の先端へ、ひとり歩み出た。
濃紺の外套。風に煽られても乱れない姿勢。人の町を見下ろす時だけ、目が少し細くなる癖。
赫堂だった。
晃治が見張り台の下で、乾いた声を絞る。
「術声器を持っています。船からでも浜まで声を通せます」
「便利なもんばっかり作るな、あの塔は」
尚樹が吐き捨てた直後、甲板の手すりに金具がひとつ据えられた。鐘とも笛とも違う、細長い喇叭のような器具だった。赫堂がそこへ指を添えると、次に響いた声は、波音を押しのけて町じゅうへ広がった。
『無人汀領の者へ告ぐ』
低く、よく通る声だった。
誰かを説得するために鍛えた声ではない。命令が届けば十分だと知っている人間の声だ。
『今夜、この地は危険指定領として封鎖する。抵抗をやめ、棕櫚狐と記録物を引き渡せ。従う者には保護を、逆らう者には処置を与える』
浜にいた若い兵が思わず罵声を返しかけ、槙に肩を押さえられた。
赫堂の声は続く。
『そもそも、この土地は三年前に終わっていた。離火潮を制御できぬ土地へ人を残したのが誤りだ。弱い人間に自由を持たせれば、火は広がる。ならば管理下へ置く方が、よほど慈悲深い』
茉奈が診療所の前で、ぎり、と歯を噛みしめるのがここからでも見えた。
香莉は幼獣の胴着の紐を締め直し、鈴の位置を確かめる。里未は水路板の上に片足を乗せたまま、海面のうねりを睨んでいる。槙だけが表情を動かさず、浜の防衛線をもう一度見回した。
赫堂がこちらを認め、ほんの少しだけ声色を変えた。
『榛尚樹』
嫌な呼ばれ方だった。
昔、家で叱責の前にだけ使われた、苗字つきの呼び方に似ている。
『君はまだ退ける。記録は半分届いた。これ以上、役に立たぬ者へ肩入れして焼かれる必要はない』
尚樹は鼻で笑った。
「役に立たぬ者、ね」
そして見張り台の縁から身を乗り出し、負けじと腹の底から怒鳴った。
「そっちの役に立つ形へ丸められるくらいなら、干物の番してる方が百倍ましだ!」
浜のあちこちで、こんな時だというのに笑いが漏れた。
槙が顔をしかめる。
「啖呵としては弱い」
「本音だからな!」
赫堂は笑わなかった。
その代わり、術声器へ触れていた指を少し沈める。
沖の火柱が、ひときわ高く唸った。
*
第一撃は波ではなく、熱だった。
空気そのものが焼け、棕櫚林の上を透明な刃みたいな熱が走る。見張り台の欄干がぱきりと鳴り、干物小屋の屋根に残っていた湿りが一瞬で蒸気へ変わった。
「来る!」
尚樹が叫ぶより早く、里未が堰板を蹴る。
海水路一番、三番、五番が同時に開き、浜から町なかへ細い帯になって水が走った。槙が若い兵へ合図を送り、防湿布が通りへ渡される。香莉は工房前の狐たちを二列へ並ばせ、鈴をわざと互い違いに鳴らした。
ちりん、ちりん、ちりん。
音が散らばらない。
町の芯を示すみたいに、通りの中央へ一本の線を作る。
茉奈の声が診療所から飛んだ。
「火傷の桶は北口! 歩ける人は南へ回って! 歩けない人は寝台ごと運ぶ!」
「寝台ごとって、そんな簡単に言うな!」
尚樹が言うと、茉奈は振り向きもせず返した。
「簡単じゃないから手を貸してください!」
「はいはい!」
口で文句を言いながら、足はもう見張り台を駆け下りている。最近、自分の足が口より先に決まることが増えた。あまり嬉しい変化ではない。
浜へ降りた時、赤い潮が旧港の石積みにぶつかった。
轟音。
火と水の両方の音がした。
波頭はその場で砕けるはずだった。だが砕けた赤は飛沫にならず、無数の細い蛇みたいに地を這って広がる。海水路へ入り込むもの、棕櫚林へ回るもの、家々の竈の残り火へ吸いつくもの。
尚樹は目を凝らした。
赤い筋の一本一本に、人の感情が混じっている。
怒鳴られた悔しさ。捨てられた怯え。従っていれば痛くないと思い込まされた諦め。狐たちの警戒。研究員たちの保身。海獣の苦痛。どれも、本来は別々の胸や腹や尾の奥にあるはずの熱だ。それが雑に混ぜられ、一本の潮として押し寄せている。
これでは、切っても切っても終わらない。
赫堂は、火を増やしたのではない。
他人から集めた火を、束ねて流している。
「尚樹!」
槙が怒鳴る。
見れば、赤い筋の一部が浜の兵列ではなく、町の中央へ真っすぐ伸びていた。診療所でも工房でもない。役宅の前、銀色の鞄を置いたままの石段だ。
鞄を狙っている。
あるいは、鞄の中に眠るものを。
尚樹は走った。
赤い熱が足首へ絡みつく。痛い。だが命令の火ほどではない。まだ、押し返せる。
石段へ飛びついた瞬間、銀色の鞄の留め金が内側から激しく鳴った。
かちゃ、かちゃ、かちゃ、と、いつもの気取った一音ではない。急かすような音だった。
「今度は何だ!」
返事の代わりに、鞄の口が跳ねる。
中から飛び出したのは、武器でも工具でもなかった。
焦げ跡だらけの薄い帳面だった。
表紙の半分が焼けている。それでも残った文字は読めた。
『返灯仮式・未完』
晃治が石段へ滑り込むように駆けてきて、息を呑む。
「……遼真の筆跡です」
帳面の端には、別の癖も混じっていた。几帳面な補注と、古い術式記号の書き足し。おそらく鞄の前任者が読もうとして、途中で書き込んだのだろう。
尚樹は帳面を開いた。
最初の頁には、遼真らしい悪筆でこうあった。
『奪う方が簡単だが、それをやるとだいたいろくな顔にならない。返す方を残す』
「こんな時まで軽いな、あの人は」
茉奈がいつの間にかそこへ来ていた。頬に煤がついている。だが声は震えていない。
帳面の次の頁から、びっしり術式が並ぶ。
火の流路、結節点、受け皿、反転ではなく帰還。
晃治の目が変わった。
「これ、依存火の逆算式です。奪った火を一括で消すんじゃない。所有痕ごとに分けて、元の熱へ戻す」
「できるのか」
「理屈はあります」
「その理屈、毎回ぎりぎりだな」
「塔の術式はだいたいそうです!」
怒鳴り返しながらも、晃治の指は頁を追っていた。彼は最後の見開きで動きを止める。
そこだけ、焼け落ちていた。
肝心の結びが半分ない。
茉奈が息を詰める。
「未完……」
晃治が低く言う。
「完成前に殺されたんでしょう。もしくは、最後の一行を試せなかった」
沖で再び、火柱が唸る。
外海の術式炉がひとつ、またひとつと明るさを増し、町の竈や灯籠へ赤い糸を伸ばしてくる。香莉の工房前で、狐が一匹、小さく悲鳴をあげた。尾の先へ黒火が戻りかけている。
時間がない。
尚樹は焼けた見開きを睨んだ。
前半に書いてあることは分かる。返す火は、ひとつの大きな器へ流してはいけない。混ざればまた誰かのものになる。だから、生活の灯りを細かい受け皿にする。竈、湯釜、塩釜、灯籠、工房の炉、見張り台の灯、狐の尾の熱。町にある灯りを全部、持ち主へ帰る道筋へ組み直す。
だが最後が欠けている。
帰す順番か。受け皿の結び方か。
その時、幼獣が帳面へ前足を置いた。
きゅ、と鳴いて、焦げた頁の上で尻尾を一度振る。
そこに淡い橙の毛が一本落ちた。
香莉がはっと顔を上げた。
「……混ぜるんじゃなくて、見分ける」
「何だって」
「返す火。帰り道がいるだけじゃない。その火が、誰のものか、途中で迷わない印がいる」
香莉は狐の鈴を見た。
「だから鈴をつけた。群れが混ざっても、音で帰れるように」
晃治の目が、焦げた頁から香莉の手元の鈴へ飛ぶ。
「印。識別。所有痕と生活灯の照合……」
彼は帳面をひったくるように取り、空白の余白へ一気に書き始めた。
「遼真は結びを一人で書いていない。前任者の補注がある。ここ、癖が違う。おそらく試算で止まった。なら足りないのは術式記号じゃない、運用側の印です。各灯りへ、それぞれ帰るべき熱を識別させる」
「つまり」
里未が短く問う。
晃治は顔も上げず答えた。
「町じゅうの灯りに、持ち主の目印をつけます。人は人の持ち場、狐は鈴、海水路は流す順番、工房は糸の色、診療所は薬草の香り。混ぜないよう分ける」
「面倒くさいな」
尚樹が言うと、茉奈が即座に返した。
「生き残る方を選んでください」
「分かってる!」
帳面の最下段、焼けて消えたところへ、尚樹はふと遼真の別の文句を思い出した。
『待ちを一人に負わせるな。』
そうだ。
返す先をひとりへ集めたら、押し潰れる。
この町が生き残ってきたのは、面倒を一人で抱えきれないから、横へ渡し続けたからだ。
尚樹は晃治の肩を掴んだ。
「最後の一行、こうだ。受け皿を一人で持つな。町ごとで受ける」
晃治が一瞬だけこちらを見た。
それから、頷く。
「……はい。それで閉じます」
彼は余白へ、急いだ筆で結句を書き足した。
『返灯は、待ちを一人に負わせぬ場へ落とすこと。』
書いた瞬間、銀色の鞄の中で何かが鳴った。
帳面の術式が、薄く橙に光る。
*
段取りが決まると、町は動いた。
槙は浜の防衛を半分残し、半分を各持ち場へ散らす。
「剣を振るなとは言わん。だが今夜は、守る線を引く方が先だ! 北通りは診療所の灯りを落とすな、東は工房へ火の粉を寄せるな、西は塩釜を空にするな!」
里未は海水路の板を差し替えながら、浜から怒鳴る。
「水は三番を先、五番は後! 潮が戻る前に塩田へ薄く回せ! 濃く流すと灯りが死ぬ!」
香莉は狐たちへ次々鈴をつけ替えていった。
赤糸、青糸、生成り糸。群れごとに色を変え、幼獣には最初に拾った時からつけている小さな鈴をそのまま残す。彼女は狐の鼻先へ額を寄せ、ひとつずつ囁く。
「帰る場所、忘れないで」
茉奈は診療所の戸を全開にし、竈の前へ薬草を並べ始めた。
潮風草、薄荷葉、乾姜の根、夜香の花。香りの違う束を寝台ごとに分け、怪我人の名を呼び、手当てをしながら灯りの番もさせる。
「花瓶じゃありません、持ってください! これはあなたの匂いの目印です! 自分の名前、ちゃんと言って!」
老人が呆けたような顔で「今その余裕が」と言いかけると、茉奈はきっぱり言った。
「あります! ないと帰ってこないから!」
その言い方の方が、妙に皆を落ち着かせた。
晃治は見張り台の板へ町の簡易図を広げ、帳面の術式を現場用に書き崩していく。
「北は診療所、東は工房、南は塩田、西は旧港。交差点で混ぜない。鐘は一長二短、狐の鈴は色別、竈は炊きっぱなし禁止、灯籠は消すな、でも大きく燃やすな!」
「注文が多い!」
「死ぬより多い方がましです!」
尚樹はその全部を聞きながら、自分の役を理解した。
町じゅうの灯りへ帰り道を用意しても、沖の束ねた火をほどく者が要る。
そこだけは、自分の目でやるしかない。
赫堂の実験船と、外海の術式炉。
あの結節点へ触れなければ、町へ引いた帰り道に火を流せない。
槙が察したようにこちらを見た。
「行く顔だな」
「顔で分かるのか」
「逃げる顔と、逃げないと諦めた顔の違いくらい分かる」
「嫌な見分け方だ」
槙は短く鼻を鳴らし、腰の鉄鉤を一本外して尚樹へ投げた。
「旧港の突堤からなら、あの船の横腹へ寄れる。だが一人では行かせん」
「俺も行きます」
晃治が言う。
「帳面が必要です」
「おまえ、さっきまで吐いてたろ」
「今も少し吐きそうですが、帳面を読めるのは私です」
「私は残る」
茉奈が先に言った。
尚樹が何か言う前に、彼女は診療所の灯りを振り返る。
「ここで待つんじゃありません。ここで受けます。帰ってくる火も、人も」
幼獣がその足元へ擦り寄った。
香莉がそっと抱き上げて、尚樹へ差し出す。
「これ、連れていって」
「連れていくのか?」
「印になる。最初にあなたが拾った熱だから」
尚樹は幼獣を受け取った。小さな腹は早鐘みたいに動いている。怖いのは自分だけではない。当たり前だった。
里未が最後に言う。
「沖は潮が返る。戻るなら、三回目の鐘までだ。それを過ぎたら、海が人の足を要らないって顔をする」
「分かった」
「分かってない顔してるけど、まあいい。死ぬな」
「努力する」
そして尚樹は、晃治と幼獣を連れ、旧港の突堤へ走った。
*
旧港の石積みは、三年前の火以来ずっと半分崩れたままだった。
尚樹が無人汀領へ来た日、最初に見た時には、ただの終わった場所にしか見えなかった。いま走る石畳は濡れて滑り、赤い潮が間歇的に乗り上げる。それでも、その隙間には修繕した綱、打ち直した杭、香莉が干した布の痕、里未が置いた道具箱、槙が兵へ教える時につけた印が残っていた。
終わった場所ではない。
皆が何度も手を入れた場所だ。
突堤の先で、小舟が一艘だけ待っていた。
槙がいつの間に回したのか、若い兵が二人乗り込み、無言で櫂を渡してくる。ひとりはまだ頬が若い。だが目は逸らさない。
「副長から。船腹の鉄輪にこれを引っかけろって」
鉄鉤用の綱だった。
「おまえたちは」
「三回目の鐘で引き返します。それまで寄せます」
言われて、尚樹は反論しなかった。
引き受けると決めた人間の顔へ、外から軽々しく安全だけを押しつけられない時がある。最近ようやく、その辺を少し覚えた。
小舟は夜の赤へ滑り出した。
実験船へ近づくほど、空気が重くなる。潮の匂いに混じって、紙の焼ける匂い、薬草の焦げる匂い、獣毛の焦げる匂い、そして人が無理に従う時の嫌な甘さまで漂っていた。
晃治が帳面を押さえながら言う。
「中心は船そのものじゃありません。船底から外炉へ降りている四本の導索、その交点です」
「見える」
尚樹には、赤い糸の束が見えた。
船の腹から海中へ伸びる四本。その真ん中で、さらに太い一本が赫堂の足元へ集まっている。あいつ自身が制御点だ。
「結局、本人に触らなきゃ駄目か」
「そうなります」
「最高じゃないな」
「一度も最高だったことはありません」
小舟が横腹へ着く。
若い兵が綱を振り、船腹の鉄輪へ鉄鉤を引っかけた。尚樹が先に登り、続いて晃治が帳面を抱えてよじ登る。幼獣は尚樹の胸へしがみついたまま、小さく唸っている。
甲板へ上がった瞬間、熱が変わった。
船の上では、外海の赤は単なる炎ではなかった。人の輪郭が混じる。膝を抱えた影、命令へ頷く影、泣きながら尻尾を丸める狐の影。それらが甲板の木目の上を薄く滑り、赫堂の足元で束ねられている。
赫堂は船首に立ったまま、驚きもしなかった。
「来ると思った」
「待ち合わせの手紙でもくれればよかったのに」
「軽口は震えを隠すのに便利だな」
図星だったので腹が立つ。
尚樹は鞄の肩紐を握り直した。
赫堂の後ろには、塔の術者が四人いた。皆、口元を布で覆い、長い柄の金具を持っている。槙の兵が浜で引きつけてくれているのか、護衛は最小限だ。だが最小限で十分という顔をしている。
晃治が帳面を開く。
赫堂の視線がそこへ落ち、初めて明確に表情が動いた。
「それまで出てきたか」
「出てきましたよ。皆、あなたほど性格が悪くないので」
尚樹が言うと、赫堂は静かに首を振った。
「違う。鞄は必要に応じただけだ」
その言い方が癪に障る。
まるで鞄の機嫌まであいつに説明されたみたいだった。
赫堂は一歩、こちらへ寄る。
「君はまだ分かっていない。火は、勝手に持たせれば広がる。執着も恐怖も愛着も、放っておけば人を狂わせる。だから管理する。使える形へ寄せる。それが爻辞研究塔〈離為火〉の答えだ」
尚樹は思わず眉をひそめた。
「答え?」
「火をどう扱うか、だ」
赫堂の背後で外海の火柱が揺れる。
「不安に震える町へ自由を与えて何になる。弱い者は、寄りかかる先が要る。従う相手を決め、痛みを避ける道を与えた方が、よほど穏やかに生きられる」
甲板の影たちが、その言葉に合わせてざわめく。
依存火だ。
言葉そのものに痛みの回路を結び、聞く者の胸へ入り込ませる。『従えば楽だ』という諦めの形へ熱を整えようとしている。
尚樹の膝が、ほんの少しだけ笑いそうになる。
楽だ、とは確かに思う。
責任を誰かへ渡し、自分は言われた通りにして、失敗の理由も他人へ預ける。あれほど欲しかった形だ。
榛家で、研究塔で、尚樹はずっとそうしてきた。
赫堂の声が近づく。
「君は怠け者だ。だから分かるだろう。本当は、自分で選びたくないはずだ」
その通りだった。
認めるのは悔しいが、その通りだった。
海と火の匂いの向こうで、赫堂の赤い火が細い針になり、尚樹の胸へ触れようとする。拒めば痛い。受け入れれば楽だ。そう囁く熱。
だがその時、尚樹の腕の中で幼獣が思いきり暴れた。
きゃう、と甲高く鳴き、爪が胸布へ食い込む。
痛い。
その単純な痛みで、妙に頭が冷えた。
楽なら、こんなに色分けした鈴も、干物の棚も、塩田の水路も、診療所の薬草も、いちいち誰かの顔を見て調整する必要なんかなかった。
面倒だった。
今でも面倒だ。
だが、それをやった後の飯の方がうまかった。
尚樹は深く息を吸い、赫堂を睨み返した。
「従えば楽、は確かにな」
それから、一歩踏み出す。
「でもな、好き勝手に怠けるのと、誰かに飼われて鈍るのは違うんだよ」
赫堂の目がわずかに細くなる。
尚樹は続けた。
「面倒を減らすために棚を作るのは好きだ。でも、誰かを燃料にして静かにさせるのは趣味が悪い。俺は、俺が帰る飯の邪魔をする火は嫌いだ」
船の上の影が、一瞬だけ揺らいだ。
晃治が横から、抑えた声で言う。
「今です。制御点へ触れれば帳面が開きます」
「分かった!」
尚樹は走った。
赫堂の術者が一斉に金具を振るう。熱の鎖が甲板へ落ち、尚樹の行く手を塞ぐ。晃治が帳面を掲げ、頁に刻まれた逆算式を読み上げた。
「一番、返路解放! 二番、混線遮断! 三番――」
途中で術者の一人が晃治へ向かう。
だが幼獣が尚樹の腕から飛び降り、その足元をすり抜けた。小さな鈴が鳴る。たったそれだけで、甲板を這っていた狐の影が一瞬だけ本来の尾の動きを思い出し、術者の足へまとわりつく。そこへ晃治が帳面の角を全力でぶつけた。
鈍い音。
「帳面で殴るな!」
「他に武器がありません!」
それはそうだ。
尚樹は赫堂の目前まで踏み込み、火種を見る力を最大まで開いた。
世界の輪郭が赤くほどける。
赫堂の足元へ集まる無数の糸。その一本一本に、元の持ち主の痕が残っている。町の兵、診療所の患者、工房の狐、研究塔で怯えていた若い書記、洞窟で焼かれた海獣、そして赫堂自身の火。
全部、見える。
多すぎて吐きそうになる。
赫堂が掌を向けた。
「見えたところで、君一人に返せる量ではない」
その通りだった。
もしここで自分の胸へ受けたら、焼ける。間違いなく焼ける。
だから尚樹は、受けなかった。
帳面を開き、銀色の鞄へ手を突っ込む。
今ほしいものは、強い武器じゃない。返り道を町へ流すための、ただの導きだ。
鞄が重い音を立て、中から飛び出したのは、古い港で綱を巻くための真鍮の輪軸だった。片手ほどの大きさで、中央に四つ溝がある。
晃治が息を呑む。
「導索の分配輪!」
「名前は今つけたのか!?」
「昔の港具です、名前はだいたいそのままです!」
尚樹は輪軸を赫堂の足元、導索の交点へ叩きつけた。
金属音。
四本の外炉索が一瞬だけ弛む。
その隙に、晃治が帳面の結句を読み上げた。
「返灯は、待ちを一人に負わせぬ場へ落とすこと!」
遠く、町で鐘が鳴った。
一長二短。
診療所の竈の香りが風に乗る。
工房の鈴が色違いに連なる。
塩田へ流した水が、夜の底で白く光る。
全部、帰り道だ。
尚樹は赫堂の火を真正面から見た。
「返せ」
小さく言ったはずなのに、その一言は妙にはっきり届いた。
輪軸が回る。
赤い糸が、一本ずつほどけ始めた。
*
最初に戻ったのは、狐の火だった。
外海の赤へ縫い留められていた細い熱が、色分けされた鈴の音へ引かれ、甲板からふっと離れる。香莉の工房前で鳴る赤糸の鈴、青糸の鈴、生成りの鈴。それぞれの音色へ、迷子の熱が吸い寄せられていく。
浜で、狐たちが一斉に尾を振った気配がした。
次に、診療所の灯りへ人の火が戻る。
薬草の香りを目印に、寝台ごとの灯へ、諦めや怯えに押し潰されていた小さな熱が帰っていく。茉奈がひとりずつ名を呼ぶ声が、風にかすかに乗る。
「朝倉さん、戻って。鍋番させますから」
「浜田さん、寝たふりしないで。まだ干物を味見してもらってません」
こんな時までやり口が生活じみている。
だが、その生活の言葉がいちばん強い。
塩田へは、黙って我慢していた火が戻った。里未の怒鳴り声に押し返されるみたいに、白い塩床の筋へ赤が走り、すぐに穏やかな橙へ変わる。
見張り台へは、記録を諦めなかった火が戻った。晃治の机と、紙束と、湿らせた箱へ、小さく乾いた灯りがともる。
そして甲板の上では、赫堂の束ねた火が次々軽くなっていく。
赫堂の表情が初めて崩れた。
「止めろ」
術者たちが導索を押さえようとする。
だがもう遅い。帰る先が町じゅうへ散っている。一本切れば別の一本が流れ、押さえれば押さえた分だけ輪軸が別の溝へ回す。
これは強い一撃じゃない。
奪ったものを、居場所へ戻しているだけだ。
赫堂が尚樹へ手を伸ばす。
今度は言葉ではなく、直に依存火を打ち込むつもりだと分かった。赤い針が束になって飛ぶ。
尚樹は避けきれなかった。
胸へ刺さる。
息が詰まる。
膝が折れかけた。
脳裏へ、一瞬でいくつもの『楽な形』が流れ込む。榛家へ頭を下げる。赫堂へ膝をつく。町へ戻らず、責任を捨てる。誰かに決めてもらい続ける。
痛みはない。
むしろ甘い。
だから危険だ。
その甘さの中で、不意に別の匂いがした。
干した魚の塩気。湯屋になる前の診療所の薬草。棕櫚繊維の乾いた匂い。茉奈が怒る時だけ少し早くなる息。里未が水路板を蹴る音。香莉の鈴。槙の雑な靴音。晃治が紙をめくる時の指先の乾き。
あの町の、面倒くさい生活の匂いだった。
尚樹は目を開ける。
「……甘いだけの火って、飯がまずそうなんだよ」
赫堂が眉を動かす。
尚樹は、胸へ刺さった依存火ごと輪軸へ手をかけた。
痛い。今度はちゃんと痛い。
けれど、痛い方がまだ自分の足で立っている感じがした。
「返す」
もう一度、はっきり言う。
今度は、赫堂へ向けて。
おまえが他人から集めた火だけじゃない。おまえ自身が都合よく管理と呼んで縛ったもの、全部だ。
輪軸が逆回転した。
赫堂の胸元へ、細く黒い火が何本も戻る。
それは他人の火ではなかった。彼自身が見ないふりをしてきた苛立ち、恐れ、制御できないものへの怯え、役に立たないと切り捨てたものを実は怖れていた火だ。支配の外套で覆っていただけの、生身の熱。
赫堂が初めて息を乱す。
「やめろ」
「嫌だね」
尚樹は歯を食いしばる。
「楽したいからこそ、あとで寝覚めの悪い火は残したくない」
導索の一本がはじけた。
外海の術式炉が遠くでひとつ沈む。続いて二つ目、三つ目。束ねられていた離火潮が、海面へばらけ、普通の波へ近い形へ戻り始める。
槙の声が、浜の方から小さく飛んできた。
「もう少しだ、貴族!」
里未の怒鳴りも重なる。
「潮が返る前に落としきれ!」
香莉の鈴は、今や町じゅうで鳴っていた。
茉奈は何か叫んでいる。言葉は聞こえない。だが口の形で分かった。
食べて帰れ、だった。
こんな場面で言うことか、それ。
可笑しくて、少しだけ力が戻る。
晃治が帳面の最後を読み切った。
「返灯完了条件、所有痕の再一致! 尚樹、残りは塔主本人の火だけです!」
赫堂はなおも立っていた。
だがもう、他人の火の支えはない。風が外套を煽るたび、彼の姿は思ったより細く見えた。
「……無秩序に任せれば、また燃える」
それが最後の反論だった。
尚樹は息を整え、肩で笑う。
「だったら、そのたび水路を引き直すだけだろ」
「愚かな」
「愚かで結構。そっちみたいに、最初から人を薪扱いするよりずっとましだ」
赫堂の足元から、最後の赤い束が抜けた。
彼の膝が崩れる。
甲板へ片手をついたまま、もう立ち上がれない。
同時に実験船の中心炉が唸りを失い、船体全体へ亀裂のような熱割れが走った。火柱はしぼみ、外海の赤は一気に沈む。波がただの波へ戻った反動で、船は大きく傾いた。
「離脱!」
晃治が珍しく絶叫に近い声を出す。
尚樹は反射で帳面を掴み、幼獣を胸へ押し込み、甲板を蹴った。赫堂の術者たちは誰を支える余裕もなく、それぞれ手すりへ殺到する。
船腹の綱へ飛びついたところで、小舟を寄せていた若い兵が全力で怒鳴った。
「今です!」
尚樹は晃治の襟首を掴んで飛んだ。
次の瞬間、実験船の中央炉が内側から砕け、赤かった船影が黒い海水へ沈み込んだ。爆ぜたのは火ではなく、無理に束ねていた熱の方だった。空へ飛び散るでもなく、細かい灯になって、町の方角へほどけていく。
帰る場所を、もう失わないように。
*
小舟が旧港へ戻り着いた時、三回目の鐘が鳴った。
ぎりぎりだった。
突堤へ上がった尚樹は、その場で膝をつく。胸が痛い。腕も足も、どこがどう痛いのか数えたくないくらい痛い。
だが、町の匂いがした。
焼け焦げだけじゃない。薬草と湯気と塩と、濡れた棕櫚繊維の匂いだ。
赫堂は生きていた。沈む船から術者の一人が引き上げ、浜へ運んできたところを槙の兵が縛り上げる。皮肉な話だが、いま彼を生かしているのは、自分で嫌っていた『役に立たぬ者』たちの手際だった。
槙が尚樹の前へ来る。
「立てるか」
「今は無理だな」
「そうか」
言いながら、槙は容赦なく腕を引いて立たせた。
「うおっ」
「立てるじゃないか」
「おまえの基準は雑だ!」
そのやり取りへ、近くにいた若い兵がへたり込んだまま笑う。
笑っているなら、まだ大丈夫だ。
茉奈が診療所から駆けてきた。
いつもなら真っ先に傷を確認するはずなのに、今夜は二歩手前で止まり、尚樹の顔を見た。何か言いたそうにして、結局うまくまとまらなかったらしい。代わりに彼女は、思いきり額をぶつける勢いで胸へ寄り、そのまま一度だけ強く抱きついた。
痛い。
けれど文句は出なかった。
茉奈はすぐ離れ、目元を袖で乱暴に拭う。
「あとで殴ります」
「生きて帰ってもそれか」
「生きて帰ったからです」
香莉はその横で幼獣を受け取り、鈴の紐が切れていないのを確かめて小さく頷いた。里未は海を見て、潮の色が戻っていくのを確認すると、ようやく息を吐く。
「塩田、半分は助かった」
晃治が即座に言う。
「記録も半分以上残っています」
槙が肩を鳴らす。
「兵も全員、生きてる」
皆、最初に数えるものが違う。
それが妙に、この町らしかった。
尚樹はふらつく足で振り返り、海を見る。
さっきまで立ち上がっていた赤い潮は、もう膝の高さにも見えない。ただの夜の波が、崩れた実験船の残骸を押し流し、外海の火柱が立っていた場所には、暗い水面があるだけだった。
その暗さが、こんなにほっとするとは思わなかった。
銀色の鞄の中で、帳面が静かに冷えていく。
爻辞研究塔〈離為火〉の答え。
赫堂は『従わせること』だと言った。
だが尚樹には、もう別の答えが見えていた。
火は、囲むためにある。
干物を炙り、湯を沸かし、灯りをつけ、帰る場所を示すためのものだ。
誰かを黙らせるためじゃない。
茉奈が袖を掴む。
「尚樹さん」
「何だ」
「朝まで、まだ終わってません」
「知ってる」
「まず手当てです」
「せめて水を一杯くれ」
「そのあとです」
「順番が厳しいな」
「倒れた人に発言権はありません」
そう言われて、尚樹は少しだけ笑った。
町は焼け切らなかった。
無傷でもない。失ったものもある。まだ泣いていない顔も、夜のどこかに残っている。
それでも、帰ってくる灯りは残った。
空の東端が、ほんのわずかに薄くなる。
濡れた棕櫚の葉先から、朝の前触れみたいな雫が落ちた。
長い夜の最後で、海はようやく、ただの海の色へ戻り始めていた。




