表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怠け者次男は銀色の鞄で辺境を温める  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/16

第13話 爻辞研究塔〈離為火〉の答え

 海が立ち上がったのは、比喩ではなかった。


 沖からせり上がった赤い潮が、夜の底を持ち上げるみたいに弧を描き、旧港の石積みへ向かってゆっくりと高さを増していく。波頭には炎の筋が絡みつき、崩れる前から熱だけが先に浜を舐めた。


 棕櫚林がざわめく。


 海鳥はもう鳴かない。代わりに、工房の鈴と、見張りの鐘と、幼獣のかすかな唸りだけが聞こえた。


 尚樹は見張り台の縁を握ったまま、沖の船影を睨む。


 火柱の前に止まった黒い実験船は、波を受けても揺れ方が不自然だった。船底のどこかへ外海の術式炉が直結しているのか、持ち上がる赤い潮に逆らうどころか、それを足場にして滑ってくる。


 甲板の先端へ、ひとり歩み出た。


 濃紺の外套。風に煽られても乱れない姿勢。人の町を見下ろす時だけ、目が少し細くなる癖。


 赫堂だった。


 晃治が見張り台の下で、乾いた声を絞る。


 「術声器を持っています。船からでも浜まで声を通せます」


 「便利なもんばっかり作るな、あの塔は」


 尚樹が吐き捨てた直後、甲板の手すりに金具がひとつ据えられた。鐘とも笛とも違う、細長い喇叭のような器具だった。赫堂がそこへ指を添えると、次に響いた声は、波音を押しのけて町じゅうへ広がった。


 『無人汀領の者へ告ぐ』


 低く、よく通る声だった。


 誰かを説得するために鍛えた声ではない。命令が届けば十分だと知っている人間の声だ。


 『今夜、この地は危険指定領として封鎖する。抵抗をやめ、棕櫚狐と記録物を引き渡せ。従う者には保護を、逆らう者には処置を与える』


 浜にいた若い兵が思わず罵声を返しかけ、槙に肩を押さえられた。


 赫堂の声は続く。


 『そもそも、この土地は三年前に終わっていた。離火潮を制御できぬ土地へ人を残したのが誤りだ。弱い人間に自由を持たせれば、火は広がる。ならば管理下へ置く方が、よほど慈悲深い』


 茉奈が診療所の前で、ぎり、と歯を噛みしめるのがここからでも見えた。


 香莉は幼獣の胴着の紐を締め直し、鈴の位置を確かめる。里未は水路板の上に片足を乗せたまま、海面のうねりを睨んでいる。槙だけが表情を動かさず、浜の防衛線をもう一度見回した。


 赫堂がこちらを認め、ほんの少しだけ声色を変えた。


 『榛尚樹』


 嫌な呼ばれ方だった。


 昔、家で叱責の前にだけ使われた、苗字つきの呼び方に似ている。


 『君はまだ退ける。記録は半分届いた。これ以上、役に立たぬ者へ肩入れして焼かれる必要はない』


 尚樹は鼻で笑った。


 「役に立たぬ者、ね」


 そして見張り台の縁から身を乗り出し、負けじと腹の底から怒鳴った。


 「そっちの役に立つ形へ丸められるくらいなら、干物の番してる方が百倍ましだ!」


 浜のあちこちで、こんな時だというのに笑いが漏れた。


 槙が顔をしかめる。


 「啖呵としては弱い」


 「本音だからな!」


 赫堂は笑わなかった。


 その代わり、術声器へ触れていた指を少し沈める。


 沖の火柱が、ひときわ高く唸った。


     *


 第一撃は波ではなく、熱だった。


 空気そのものが焼け、棕櫚林の上を透明な刃みたいな熱が走る。見張り台の欄干がぱきりと鳴り、干物小屋の屋根に残っていた湿りが一瞬で蒸気へ変わった。


 「来る!」


 尚樹が叫ぶより早く、里未が堰板を蹴る。


 海水路一番、三番、五番が同時に開き、浜から町なかへ細い帯になって水が走った。槙が若い兵へ合図を送り、防湿布が通りへ渡される。香莉は工房前の狐たちを二列へ並ばせ、鈴をわざと互い違いに鳴らした。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 音が散らばらない。


 町の芯を示すみたいに、通りの中央へ一本の線を作る。


 茉奈の声が診療所から飛んだ。


 「火傷の桶は北口! 歩ける人は南へ回って! 歩けない人は寝台ごと運ぶ!」


 「寝台ごとって、そんな簡単に言うな!」


 尚樹が言うと、茉奈は振り向きもせず返した。


 「簡単じゃないから手を貸してください!」


 「はいはい!」


 口で文句を言いながら、足はもう見張り台を駆け下りている。最近、自分の足が口より先に決まることが増えた。あまり嬉しい変化ではない。


 浜へ降りた時、赤い潮が旧港の石積みにぶつかった。


 轟音。


 火と水の両方の音がした。


 波頭はその場で砕けるはずだった。だが砕けた赤は飛沫にならず、無数の細い蛇みたいに地を這って広がる。海水路へ入り込むもの、棕櫚林へ回るもの、家々の竈の残り火へ吸いつくもの。


 尚樹は目を凝らした。


 赤い筋の一本一本に、人の感情が混じっている。


 怒鳴られた悔しさ。捨てられた怯え。従っていれば痛くないと思い込まされた諦め。狐たちの警戒。研究員たちの保身。海獣の苦痛。どれも、本来は別々の胸や腹や尾の奥にあるはずの熱だ。それが雑に混ぜられ、一本の潮として押し寄せている。


 これでは、切っても切っても終わらない。


 赫堂は、火を増やしたのではない。


 他人から集めた火を、束ねて流している。


 「尚樹!」


 槙が怒鳴る。


 見れば、赤い筋の一部が浜の兵列ではなく、町の中央へ真っすぐ伸びていた。診療所でも工房でもない。役宅の前、銀色の鞄を置いたままの石段だ。


 鞄を狙っている。


 あるいは、鞄の中に眠るものを。


 尚樹は走った。


 赤い熱が足首へ絡みつく。痛い。だが命令の火ほどではない。まだ、押し返せる。


 石段へ飛びついた瞬間、銀色の鞄の留め金が内側から激しく鳴った。


 かちゃ、かちゃ、かちゃ、と、いつもの気取った一音ではない。急かすような音だった。


 「今度は何だ!」


 返事の代わりに、鞄の口が跳ねる。


 中から飛び出したのは、武器でも工具でもなかった。


 焦げ跡だらけの薄い帳面だった。


 表紙の半分が焼けている。それでも残った文字は読めた。


 『返灯仮式・未完』


 晃治が石段へ滑り込むように駆けてきて、息を呑む。


 「……遼真の筆跡です」


 帳面の端には、別の癖も混じっていた。几帳面な補注と、古い術式記号の書き足し。おそらく鞄の前任者が読もうとして、途中で書き込んだのだろう。


 尚樹は帳面を開いた。


 最初の頁には、遼真らしい悪筆でこうあった。


 『奪う方が簡単だが、それをやるとだいたいろくな顔にならない。返す方を残す』


 「こんな時まで軽いな、あの人は」


 茉奈がいつの間にかそこへ来ていた。頬に煤がついている。だが声は震えていない。


 帳面の次の頁から、びっしり術式が並ぶ。


 火の流路、結節点、受け皿、反転ではなく帰還。


 晃治の目が変わった。


 「これ、依存火の逆算式です。奪った火を一括で消すんじゃない。所有痕ごとに分けて、元の熱へ戻す」


 「できるのか」


 「理屈はあります」


 「その理屈、毎回ぎりぎりだな」


 「塔の術式はだいたいそうです!」


 怒鳴り返しながらも、晃治の指は頁を追っていた。彼は最後の見開きで動きを止める。


 そこだけ、焼け落ちていた。


 肝心の結びが半分ない。


 茉奈が息を詰める。


 「未完……」


 晃治が低く言う。


 「完成前に殺されたんでしょう。もしくは、最後の一行を試せなかった」


 沖で再び、火柱が唸る。


 外海の術式炉がひとつ、またひとつと明るさを増し、町の竈や灯籠へ赤い糸を伸ばしてくる。香莉の工房前で、狐が一匹、小さく悲鳴をあげた。尾の先へ黒火が戻りかけている。


 時間がない。


 尚樹は焼けた見開きを睨んだ。


 前半に書いてあることは分かる。返す火は、ひとつの大きな器へ流してはいけない。混ざればまた誰かのものになる。だから、生活の灯りを細かい受け皿にする。竈、湯釜、塩釜、灯籠、工房の炉、見張り台の灯、狐の尾の熱。町にある灯りを全部、持ち主へ帰る道筋へ組み直す。


 だが最後が欠けている。


 帰す順番か。受け皿の結び方か。


 その時、幼獣が帳面へ前足を置いた。


 きゅ、と鳴いて、焦げた頁の上で尻尾を一度振る。


 そこに淡い橙の毛が一本落ちた。


 香莉がはっと顔を上げた。


 「……混ぜるんじゃなくて、見分ける」


 「何だって」


 「返す火。帰り道がいるだけじゃない。その火が、誰のものか、途中で迷わない印がいる」


 香莉は狐の鈴を見た。


 「だから鈴をつけた。群れが混ざっても、音で帰れるように」


 晃治の目が、焦げた頁から香莉の手元の鈴へ飛ぶ。


 「印。識別。所有痕と生活灯の照合……」


 彼は帳面をひったくるように取り、空白の余白へ一気に書き始めた。


 「遼真は結びを一人で書いていない。前任者の補注がある。ここ、癖が違う。おそらく試算で止まった。なら足りないのは術式記号じゃない、運用側の印です。各灯りへ、それぞれ帰るべき熱を識別させる」


 「つまり」


 里未が短く問う。


 晃治は顔も上げず答えた。


 「町じゅうの灯りに、持ち主の目印をつけます。人は人の持ち場、狐は鈴、海水路は流す順番、工房は糸の色、診療所は薬草の香り。混ぜないよう分ける」


 「面倒くさいな」


 尚樹が言うと、茉奈が即座に返した。


 「生き残る方を選んでください」


 「分かってる!」


 帳面の最下段、焼けて消えたところへ、尚樹はふと遼真の別の文句を思い出した。


 『待ちを一人に負わせるな。』


 そうだ。


 返す先をひとりへ集めたら、押し潰れる。


 この町が生き残ってきたのは、面倒を一人で抱えきれないから、横へ渡し続けたからだ。


 尚樹は晃治の肩を掴んだ。


 「最後の一行、こうだ。受け皿を一人で持つな。町ごとで受ける」


 晃治が一瞬だけこちらを見た。


 それから、頷く。


 「……はい。それで閉じます」


 彼は余白へ、急いだ筆で結句を書き足した。


 『返灯は、待ちを一人に負わせぬ場へ落とすこと。』


 書いた瞬間、銀色の鞄の中で何かが鳴った。


 帳面の術式が、薄く橙に光る。


     *


 段取りが決まると、町は動いた。


 槙は浜の防衛を半分残し、半分を各持ち場へ散らす。


 「剣を振るなとは言わん。だが今夜は、守る線を引く方が先だ! 北通りは診療所の灯りを落とすな、東は工房へ火の粉を寄せるな、西は塩釜を空にするな!」


 里未は海水路の板を差し替えながら、浜から怒鳴る。


 「水は三番を先、五番は後! 潮が戻る前に塩田へ薄く回せ! 濃く流すと灯りが死ぬ!」


 香莉は狐たちへ次々鈴をつけ替えていった。


 赤糸、青糸、生成り糸。群れごとに色を変え、幼獣には最初に拾った時からつけている小さな鈴をそのまま残す。彼女は狐の鼻先へ額を寄せ、ひとつずつ囁く。


 「帰る場所、忘れないで」


 茉奈は診療所の戸を全開にし、竈の前へ薬草を並べ始めた。


 潮風草、薄荷葉、乾姜の根、夜香の花。香りの違う束を寝台ごとに分け、怪我人の名を呼び、手当てをしながら灯りの番もさせる。


 「花瓶じゃありません、持ってください! これはあなたの匂いの目印です! 自分の名前、ちゃんと言って!」


 老人が呆けたような顔で「今その余裕が」と言いかけると、茉奈はきっぱり言った。


 「あります! ないと帰ってこないから!」


 その言い方の方が、妙に皆を落ち着かせた。


 晃治は見張り台の板へ町の簡易図を広げ、帳面の術式を現場用に書き崩していく。


 「北は診療所、東は工房、南は塩田、西は旧港。交差点で混ぜない。鐘は一長二短、狐の鈴は色別、竈は炊きっぱなし禁止、灯籠は消すな、でも大きく燃やすな!」


 「注文が多い!」


 「死ぬより多い方がましです!」


 尚樹はその全部を聞きながら、自分の役を理解した。


 町じゅうの灯りへ帰り道を用意しても、沖の束ねた火をほどく者が要る。


 そこだけは、自分の目でやるしかない。


 赫堂の実験船と、外海の術式炉。


 あの結節点へ触れなければ、町へ引いた帰り道に火を流せない。


 槙が察したようにこちらを見た。


 「行く顔だな」


 「顔で分かるのか」


 「逃げる顔と、逃げないと諦めた顔の違いくらい分かる」


 「嫌な見分け方だ」


 槙は短く鼻を鳴らし、腰の鉄鉤を一本外して尚樹へ投げた。


 「旧港の突堤からなら、あの船の横腹へ寄れる。だが一人では行かせん」


 「俺も行きます」


 晃治が言う。


 「帳面が必要です」


 「おまえ、さっきまで吐いてたろ」


 「今も少し吐きそうですが、帳面を読めるのは私です」


 「私は残る」


 茉奈が先に言った。


 尚樹が何か言う前に、彼女は診療所の灯りを振り返る。


 「ここで待つんじゃありません。ここで受けます。帰ってくる火も、人も」


 幼獣がその足元へ擦り寄った。


 香莉がそっと抱き上げて、尚樹へ差し出す。


 「これ、連れていって」


 「連れていくのか?」


 「印になる。最初にあなたが拾った熱だから」


 尚樹は幼獣を受け取った。小さな腹は早鐘みたいに動いている。怖いのは自分だけではない。当たり前だった。


 里未が最後に言う。


 「沖は潮が返る。戻るなら、三回目の鐘までだ。それを過ぎたら、海が人の足を要らないって顔をする」


 「分かった」


 「分かってない顔してるけど、まあいい。死ぬな」


 「努力する」


 そして尚樹は、晃治と幼獣を連れ、旧港の突堤へ走った。


     *


 旧港の石積みは、三年前の火以来ずっと半分崩れたままだった。


 尚樹が無人汀領へ来た日、最初に見た時には、ただの終わった場所にしか見えなかった。いま走る石畳は濡れて滑り、赤い潮が間歇的に乗り上げる。それでも、その隙間には修繕した綱、打ち直した杭、香莉が干した布の痕、里未が置いた道具箱、槙が兵へ教える時につけた印が残っていた。


 終わった場所ではない。


 皆が何度も手を入れた場所だ。


 突堤の先で、小舟が一艘だけ待っていた。


 槙がいつの間に回したのか、若い兵が二人乗り込み、無言で櫂を渡してくる。ひとりはまだ頬が若い。だが目は逸らさない。


 「副長から。船腹の鉄輪にこれを引っかけろって」


 鉄鉤用の綱だった。


 「おまえたちは」


 「三回目の鐘で引き返します。それまで寄せます」


 言われて、尚樹は反論しなかった。


 引き受けると決めた人間の顔へ、外から軽々しく安全だけを押しつけられない時がある。最近ようやく、その辺を少し覚えた。


 小舟は夜の赤へ滑り出した。


 実験船へ近づくほど、空気が重くなる。潮の匂いに混じって、紙の焼ける匂い、薬草の焦げる匂い、獣毛の焦げる匂い、そして人が無理に従う時の嫌な甘さまで漂っていた。


 晃治が帳面を押さえながら言う。


 「中心は船そのものじゃありません。船底から外炉へ降りている四本の導索、その交点です」


 「見える」


 尚樹には、赤い糸の束が見えた。


 船の腹から海中へ伸びる四本。その真ん中で、さらに太い一本が赫堂の足元へ集まっている。あいつ自身が制御点だ。


 「結局、本人に触らなきゃ駄目か」


 「そうなります」


 「最高じゃないな」


 「一度も最高だったことはありません」


 小舟が横腹へ着く。


 若い兵が綱を振り、船腹の鉄輪へ鉄鉤を引っかけた。尚樹が先に登り、続いて晃治が帳面を抱えてよじ登る。幼獣は尚樹の胸へしがみついたまま、小さく唸っている。


 甲板へ上がった瞬間、熱が変わった。


 船の上では、外海の赤は単なる炎ではなかった。人の輪郭が混じる。膝を抱えた影、命令へ頷く影、泣きながら尻尾を丸める狐の影。それらが甲板の木目の上を薄く滑り、赫堂の足元で束ねられている。


 赫堂は船首に立ったまま、驚きもしなかった。


 「来ると思った」


 「待ち合わせの手紙でもくれればよかったのに」


 「軽口は震えを隠すのに便利だな」


 図星だったので腹が立つ。


 尚樹は鞄の肩紐を握り直した。


 赫堂の後ろには、塔の術者が四人いた。皆、口元を布で覆い、長い柄の金具を持っている。槙の兵が浜で引きつけてくれているのか、護衛は最小限だ。だが最小限で十分という顔をしている。


 晃治が帳面を開く。


 赫堂の視線がそこへ落ち、初めて明確に表情が動いた。


 「それまで出てきたか」


 「出てきましたよ。皆、あなたほど性格が悪くないので」


 尚樹が言うと、赫堂は静かに首を振った。


 「違う。鞄は必要に応じただけだ」


 その言い方が癪に障る。


 まるで鞄の機嫌まであいつに説明されたみたいだった。


 赫堂は一歩、こちらへ寄る。


 「君はまだ分かっていない。火は、勝手に持たせれば広がる。執着も恐怖も愛着も、放っておけば人を狂わせる。だから管理する。使える形へ寄せる。それが爻辞研究塔〈離為火〉の答えだ」


 尚樹は思わず眉をひそめた。


 「答え?」


 「火をどう扱うか、だ」


 赫堂の背後で外海の火柱が揺れる。


 「不安に震える町へ自由を与えて何になる。弱い者は、寄りかかる先が要る。従う相手を決め、痛みを避ける道を与えた方が、よほど穏やかに生きられる」


 甲板の影たちが、その言葉に合わせてざわめく。


 依存火だ。


 言葉そのものに痛みの回路を結び、聞く者の胸へ入り込ませる。『従えば楽だ』という諦めの形へ熱を整えようとしている。


 尚樹の膝が、ほんの少しだけ笑いそうになる。


 楽だ、とは確かに思う。


 責任を誰かへ渡し、自分は言われた通りにして、失敗の理由も他人へ預ける。あれほど欲しかった形だ。


 榛家で、研究塔で、尚樹はずっとそうしてきた。


 赫堂の声が近づく。


 「君は怠け者だ。だから分かるだろう。本当は、自分で選びたくないはずだ」


 その通りだった。


 認めるのは悔しいが、その通りだった。


 海と火の匂いの向こうで、赫堂の赤い火が細い針になり、尚樹の胸へ触れようとする。拒めば痛い。受け入れれば楽だ。そう囁く熱。


 だがその時、尚樹の腕の中で幼獣が思いきり暴れた。


 きゃう、と甲高く鳴き、爪が胸布へ食い込む。


 痛い。


 その単純な痛みで、妙に頭が冷えた。


 楽なら、こんなに色分けした鈴も、干物の棚も、塩田の水路も、診療所の薬草も、いちいち誰かの顔を見て調整する必要なんかなかった。


 面倒だった。


 今でも面倒だ。


 だが、それをやった後の飯の方がうまかった。


 尚樹は深く息を吸い、赫堂を睨み返した。


 「従えば楽、は確かにな」


 それから、一歩踏み出す。


 「でもな、好き勝手に怠けるのと、誰かに飼われて鈍るのは違うんだよ」


 赫堂の目がわずかに細くなる。


 尚樹は続けた。


 「面倒を減らすために棚を作るのは好きだ。でも、誰かを燃料にして静かにさせるのは趣味が悪い。俺は、俺が帰る飯の邪魔をする火は嫌いだ」


 船の上の影が、一瞬だけ揺らいだ。


 晃治が横から、抑えた声で言う。


 「今です。制御点へ触れれば帳面が開きます」


 「分かった!」


 尚樹は走った。


 赫堂の術者が一斉に金具を振るう。熱の鎖が甲板へ落ち、尚樹の行く手を塞ぐ。晃治が帳面を掲げ、頁に刻まれた逆算式を読み上げた。


 「一番、返路解放! 二番、混線遮断! 三番――」


 途中で術者の一人が晃治へ向かう。


 だが幼獣が尚樹の腕から飛び降り、その足元をすり抜けた。小さな鈴が鳴る。たったそれだけで、甲板を這っていた狐の影が一瞬だけ本来の尾の動きを思い出し、術者の足へまとわりつく。そこへ晃治が帳面の角を全力でぶつけた。


 鈍い音。


 「帳面で殴るな!」


 「他に武器がありません!」


 それはそうだ。


 尚樹は赫堂の目前まで踏み込み、火種を見る力を最大まで開いた。


 世界の輪郭が赤くほどける。


 赫堂の足元へ集まる無数の糸。その一本一本に、元の持ち主の痕が残っている。町の兵、診療所の患者、工房の狐、研究塔で怯えていた若い書記、洞窟で焼かれた海獣、そして赫堂自身の火。


 全部、見える。


 多すぎて吐きそうになる。


 赫堂が掌を向けた。


 「見えたところで、君一人に返せる量ではない」


 その通りだった。


 もしここで自分の胸へ受けたら、焼ける。間違いなく焼ける。


 だから尚樹は、受けなかった。


 帳面を開き、銀色の鞄へ手を突っ込む。


 今ほしいものは、強い武器じゃない。返り道を町へ流すための、ただの導きだ。


 鞄が重い音を立て、中から飛び出したのは、古い港で綱を巻くための真鍮の輪軸だった。片手ほどの大きさで、中央に四つ溝がある。


 晃治が息を呑む。


 「導索の分配輪!」


 「名前は今つけたのか!?」


 「昔の港具です、名前はだいたいそのままです!」


 尚樹は輪軸を赫堂の足元、導索の交点へ叩きつけた。


 金属音。


 四本の外炉索が一瞬だけ弛む。


 その隙に、晃治が帳面の結句を読み上げた。


 「返灯は、待ちを一人に負わせぬ場へ落とすこと!」


 遠く、町で鐘が鳴った。


 一長二短。


 診療所の竈の香りが風に乗る。


 工房の鈴が色違いに連なる。


 塩田へ流した水が、夜の底で白く光る。


 全部、帰り道だ。


 尚樹は赫堂の火を真正面から見た。


 「返せ」


 小さく言ったはずなのに、その一言は妙にはっきり届いた。


 輪軸が回る。


 赤い糸が、一本ずつほどけ始めた。


     *


 最初に戻ったのは、狐の火だった。


 外海の赤へ縫い留められていた細い熱が、色分けされた鈴の音へ引かれ、甲板からふっと離れる。香莉の工房前で鳴る赤糸の鈴、青糸の鈴、生成りの鈴。それぞれの音色へ、迷子の熱が吸い寄せられていく。


 浜で、狐たちが一斉に尾を振った気配がした。


 次に、診療所の灯りへ人の火が戻る。


 薬草の香りを目印に、寝台ごとの灯へ、諦めや怯えに押し潰されていた小さな熱が帰っていく。茉奈がひとりずつ名を呼ぶ声が、風にかすかに乗る。


 「朝倉さん、戻って。鍋番させますから」

 「浜田さん、寝たふりしないで。まだ干物を味見してもらってません」


 こんな時までやり口が生活じみている。


 だが、その生活の言葉がいちばん強い。


 塩田へは、黙って我慢していた火が戻った。里未の怒鳴り声に押し返されるみたいに、白い塩床の筋へ赤が走り、すぐに穏やかな橙へ変わる。


 見張り台へは、記録を諦めなかった火が戻った。晃治の机と、紙束と、湿らせた箱へ、小さく乾いた灯りがともる。


 そして甲板の上では、赫堂の束ねた火が次々軽くなっていく。


 赫堂の表情が初めて崩れた。


 「止めろ」


 術者たちが導索を押さえようとする。


 だがもう遅い。帰る先が町じゅうへ散っている。一本切れば別の一本が流れ、押さえれば押さえた分だけ輪軸が別の溝へ回す。


 これは強い一撃じゃない。


 奪ったものを、居場所へ戻しているだけだ。


 赫堂が尚樹へ手を伸ばす。


 今度は言葉ではなく、直に依存火を打ち込むつもりだと分かった。赤い針が束になって飛ぶ。


 尚樹は避けきれなかった。


 胸へ刺さる。


 息が詰まる。


 膝が折れかけた。


 脳裏へ、一瞬でいくつもの『楽な形』が流れ込む。榛家へ頭を下げる。赫堂へ膝をつく。町へ戻らず、責任を捨てる。誰かに決めてもらい続ける。


 痛みはない。


 むしろ甘い。


 だから危険だ。


 その甘さの中で、不意に別の匂いがした。


 干した魚の塩気。湯屋になる前の診療所の薬草。棕櫚繊維の乾いた匂い。茉奈が怒る時だけ少し早くなる息。里未が水路板を蹴る音。香莉の鈴。槙の雑な靴音。晃治が紙をめくる時の指先の乾き。


 あの町の、面倒くさい生活の匂いだった。


 尚樹は目を開ける。


 「……甘いだけの火って、飯がまずそうなんだよ」


 赫堂が眉を動かす。


 尚樹は、胸へ刺さった依存火ごと輪軸へ手をかけた。


 痛い。今度はちゃんと痛い。


 けれど、痛い方がまだ自分の足で立っている感じがした。


 「返す」


 もう一度、はっきり言う。


 今度は、赫堂へ向けて。


 おまえが他人から集めた火だけじゃない。おまえ自身が都合よく管理と呼んで縛ったもの、全部だ。


 輪軸が逆回転した。


 赫堂の胸元へ、細く黒い火が何本も戻る。


 それは他人の火ではなかった。彼自身が見ないふりをしてきた苛立ち、恐れ、制御できないものへの怯え、役に立たないと切り捨てたものを実は怖れていた火だ。支配の外套で覆っていただけの、生身の熱。


 赫堂が初めて息を乱す。


 「やめろ」


 「嫌だね」


 尚樹は歯を食いしばる。


 「楽したいからこそ、あとで寝覚めの悪い火は残したくない」


 導索の一本がはじけた。


 外海の術式炉が遠くでひとつ沈む。続いて二つ目、三つ目。束ねられていた離火潮が、海面へばらけ、普通の波へ近い形へ戻り始める。


 槙の声が、浜の方から小さく飛んできた。


 「もう少しだ、貴族!」


 里未の怒鳴りも重なる。


 「潮が返る前に落としきれ!」


 香莉の鈴は、今や町じゅうで鳴っていた。


 茉奈は何か叫んでいる。言葉は聞こえない。だが口の形で分かった。


 食べて帰れ、だった。


 こんな場面で言うことか、それ。


 可笑しくて、少しだけ力が戻る。


 晃治が帳面の最後を読み切った。


 「返灯完了条件、所有痕の再一致! 尚樹、残りは塔主本人の火だけです!」


 赫堂はなおも立っていた。


 だがもう、他人の火の支えはない。風が外套を煽るたび、彼の姿は思ったより細く見えた。


 「……無秩序に任せれば、また燃える」


 それが最後の反論だった。


 尚樹は息を整え、肩で笑う。


 「だったら、そのたび水路を引き直すだけだろ」


 「愚かな」


 「愚かで結構。そっちみたいに、最初から人を薪扱いするよりずっとましだ」


 赫堂の足元から、最後の赤い束が抜けた。


 彼の膝が崩れる。


 甲板へ片手をついたまま、もう立ち上がれない。


 同時に実験船の中心炉が唸りを失い、船体全体へ亀裂のような熱割れが走った。火柱はしぼみ、外海の赤は一気に沈む。波がただの波へ戻った反動で、船は大きく傾いた。


 「離脱!」


 晃治が珍しく絶叫に近い声を出す。


 尚樹は反射で帳面を掴み、幼獣を胸へ押し込み、甲板を蹴った。赫堂の術者たちは誰を支える余裕もなく、それぞれ手すりへ殺到する。


 船腹の綱へ飛びついたところで、小舟を寄せていた若い兵が全力で怒鳴った。


 「今です!」


 尚樹は晃治の襟首を掴んで飛んだ。


 次の瞬間、実験船の中央炉が内側から砕け、赤かった船影が黒い海水へ沈み込んだ。爆ぜたのは火ではなく、無理に束ねていた熱の方だった。空へ飛び散るでもなく、細かい灯になって、町の方角へほどけていく。


 帰る場所を、もう失わないように。


     *


 小舟が旧港へ戻り着いた時、三回目の鐘が鳴った。


 ぎりぎりだった。


 突堤へ上がった尚樹は、その場で膝をつく。胸が痛い。腕も足も、どこがどう痛いのか数えたくないくらい痛い。


 だが、町の匂いがした。


 焼け焦げだけじゃない。薬草と湯気と塩と、濡れた棕櫚繊維の匂いだ。


 赫堂は生きていた。沈む船から術者の一人が引き上げ、浜へ運んできたところを槙の兵が縛り上げる。皮肉な話だが、いま彼を生かしているのは、自分で嫌っていた『役に立たぬ者』たちの手際だった。


 槙が尚樹の前へ来る。


 「立てるか」


 「今は無理だな」


 「そうか」


 言いながら、槙は容赦なく腕を引いて立たせた。


 「うおっ」


 「立てるじゃないか」


 「おまえの基準は雑だ!」


 そのやり取りへ、近くにいた若い兵がへたり込んだまま笑う。


 笑っているなら、まだ大丈夫だ。


 茉奈が診療所から駆けてきた。


 いつもなら真っ先に傷を確認するはずなのに、今夜は二歩手前で止まり、尚樹の顔を見た。何か言いたそうにして、結局うまくまとまらなかったらしい。代わりに彼女は、思いきり額をぶつける勢いで胸へ寄り、そのまま一度だけ強く抱きついた。


 痛い。


 けれど文句は出なかった。


 茉奈はすぐ離れ、目元を袖で乱暴に拭う。


 「あとで殴ります」


 「生きて帰ってもそれか」


 「生きて帰ったからです」


 香莉はその横で幼獣を受け取り、鈴の紐が切れていないのを確かめて小さく頷いた。里未は海を見て、潮の色が戻っていくのを確認すると、ようやく息を吐く。


 「塩田、半分は助かった」


 晃治が即座に言う。


 「記録も半分以上残っています」


 槙が肩を鳴らす。


 「兵も全員、生きてる」


 皆、最初に数えるものが違う。


 それが妙に、この町らしかった。


 尚樹はふらつく足で振り返り、海を見る。


 さっきまで立ち上がっていた赤い潮は、もう膝の高さにも見えない。ただの夜の波が、崩れた実験船の残骸を押し流し、外海の火柱が立っていた場所には、暗い水面があるだけだった。


 その暗さが、こんなにほっとするとは思わなかった。


 銀色の鞄の中で、帳面が静かに冷えていく。


 爻辞研究塔〈離為火〉の答え。


 赫堂は『従わせること』だと言った。


 だが尚樹には、もう別の答えが見えていた。


 火は、囲むためにある。


 干物を炙り、湯を沸かし、灯りをつけ、帰る場所を示すためのものだ。


 誰かを黙らせるためじゃない。


 茉奈が袖を掴む。


 「尚樹さん」


 「何だ」


 「朝まで、まだ終わってません」


 「知ってる」


 「まず手当てです」


 「せめて水を一杯くれ」


 「そのあとです」


 「順番が厳しいな」


 「倒れた人に発言権はありません」


 そう言われて、尚樹は少しだけ笑った。


 町は焼け切らなかった。


 無傷でもない。失ったものもある。まだ泣いていない顔も、夜のどこかに残っている。


 それでも、帰ってくる灯りは残った。


 空の東端が、ほんのわずかに薄くなる。


 濡れた棕櫚の葉先から、朝の前触れみたいな雫が落ちた。


 長い夜の最後で、海はようやく、ただの海の色へ戻り始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ