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怠け者次男は銀色の鞄で辺境を温める  作者: 乾為天女


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12/16

第12話 離火潮の夜

 王都を飛び出したその日のうちに、尚樹たちは西門の外で二頭立ての早馬車をつかまえた。


 つかまえた、というより、晃治が監査院の保全命令書を鼻先へ突きつけて借り上げた。


 「公用です。最優先です。料金は後で監査院へ請求してください」


 御者は露骨に嫌な顔をしたが、法務印の入った紙は嫌がる相手ほどよく効く。尚樹が感心している間にも馬は走り出し、車輪は石畳から街道の土へ乗り換えた。


 夕方に宿場を越え、夜半に渡し場を抜け、明け方には沿岸道へ入る。


 普通なら二日かかる道のりを、眠る時間も削って詰めに詰めた。尻は痛いし、喉は乾くし、晃治は途中で二度吐いた。だが吐いたあとも帳面だけは手放さず、顔色の悪いまま「まだ死んでいません」と言った。


 「確認しなくていい情報だな」


 「あなたが置いていこうとするので、自己申告しました」


 「置いていくのは荷物の話だ」


 「私の扱いが荷物寄りなのは知っています」


 そういうやり取りができるうちは、まだ大丈夫だと分かる。


 だが昼を過ぎて海が見える道へ出た瞬間、その余裕はまとめて剥がれ落ちた。


 沖が赤かった。


 夕焼けには早い。雲も厚い。なのに水平線のあたりだけが、鍋の底をあぶったようにどす黒い赤を返している。潮の筋に沿って、細長い火の線が何本も走り、波頭が砕けるたび、火花ではない光がぬるりと伸びた。


 棕櫚林も遠くから見て分かるほど騒いでいた。乾いた葉擦れの音ではない。大勢が一度に息を呑んだ時みたいに、ざわ、ざわ、と落ち着かない波が陸へ向かって広がってくる。


 御者が顔を引きつらせる。


 「旦那、あれはまずい。浜へは近づけませんよ」


 「近づく」


 尚樹が言うより早く、晃治が監査院の紙を握ったまま付け足した。


 「近づいてください。止まったら、今度は本当に請求どころでは済みません」


 御者は半泣きで鞭を入れた。


     *


 無人汀領の外れへ着いた時、日はまだ沈みきっていないのに、町の明かりは夜みたいな扱いになっていた。


 見張り台の鐘が短く二つ、少し置いて三つ鳴る。槙が決めた避難準備の合図だ。浜側の荷車はすでに内側へ引かれ、干物小屋の周りには濡れた布が渡され、工房の前では若い兵が桶を並べている。


 門前の砂はしっとり湿っていた。里未が高い潮に合わせて、海水路へ先に水を通したのだろう。


 馬車が止まる前に、尚樹は飛び降りた。


 その胸ぐらを、着地した瞬間に引っ張られる。


 「遅いです」


 茉奈だった。


 診療所の前掛けの上から防水布を巻き、袖を肘まで捲っている。怒鳴る暇も惜しい顔だが、目だけはきっちり尚樹を捕まえていた。


 「帰った。文句はあとで聞く」


 「あとで三つは言います」


 「今じゃないのか」


 「今は働いてください」


 その横で香莉が黙って鈴紐の結び目を見た。鞄の取っ手に付いた鈴を確かめると、小さく頷く。


 「鳴った」


 「鳴ったな」


 それだけで十分らしかった。


 槙が見張り台から駆け下りてくる。


 「王都は」


 「半分だけ動いた。半分じゃ足りないから戻った」


 「そうか」


 槙はそこで余計なことを聞かなかった。代わりに、湿った砂の上へ棒で大きく線を引く。


 「潮は一刻後にさらに上がる。沖の赤い筋は今、三つ。南から二つ、正面から一つ。岬側の風は西寄りだ」


 里未がすぐ続ける。


 「正面の筋は浜へ真っすぐ来る。南の二つは塩田を舐める形。海水路の一番と三番はもう通した。五番は板が噛んでる」


 晃治が吐きそうな顔のまま割って入った。


 「外海の術式炉は、帳簿上では西外炉五号までありました。正面だけではありません。火を引く管が旧港の床下へ回っている可能性があります」


 尚樹は町の方へ目を向けた。


 火種を見る目には、もう海全体がただ赤いわけではなかった。


 沖から伸びる熱は三本ではない。細い糸のような赤が、旧港の桟橋下、倉庫裏の排水溝、役宅の石垣の継ぎ目、診療所の南壁の下まで入り込もうとしている。自然に燃え広がる火なら、乾いた場所を太く選ぶ。だが今見えている赤は、人の都合で引かれた道を嬉々として辿っていた。


 赫堂は、町そのものを燃やすのではない。


 町が長年使ってきた水路や床下や補修跡を、逆に火の通り道へ変えている。


 喉が冷えた。


 「……晃治。旧港の地下配管、帳面に何かあったか」


 「塩釜用の余熱管がありました。廃止扱いですが、位置までは追えていません」


 「里未、五番水路の先はどこへ繋がる」


 「旧港の床下。昔の塩釜の下を通る」


 ぴたりと噛み合った。


 尚樹は鞄の取っ手を握る。


 必要なのは、格好のいい武器じゃない。


 今必要なのは、廃止された余熱管を途中で断ち切り、海水を逆流させるための旧港用の止水楔と、潮門を一気に開けるための鉄鍵だ。


 そう理解した瞬間、銀色の鞄の留め金が硬い音を立てた。


 かちり、と開いた口から、錆びた長鍵が二本、分厚い鉄の楔が四つ、折り畳みの油布地図が一枚転がり出る。


 晃治が息を呑む。


 「本当に、必要な物だけ出すんですね……」


 「今それを感心してる場合じゃない」


 尚樹は油布地図を広げた。旧港の床下配管、塩釜の余熱管、海水路五番の継ぎ位置、封鎖板の抜き差しの向きまで描かれている。端の小さな字で、『ここを逆に開けると町中が塩まみれになるので夜半は禁止』とあった。


 「誰だよ、こんな親切な注意書き残したの」


 「昔のまともな人です」


 茉奈が即答した。


 言い返す暇もなく、尚樹は地図を抱えたまま声を張った。


 「槙、若い兵を六人くれ。二人は旧港の床下、二人は五番水路、残り二人は鐘楼だ。今から鐘の合図を変える」


 「内容は」


 「短く一つは南へ退避、二つは診療所へ搬送、三つ続けて一回は海水路を開けろ。間違えるなよ、間違えたら俺の役宅が真っ先に沈む」


 槙が片眉を上げる。


 「自分の屋敷を人質にする指揮官は初めて見た」


 「分かりやすいだろ」


 「分かりやすい。採用だ」


 彼はすぐ兵へ怒鳴った。


 里未へは別の指示を飛ばす。


 「潮が一段上がったら、一番じゃなく三番を先に全開だ。正面の火を塩田側へずらす」


 「塩田が焼ける」


 「人より先なら、あとで作り直せる」


 里未は一瞬だけ尚樹の顔を見て、それから頷いた。


 「分かった。塩はまた煮る」


 香莉には、幼獣の胴着を引き寄せながら言う。


 「狐を集めてくれ。鈴つきのやつを先頭にして、棕櫚林側の通り道へ。火に煽られて走り出した群れを、工房裏から診療所北へ抜く」


 香莉は短く答えた。


 「人間は?」


 「子どもが泣いたら、狐を前に出してくれ。あいつら、妙なところで効く」


 「分かった」


 幼獣がきゅう、と気合の入った声を上げる。香莉はその背をぽんと叩き、すでに動き出していた。


 茉奈へ向き直る。


 「診療所は入口を二つ使え。南は煙を吸った人、北は火傷と子ども。湯は切らすな。あと、棕櫚狐も診ろ」


 「最初からそのつもりです」


 「あと、無理して外へ出るな」


 「あなたもです」


 「俺は今から外しかない」


 「だから言ってます」


 お互い一歩も引かないまま、ほんの一瞬だけ目が合う。


 その間に、沖の赤い筋が一本、太く脈打った。


 槙が叫ぶ。


 「来るぞ!」


     *


 最初の波は、火の壁というより、熱を含んだ潮だった。


 沖で赤く光っていた筋がぐっと膨らみ、波頭の形を借りて浜へ押し寄せる。海そのものが燃えたわけではない。だが火種を見る目には、潮の中へ不自然な赤が細かく混ざり、砕けた飛沫が触れた場所だけ乾きを奪って黒い縁を残していくのが分かった。


 「三番、今!」


 尚樹が叫ぶと、塩田側で里未が木槌を振り下ろした。


 埋め直していた海水路の板が外れ、溜めていた海水が横へ走る。濡れた帯が一気に太り、浜から上がってきた赤い潮筋の腹をずらした。


 火を帯びた飛沫が塩田の端で散り、白い塩の山がじゅっと音を立てる。


 「塩が泣いてる!」


 若い兵が悲鳴混じりに言った。


 里未は振り向きもせず怒鳴る。


 「人より静かだ、気にするな!」


 気にする余裕がなくなるのは、そのすぐ後だった。


 旧港の床下から、どん、と鈍い音が上がった。


 次の瞬間、倉庫裏の石畳の継ぎ目が赤く走る。


 「床下だ!」


 晃治の声と同時に、尚樹は地図を折りたたんで駆けた。


 槙が兵二人を連れて後ろにつく。旧港の桟橋下へ潜る口は普段、魚籠と板で半分塞がれている。そこを蹴り開けると、生臭い湿気の奥で、細い管がまるで赤い虫みたいに脈打っていた。


 「鍵!」


 尚樹は鞄から出た長鍵を差し込み、思いきり捻る。


 錆びついた音が腕へ返った。重い。固い。だが途中で止めたら終わる。


 槙が背後から一緒に力をかけた。


 「貴族、腰を落とせ!」


 「今それ言うか!」


 「今だから言う!」


 ぐぐ、と最後まで回した途端、奥の封鎖板が落ちる音がした。里未の開けた五番水路から海水が逆流し、床下の余熱管へ流れ込む。赤い脈がひとつ、ぶつりと切れた。


 だが全部ではない。


 尚樹の目には、まだ細い二本が診療所南と役宅裏へ伸びている。


 「楔を打つ! 二手に分かれろ!」


 槙は即座に兵を振った。


 尚樹は診療所南へ走る。


 角を曲がった途端、棕櫚林から火を孕んだ風が抜け、葉先から赤い粉が舞った。自然の火の粉なら上へ散る。今のは誰かの悪意みたいに低く流れ、壁や戸口の隙間を狙ってくる。


 その低さの先で、子どもの泣き声がした。


 診療所へ運ばれる途中の担架が一つ、風に煽られて止まっている。抱えていた若い兵が立ちすくみ、足が動かない。火に触れたわけではないのに、目だけが熱に呑まれていた。


 尚樹は思わず怒鳴った。


 「下を見るな! 担架だけ見ろ!」


 兵がびくりと顔を上げる。


 「おまえの役目は、怖がることじゃなくて運ぶことだ! 三歩でいいから進め!」


 三歩。


 その具体さが効いたのか、兵は歯を食いしばって一歩、二歩、三歩と踏み出した。そこへ香莉の先導した鈴つきの棕櫚狐が二匹、ちりんちりんと音を鳴らしながら横へ入る。子どもが泣きやみ、担架の先が診療所の北口へ滑り込んだ。


 茉奈が戸口で受け取る。


 「そのまま湯の横へ! 煙を吸ってます、布を濡らして口へ!」


 指示が迷わない。尚樹はそれを背中で聞きながら、南壁の石組みへ鉄の楔を叩き込んだ。


 じゅっ、と嫌な音がして、継ぎ目に潜っていた赤が暴れる。


 火種を見る目の前で、細い赤糸が石の内側から引き抜かれ、水へ落ちた。


 「一本切れた!」


 「報告が雑だ!」


 槙の声が役宅裏から返る。


 次の瞬間、役宅の方で海水の噴く音がした。あちらも通ったらしい。


 ところが安心する間もなく、今度は沖そのものがうねった。


 赤い潮筋のさらに外側、水平線近くで、丸い光が一つ持ち上がる。


 夕日の残りではない。術式炉だ。


 海上に据えられた何かが、蓋を開けた釜みたいに赤熱し、その光を合図に外海の三本の筋がいっせいに太った。


 晃治が青い顔で叫ぶ。


 「増幅です! 西外炉だけじゃない、他も起きています!」


 槙が舌打ちする。


 「さっきまでのは前座か」


 尚樹は喉の奥で息を呑んだ。


 前座。


 その通りだった。今までは町の隙間へ火を入れるための手探りにすぎない。本番はここからだ。潮そのものを赤く染め、棕櫚林を鳴らし、皆がせっかく引いた湿りの線ごと呑み込むつもりで来る。


 逃げたい、と思う暇はあった。


 だがその暇のすぐ横で、槙が鐘楼へ向かって走り、里未が次の潮位を見に浜へ飛び、香莉が狐の群れを旋回させ、茉奈が負傷者の袖を切っている。


 誰も尚樹へ『どうする』と聞かない。


 聞かない代わりに、動ける前提で持ち場を噛み合わせている。


 その前提を、今さら裏切る方が面倒だった。


 尚樹は肺いっぱいに潮気を吸い込み、鐘楼へ向かって怒鳴った。


 「鐘を四つ! 外周を捨てて内側へ寄せろ! 浜は槙の指示だけ聞け! 診療所へ入る道は北と東を残して他を閉じろ! 工房の布を全部、棕櫚林側へ回せ!」


 声が町を走る。


 自分でも驚くほど迷いがなかった。


 槙がその声を受けて吠える。


 「聞いたな! 四つだ! 死ぬ順番を勝手に変えるな、まず年寄りと子どもを中へ押し込め!」


 里未は浜から手を振った。


 「次の高波で正面が来る! でも左が少し薄い!」


 「薄い方へ逃がすな、薄い方へ水を当てろ! 人は右へ!」


 「了解!」


 香莉はすでに工房前で防湿布をばさりと広げ、狐たちの胴着へ次々鈴を結んでいる。彼女が低い声で何か言うたび、狐は不思議なくらい素直に進路を変えた。ちりん、ちりん、と音が連なり、暗くなりかけた通りに細い道筋を作る。


 茉奈は診療所の戸口から一歩だけ外へ出て、尚樹を睨んだ。


 「尚樹さん!」


 「何だ!」


 「左の肩、血が出てます!」


 見れば、さっき床下へ潜った時に石で擦ったらしい。熱で気づかなかった。


 「あとで!」


 「倒れたら殴ります!」


 「その脅し、たぶん効いてる!」


 茉奈は返事の代わりに、濡らした布を丸めて投げつけてきた。尚樹は片手で受け取り、そのまま肩へ押し当てる。


 冷たい。


 その冷たさで、頭が一段はっきりした。


     *


 第二波は、正面からではなく、棕櫚林の上を越えてきた。


 沖で増幅された赤い熱が風へ乗り、乾いた葉裏へ触れたのだ。林が一斉に悲鳴みたいな音を立て、赤い筋が何本も枝から枝へ飛ぶ。


 「林を抜かれる!」


 若い兵の声に、尚樹は反射でそちらを見た。


 棕櫚林の奥に、黒い影がいくつも動いている。


 町の棕櫚狐ではない。体つきは似ているが、尾の先が不自然に赤く、足取りが揃いすぎている。研究塔側でさらに依存火を打ち込まれた群れだ。


 香莉が息を呑み、幼獣を胸へ引いた。


 「多い」


 「数えるな。今は寄せる」


 尚樹は言いながら、火種を見る目を凝らした。


 前に町を襲った群れと同じだが、今回は笛の糸が見えない。その代わり、尾の中の黒い火が外海の赤い炉と細く繋がっている。遠隔で煽っているのだ。


 なら、切る場所は尾ではない。


 群れが林を抜ける直前、その足元へ水を通せばいい。赤い火は乾いた接地を好む。腹を濡らせば勢いが鈍る。


 尚樹は地図の一角を思い出した。


 棕櫚林の北端、昔は薬草畑へ水を回していた細い潅水溝があったはずだ。


 「里未! 林の北、薬草畑の古溝はまだ死んでないか!」


 浜の方から返事が飛ぶ。


 「掘れば生きる!」


 「掘れ!」


 「誰で!」


 「俺と槙!」


 尚樹はそう叫んでから、自分で少し驚いた。


 前の自分なら、そこで『他に空いてるやつはいないのか』と探したはずだ。だが今は、指示を出すだけでは間に合わないと分かってしまった。


 槙はすでに鍬を奪って走っている。


 「遅い!」


 「今行く!」


 林の北端へ着くと、古い溝は半分以上土に埋もれていた。だが地面の湿りと勾配を見る限り、海水路三番の余りを回せば間に合う。


 尚樹と槙は無言で掘った。


 鍬が石へ当たり、腕へ痺れが返る。土は重い。熱で喉が焼ける。それでも三尺ほど掘り下げたところで、里未が後ろから堰板を外した。


 海水が細く流れ込み、埋もれていた溝が息を吹き返す。


 「もっと左!」


 里未が叫ぶ。


 「狐の抜け道がある!」


 香莉が鈴を鳴らしながら群れを誘導する。町の狐と、依存火に煽られた外の狐が、同じ林の切れ目へ殺到しかけた。


 その瞬間、尚樹は溝の出口を鍬で蹴り広げた。


 海水が腹ばいに走り、林の際を横切る帯になる。


 最初に飛び込んできた赤尾の狐が、その帯へ前脚を突っ込んだ。


 じゅっ、と小さく鳴る。


 尾の黒火がぶれ、群れの足並みが乱れた。


 香莉の鈴がそこで重なる。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 町の狐たちが横から割り込み、湿った帯の向こう側へ先に回った。外の群れは一瞬だけ追うべき音を失い、その隙に槙が防湿布を投げ、尚樹が火種の濃い二匹の前へ濡れた土を蹴り上げる。


 黒火が散った。


 全部は止まらない。だが先頭がよろけたことで、後ろの流れが崩れる。


 香莉は一歩前へ出て、静かな声で言った。


 「こっち」


 不思議なことに、その一声の方が怒鳴りより効いた。


 町の狐たちがまず動き、そのあとを迷った数匹が追う。依存火に煽られた外の群れの全部は無理でも、半分ほどが林の外へ逸れた。


 残りを槙の兵が湿った布と槍の柄で押し戻す。


 尚樹は肩で息をしながら思った。


 戦いというより、でかい迷子の群れを間違った道から剥がしている感じだ。


 その実感の方が、自分にはしっくり来た。


     *


 日が完全に落ちるころには、町の上空そのものが赤く曇っていた。


 火の粉は飛び、鐘は鳴り、海水路は何本も唸る。診療所の中では湯が絶えず、工房の前では布が次々濡らされ、塩田の一角はあきらめたように赤黒く沈んでいる。


 それでも、まだ町は立っていた。


 尚樹が見回り台へ駆け上がると、そこから全体が見えた。


 北の通りでは、子どもたちが狐の鈴を追って避難している。東の水路際では、里未が若い兵へ板の抜き差しを怒鳴りつけている。診療所の北口には茉奈が立ち、濡れた布で顔を覆ったまま、来る者をひとりずつ中へ振り分けている。工房の屋根では香莉が布を干すのではなく、火の粉が乗る前に叩き落としていた。晃治は鐘楼の足元で紙片を濡れ箱へ入れ、何が起きたかを時刻ごとに書いている。こんな最中でも、後へ残す記録を切らさないつもりらしい。


 そして槙は、浜の最前へ立っていた。


 黒い空と赤い潮の境目に、やけに細く見える。


 尚樹はそこへ向かいかけたが、ふと足を止めた。


 沖のさらに向こうで、さっきより大きな光が持ち上がっている。


 炉が一つではない。


 三つ、四つ。外海に点々と置かれた術式炉が、まるで潮の上の灯台みたいに赤く並び、その中心で一際高い火柱が立ち上がった。


 その火柱の前に、黒い船影がある。


 普通の漁船より背が高く、舳先に金具が光る。帆は張っていないのに、潮に逆らってまっすぐ進む。


 火種を見る目には、その船全体が、他人の心を削って固めたみたいな嫌な赤で縁取られていた。


 晃治が見張り台の下から顔を上げ、かすれた声を出す。


 「……あれ、塔の外海実験船です」


 尚樹の背筋へ、王都の石室で見た赫堂の火がそのまま蘇る。


 半分の政治決着では足りないと笑うような、冷たい赤だ。


 船影は浜へ正対し、火柱の前で止まった。


 風が変わる。


 棕櫚林が一斉に鳴き、海面の赤がすっと一本の道になる。


 槙が浜から振り向き、尚樹へ怒鳴った。


 「貴族! まだ何か来るぞ!」


 尚樹は見張り台の縁を掴んだまま、その船の前で揺れる人影を見た。


 距離があって顔は分からない。だが、こちらを人の町ではなく、燃やして片づける荷札つきの廃材みたいに眺める火だけは、見間違えようがなかった。


 赫堂が来た。


 しかも、今までの火は町を弱らせるための準備でしかない。そう言わんばかりに、外海の炉がさらに低く唸り、離火潮の赤が沖から持ち上がっていく。


 尚樹は乾いた唇を舐め、浜の全員に届くよう腹の底から叫んだ。


 「持ち場を離れるな! ここから先は、燃やされる順番じゃなく、生き残る順番で動くぞ!」


 その声へ、鐘がひとつ重なった。


 次の瞬間、海そのものが、夜の中で立ち上がった。



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