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怠け者次男は銀色の鞄で辺境を温める  作者: 乾為天女


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16/16

第16話 春の一首

 寒の戻りが三度過ぎ、海風の匂いがようやくやわらいだ。


 無人汀領の朝はまだ冷えるが、指先へ噛みつくような冬の痛さはもうない。旧港の杭には新しい縄が馴染み、塩田の白は前より広く、汀の湯の仮札はいつの間にかちゃんとした木の看板へ替わっていた。香莉の工房先には洗い上げた布が揺れ、槙の若い衆は怒鳴られ慣れた顔で見回りへ出ていく。文書館の窓は朝から開き、晃治の机には返却待ちの帳面が積まれていた。


 そして尚樹は、代官屋敷の庭先で盛大に渋い顔をしていた。


 「なんで春にも詩会をやるんだ」


 縁側で花の枝を束ねていた里未が、呆れたように鼻を鳴らす。


 「秋にあれだけ人が集まったんだ。やらない理由の方がないだろ」


 「人が集まると、片づけが増える」


 「先に言っとくけど、その片づけ要員を増やすために集まるんだよ」


 まるで逃げ道を読んだみたいな返しだった。


 尚樹が言葉に詰まっていると、今度は晃治が文書館から札束を抱えて現れる。


 「詩会の席順表です」


 「席順いる?」


 「前回、干物棚の前に人が固まって通路が詰まりました」


 「そんな理由で席順が生まれるのか」


 「町が育つと必要な段取りも育ちます」


 嫌なことを、いい話みたいに言う。


 だが実際、去年の秋に灯籠を並べて開いた小さな詩会は、この町にとって思った以上に大きかった。戻ってきた者がいた。通りすがりに寄った行商が塩を買った。湯屋へ立ち寄る理由が一つ増えた。何より、夜に人が笑って集まる光景を、無人汀領の者たちが自分たちの町のものとして受け取った。


 あれから冬を越えた。


 春になった今、またやると言い出したのは茉奈だった。


 『今度は、喪ったものを数える会ではなく、戻ってきたものを数える会にしたいんです』


 そう静かに言われてしまうと、尚樹には反対しきれない。


 「で、題は?」


 「春です」


 庭の向こうから本人の声が返る。


 茉奈は診療所帰りらしく、袖を少しまくり上げたまま、木盆に湯呑を載せて歩いてきた。盆の端には、干した棕櫚花と、薄桃色の貝殻がいくつか並べてある。


 「春、ねえ」


 「嫌そうですね」


 「春って、何を詠めばいいのか曖昧だろ。秋は魚もうまいし、風も分かりやすいし」


 「春も分かりやすいですよ」


 茉奈は盆を縁側へ置き、海の方を見る。


 「寒いのが少しずつゆるむでしょう。戻ってくるものが、目に見えるので」


 尚樹もつられて視線を向けた。


 桟橋の先では、小舟が二艘並んで揺れている。冬のあいだ外へ出る日を選んでいた里未たちも、最近は沖へ出る回数が増えた。湯屋の脇には見慣れない旅人用の荷車が止まっていて、工房の軒先には注文待ちの狐用胴着が揃っている。棕櫚林の奥では、若い狐たちが朝の見回りから戻ってきて、ちゃんと箱へ鈴を鳴らしながら飛び込んでいた。


 戻ってくるもの。


 たしかに、この町にはそれが増えた。


 尚樹はひとつ息を吐き、盆の上の湯呑を受け取る。


 「分かった。やる」


 「最初からやる予定でしたよね」


 「さも渋々みたいな顔をする自由はある」


 茉奈が声を立てずに笑った。


     *


 詩会は、日が西へ少し傾いた頃に始まった。


 会場は旧港脇の広場だった。冬のあいだに板を打ち直した舞台へ、香莉が薄い布を張り、その上へ棕櫚の葉を細く裂いて編んだ飾りを垂らしている。灯籠は秋の時より数が増え、湯屋からは温かい茶、炊き出し小屋からは塩味の団子汁、里未のところからは焼いた小魚が運び込まれていた。


 「前よりだいぶ大がかりだな」


 尚樹が呟くと、槙が広場の端から短く返す。


 「人が増えた」


 「見りゃ分かる」


 「だから段取りも増えた」


 それも分かる。


 広場には町の者だけでなく、春の商いに合わせて立ち寄った商人や、王家の支援で様子を見に来た役人まで混じっていた。だが不思議とよそよそしさは薄い。狐が人の脚の間を抜け、湯気の匂いが漂い、子どもが団子汁をこぼして里未に叱られる光景があれば、肩書きは案外どうでもよくなるらしい。


 香莉は狐たちの首輪紐を整えながら、静かに言った。


 「今日は逃げないで」


 「誰が」


 「尚樹さん」


 「なんでおれ限定なんだ」


 「前回、始まる前に樽の陰へ隠れた」


 覚えていた。


 「隠れてない。風向きの確認だ」


 「樽の裏でしゃがんでました」


 反論の余地がなかった。


 そこへ晃治が名簿を片手に現れ、容赦なく追い打ちをかける。


 「今回は主催側代表の挨拶がありますので、隠れる時間はありません」


 「そんなもの聞いてない」


 「今、言いました」


 「卑怯だぞ」


 「逃げ道を先に塞ぐのが段取りです」


 最近、この町では段取りという言葉が万能すぎる。


 尚樹が本気で帰りたそうな顔をしたところで、茉奈が舞台脇から呼んだ。


 「尚樹」


 その呼び方だけで、足が止まる。


 茉奈は薄い水色の上着を羽織り、髪を後ろでゆるく結っていた。派手ではない。けれど潮風の中で立つと、白い灯籠の明かりが寄っていくみたいに見えた。


 「大丈夫です」


 「何が」


 「失敗しても、皆もう知っていますから」


 「何を」


 「尚樹が、そういうところで格好よく決める人じゃないこと」


 ひどい。


 ひどいが、妙に安心する言い方だった。


 尚樹は顔をしかめ、それから小さく肩を落とす。


 「……じゃあ、格好つけない方で行く」


 「その方が似合います」


 「褒められてる気がしない」


 「褒めてます」


 また笑っている。


 その笑い方を見ると、やっぱり逃げなくてよかったと思ってしまうから困る。


     *


 詩会は、予想に反して穏やかに始まった。


 最初に舞台へ上がったのは里未で、潮の匂いと塩俵の重さをそのまま言葉へしたみたいな一首を詠み、最後に「今年は漁も塩も去年より欲張るよ」と付け足して喝采を受けた。続いて槙が、見回りの夜明けと柵の向こうに立つ新しい櫓を短い言葉で詠み、若い衆が驚いた顔をした。どうやら槙が歌を詠めると思っていなかったらしい。


 香莉は、湯屋の桶へおそるおそる入った狐を題にして、静かなのに妙に可笑しい一首を出した。狐たちは意味も分からないくせに、自分たちが拍手されたのだと思ったのか、鈴を鳴らして胸を張っている。


 晃治は文書館らしく、春の湿気で帳面が反る不満を詠んだ。会場のあちこちから笑いが漏れ、本人だけが真顔だった。


 その笑いの中で、尚樹は自分の順が近づくのをいやでも感じていた。


 「おい」


 舞台脇で茉奈へ声を落とす。


 「今からでも代表挨拶、槙に替えられないか」


 「もっと緊張が広がります」


 「里未は」


 「話が長くなります」


 「晃治」


 「三頁になります」


 どれもありそうで嫌だった。


 結局、尚樹は自分で舞台へ上がるしかない。


 広場からの視線が集まる。王都で注目されるのとは違う。もっと近い。誰がどんな顔をしているか分かる距離だ。湯屋帰りの老人、塩田帰りの手を膝へ置いた女たち、若い衆、子ども、行商、役人、狐。


 狐まで見ているのは反則だろう、と思った。


 「ええと」


 尚樹は頭を掻いた。


 「春の詩会ってことで、集まってくれてありがとうございます」


 最初から締まりがない。


 それでも広場は静かに待ってくれた。


 「去年の秋にやった時は、正直、人がこんなに増えると思ってなかった。というか、おれはそもそも、自分がこんなところで挨拶する側に立つと思ってなかった」


 あちこちで小さな笑いが起きる。


 「でも、町が戻るって、たぶんこういうことなんだと思う。塩田が広がるとか、湯屋ができるとか、工房が忙しいとか、それももちろんそうだけど……飯のあとに帰らず残るとか、誰かの歌を聞いて笑うとか、次の季節の話をするとか」


 そこで尚樹は、一度だけ息を継いだ。


 海風が頬を撫でる。


 もう、冷たすぎはしない。


 「なので、今日は春を詠んでください。うまくなくても、長くなくてもいいです。ここに残った人も、戻ってきた人も、たまたま寄った人も、来年また来る理由になるようなやつを」


 言い終えると、拍手が起こった。


 格好はつかなかったが、ひどくはなかったらしい。


 舞台を下りると、茉奈が小さく頷いた。


 「よかったです」


 「今のは褒め言葉として受け取る」


 「ちゃんと褒めています」


 「じゃあ安心した」


 そう答えた時、自分の声が思ったより素直で、尚樹は少しだけ驚いた。


     *


 日がさらに落ち、灯籠の明かりが広場へ揺れ始める。


 子どもたちの拙い歌が続いたあと、年かさの漁師が一つ詠んだ。春の潮と、亡くした者の分まで舟を出す朝を重ねた歌だった。広場が静かになり、誰も急いで拍手をしなかった。


 その沈黙のやわらかさが、この町の冬を思わせた。


 失ったものはなくならない。


 けれど、それだけを抱えて季節を止めることもしない。


 次に名を呼ばれたのは、茉奈だった。


 茉奈は盆の上へ短冊を一枚置き、舞台へ上がる。風が髪の後れ毛を少し揺らした。尚樹は無意識に背を伸ばしていた。


 茉奈は一度だけ広場を見渡し、それから、はっきりと詠んだ。


 「灯り増え 湯気越す声に 戸をひらく 春の汀へ 鍋の香もどる」


 広場のあちこちで、息を呑む気配がした。


 戻る。


 喪った人の名を直接は呼ばない。涙のことも、離火潮の夜のことも言わない。それでも、あの日を知る者には十分に分かった。戸を開ける音。湯気越しの声。鍋の匂い。帰ってくるのは一人の誰かではなく、暮らしそのものだ。


 尚樹は拍手するのを一拍だけ忘れた。


 隣で晃治が静かに手を打ち始め、里未が鼻をすすり、香莉が何も言わずに頷く。それでようやく我に返り、尚樹も手を叩いた。


 茉奈は舞台を下りてきて、少しだけ照れたように笑う。


 「難しかったです」


 「いや」


 尚樹はうまく言葉が見つからず、結局、正直に言った。


 「すごく、よかった」


 たぶん、それで足りた。


 茉奈のまつ毛が灯籠を映して揺れた。


 「ありがとうございます」


 今度は濡れていない。


 けれど春の明かりがそこへ止まっているみたいで、尚樹は少しだけ視線の置き場に困った。


     *


 最後の方になると、広場の空気はすっかりやわらいでいた。


 旅の行商が「塩を買いに来たのに歌まで持って帰ることになった」と笑いながら詠み、若い衆の一人は巡回中に狐へ先導された夜明けをぎこちない言葉で出した。うまい下手より、ここへ何を見てきたかが歌になっている。


 その途中、団子汁を両手で抱えた小さな子が、舞台の前で大きな声を上げた。


 「ねえ、また秋もやるの?」


 広場がどっと笑う。


 里未が「やるとも」と即答しかけたところを、茉奈が先に受けた。


 「やりたいですね」


 すると別の誰かが重ねる。


 「来年も秋を詠もう」


 短いその一言が、灯籠の明かりよりもまっすぐ広場へ広がった。


 来年も。


 それは、ずいぶん遠い言葉だったはずだ。あの火の夜からすれば、冬の先を当たり前みたいに口にすること自体が、もう贅沢だったはずなのに。


 今は誰も、その言葉を笑わなかった。


 「来年の秋までに、もっと席を増やさないとですね」


 晃治がすでに帳面へ書いている。


 「そこからかよ」


 尚樹が呆れると、槙が腕を組んだ。


 「櫓の上からも見えるようにすればいい」


 「見回り兼観覧席か」


 「悪くない」


 香莉は狐の耳飾りみたいな小さな札をいじりながら、ぼそりと言う。


 「秋用の胴着、作れそう」


 里未は笑いながら、焼き魚の皿を追加した。


 「ほらね、もう次の段取りだよ」


 尚樹はため息をつくふりをした。


 けれど本当は、その会話がひどくうれしかった。


 明日の作業ではなく、来年の季節の話をしている。


 逃げ道の算段じゃない。


 ここへ戻ってくるための話だ。


     *


 詩会が終わる頃には、空の群青が深くなり、灯籠の明かりだけが広場へ残っていた。


 片づけは案の定、大変だった。


 椀を集め、長椅子を戻し、狐がくわえて持って行こうとした飾り紐を回収し、団子汁の鍋を湯屋へ下げる。若い衆が二脚まとめて運ぼうとして槙に止められ、里未が余った焼き魚を手際よく包み、晃治は最後まで参加者数を数えていた。


 尚樹は舞台の端に残った短冊を拾い集め、風で飛ばされないよう木箱へ収めていく。


 最後の一枚を拾おうとしゃがんだ時、腰の脇の銀色の鞄が、かすかに重みを変えた。


 尚樹は手を止める。


 なんとなく分かる。


 今なら、開ければ何か出る。


 けれど急がずに留め金へ触れた。


 鞄の中には、遼真の帳面があった。何度も開き、何度も助けられた帳面だ。今はもうページが暴れることもなく、ただ静かに閉じている。役目を終えた、という顔だった。


 その隣には、今日使わなかった短冊が数枚と、古い筆、以前なら欲しがったであろう近道の図面らしきものが眠っている。


 尚樹は帳面の表紙を一度だけ指で撫で、すぐ鞄を閉じた。


 もう、何でもそこから答えを出してもらわなくていい。


 この町の次の季節は、ここにいる皆で決められる。


 「尚樹」


 後ろから茉奈が呼ぶ。


 振り向くと、木盆に椀を二つ載せて立っていた。中身は春野菜と干魚を煮た汁らしく、湯気の匂いだけで腹が鳴りそうになる。


 「まだ片づけ終わってない」


 「だからです。終わらないと、また後で倒れた顔をします」


 「そんな顔してたか」


 「してました」


 言い返せない。


 尚樹は椀を受け取り、舞台の縁へ腰を下ろした。茉奈も少し離れて座る。広場ではまだ誰かが笑い、狐の鈴が遠くで鳴っている。


 「来年も秋を詠もう、か」


 尚樹が呟くと、茉奈は湯気越しに頷いた。


 「いい言葉でしたね」


 「前なら、そんな先の話を聞いたら逃げてた」


 「今は?」


 尚樹は椀の中を見た。青い菜、ほぐれた魚、白い湯気。腹が減る匂いだ。今日一日の喧騒が、全部そこへ溶けているみたいだった。


 「今は……その頃までに、また面倒が増えてるんだろうなって思う」


 茉奈が吹き出した。


 「そこなんですね」


 「大事だろ。席増やして、灯籠増やして、狐の分も考えて、湯屋の鍋も大きくして」


 「はい」


 「でも」


 尚樹は少しだけ笑った。


 「悪くない」


 茉奈は何も急かさなかった。


 ただ隣で椀を持ち、同じ広場を見ている。


 それが、たぶん今の二人にはちょうどいい。


 「責任なんて、できれば今でも背負いたくない」


 尚樹は、灯籠の残り火みたいな声で言った。


 「けれど、あの食卓に帰るためなら、まあ悪くない」


 茉奈はしばらく黙っていた。


 やがて、椀を持ったまま、ほんの少しだけ目元をやわらげる。


 「では、明日も帰ってきてください」


 「明日もか」


 「毎日です」


 「厳しいな」


 「生きている町は忙しいので」


 またその台詞だった。


 尚樹は笑う。今度は呆れではなく、ちゃんと帰る場所を見つけた人間の笑い方で。


 広場の片づけが終わる。


 灯籠が一つ、また一つと消されていく。


 それでも無人汀領は暗くならない。


 湯屋に人の声があり、文書館に明日の帳面があり、工房に縫いかけの胴着があり、塩田の向こうには次の朝の白が待っている。棕櫚狐たちはそれぞれの箱へ丸くなり、海は静かな音で岸を打つ。


 怠け者のままでも、人は変われる。


 全部を背負う立派な人間になれなくても、帰りたい食卓のためなら、明日の段取りくらいは口にできる。


 尚樹は立ち上がり、銀色の鞄の位置を肩で確かめた。


 「ほら、戻るか」


 誰へ言ったのか、自分でも少し分からない。


 茉奈へか、狐へか、町へか。


 たぶん、全部だ。


 海風のぬるみを頬に受けながら、尚樹は灯りの残る方へ歩き出した。



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