雪
*
「試合に間に合うように飛ばすからな、しっかり掴まってろ」
「うん……」
立っているのも精一杯だった僕は後部座席で横になっていた。
助手席は母。
ドライバーの父は僕のために法定速度を大きく越えてスピードを出していた。
国道一六号を少し進んだ先で、家電量販店のある交差点だった。
父の軽自動車は信号を無視して右折してきた二㌧トラックと衝突した。
軽自動車は二㌧トラックの運転手席に真っ直ぐに激突し、フロント部分が大破した。トラックのドライバーは死亡。軽自動車に乗っていた父と母も死亡。
唯一、後部座席で寝ていた僕だけは軽症だった。
シートベルトをつけてなかった僕は、衝突の衝撃で前方へ投げだされたが、父と母の体が僕を受けとめてくれていた。
その時に脳震盪を起こしたらしく、一連の事故のことを僕はなにも覚えていない。
そのまま数日間入院した。CTやMRIを始め、様々な精密検査を受けたが、脳震盪による記憶喪失以外に異常はなかった。
すぐに退院した。
事故は刑事事件にはならず、ただの”交通事故”として処理された。両者に過失があったためである。
父の自動車保険から相手方に損害賠償を支払い、こちらもまた、トラックの所属する運送会社から賠償金をもらった。
両親の遺体は事故の衝撃で体が半壊し、無残な姿になっていた、らしく、医者から、「遺体は見ない方がいい」と勧められため、僕は見なかった。
葬儀も通夜も”二人”は抜きにして行われた。
そしてすぐに日常に戻った。
「来年こそは甲子園だね! 頑張ろーね! みんな!」
「「「おー!」」」
八月になった。
あの日の決勝戦、桜ヶ丘学園は大宮学院に一〇対一二で負けた。
僕の代わりに登板した一年生ピッチャーが打ち込まれてしまったのだ。
売りにしていた強力打線は奮起したが一歩及ばなかった。
「陽太くん……、無理、しないでね。なんでもゆってね。私、どーせ暇だから出来ることだったらなんでもするからね」
栗山夏海は桜ヶ丘学園野球部でマネージャーを務めていた。
王川中のころも、野球部でマネージャーをやっていた。
「野球は嫌いだけど……、他にやることもないから」
なんて夏海は笑っていたけれど、正直、助かっていた。洗濯や部室の掃除、水分の用意等、マネージャーの存在は大きい。
「来年はお前を中心にしたチームになるだろう。色々大変だとは思うが……、期待している」
三年生が引退して新チームになった。監督は僕に言った。
「はい……、今年の悔しさを来年晴らします」
強力打線の主力は三年生だった。彼らが引退した今、僕にかかるプレッシャーも大きくなった。
僕は練習に打ち込んだ。
八月。
夏の匂いと青空はいつもと変わらない。
蝉の音をかき分けて打球音が響く。連日の練習が終わった後は、夏海と家に帰るのが日課だった。
「陽太くん……、今日夜ご飯つくってあげよっか? 料理、陽太くん苦手だよね? はは……私ね、こー見えて、けっこ得意なんだよ?」
「こう見えてって……、はは。そうにしか見えないよ」
「え? あ、そ、そっかな?」
「うん。なっちゃんは料理上手そうだよ。昔から」
栗色の髪が夕日に照らされて一層綺麗だった。穏やかで優しい夏海の存在は、いつも側にある変わらないものだった。
夏海といると安心した。
「蒼衣ちゃんとは違って、さ」
「え? あーちゃん?」
「ああ、蒼衣ちゃん。秋山蒼衣」
「懐かしい名前だね……あーちゃん……」
「蒼衣ちゃんはきっと料理とか苦手だろうなぁ」
「えー? そーかなぁ」
「そうだよ。がさつだったし」
「でも、あーちゃん器用だったから意外と上手なんじゃないかな」
「はは、そうかもね」
「あーちゃんはなんでも上手く出来たもん。意外と」
「そう! 意外とね!」
「うん! 意外と!」
「はは……今どうしてるんだろうなぁ。蒼衣ちゃん。野球やってるのかなぁ」
「やめたんじゃない? さすがに」
「なっちゃんも連絡取ってないの?」
「うん……、なんか連絡取れなくなっちゃって」
「そっか……」
自転車を押して広瀬橋を渡る。
オレンジ色の水面は違う世界みたいで綺麗だった。
「陽太くん……、大丈夫?」
「え?」
「大丈夫……じゃないよね。ごめんね。変なことゆって」
「いや、いいよ」
「あー、私って鈍くさいよね。あーちゃんだったらこんな時、きっと上手く出来るんだろうなぁ」
「なっちゃんはそれでいいよ」
「そ、そっかぁ」
「うん。それでいい」
「でも陽太くん……、なんか変だから」
「そう?」
「うん。なんか、普通すぎて変だよ」
「はは……、普通すぎる、か」
「……?」
「なんかさぁ……、実感が沸かないんだ」
「え?」
「なんも覚えてないからかもしれないけど……、現実感がないんだよね。夢みたいな、そんな感じで」
父と母は死んだ。
それは理解出来ていた。でも、”死んだ”という言葉の意味がまるで理解出来なかった。
もうこの世界にいない。
いない?
?
「なんかさぁ、涙も出てないんだ。一回もだよ? 死んだって言われてから、一度も泣いてない。遺体も見てないし……、まだどこかにいるような感じがする」
「陽太くん……」
「やっぱ変だよね。親が死んだのに泣かないって」
「そんなこと……、ないよ。突然の事故だったし陽太くんはなんも悪くないから自分を責めないでね」
「責めるよ。俺のせいだもん」
「陽太くん……」
「俺が殺したんだよ」
一連の事情を夏海は知っていた。夏海にはなんでも話すことが出来た。
「陽太くん!」
「……?」
「あの、私なんかじゃ頼りないかもしれないけど、でも、なんでもゆってね!」
「言ってるよ?」
「あ、あぁ、そ、そっか! あ、ありがとう(?)」
「……? どしたのなっちゃん」
「え、い、いや! なんでもゆってくれてありがと! 私たち友達だから! 私は陽太くんを助けるからね!」
「……? くす……ありがと、なっちゃん」
みんなに気を遣われていることが苦しかった。
両親の死を受けても、普通に過ごしている自分に違和感を感じた。
喉の先っぽでつっかえているなにかが呼吸を苦しくさせた。
僕は野球に打ち込んだ。
新チームになり僕の立場も変わった。主力としてみんなを引っぱっていかなければいけない。
野球に打ち込むことが、そんな違和感を解消するきっかけになると思っていた。
*
十月。
季節はあっという間に過ぎる。
秋の新人戦は県大会ベスト四で敗退した。対戦相手は飯能にある私立聖皇学園という強豪高校だった。
比較的狭山市と近いので日頃から練習試合を組むことが多かった高校で、相手の二年生投手、松葉隼人のことは小学生のころから知っている。
話したことはないが、雄大と並ぶ狭山市の同世代の有望株である。
MAX一四四キロを投げる県内屈指のサウスポー投手だ
試合は松葉から四点を挙げた桜ヶ丘が九回まで四対〇でリードしていたが、最終回に僕が五失点してサヨナラ負けした。先頭バッターにホームランを打たれて動揺し、そのまま崩れてしまったのだ。
帰りのバスの中で僕はみんなに謝罪した。
「ごめん……みんな、申し訳なかった」
みんなは気さくに慰めてくれた。
申し訳ないと思った。
でもそれだけだった。
僕は悔しくなかった。
試合に負けたのに、悔しいと思わなかった。ただみんなに申し訳ない。ごめんなさいと思っただけだった。
違和感が大きくなった。喉の先っぽで呼吸を苦しくしているそれはどんどん膨らんだ。
――このままじゃだめだ。もっと練習しないといけない。練習が足りないから悔しくないんだ。
*
十二月。
僕は練習に明け暮れていた。
朝。
寒空に今年初めての雪が降った。白銀色が入間川の河川敷を染めた。
僕はいつもの早朝ランニングを五キロに増やして走っていた。
投げ込みは毎日二〇〇球。素振りは一〇〇回。腕立て腹筋背筋はそれぞれ二〇〇回。
なにかを忘れるように体を痛めつけていた。
夏海は、
「そんなに練習したって怪我しちゃうよ。そうだ。こんど練習を休みにして映画見に行こーよ。フィールドオブドリームスのリメイク上映があるんだってー!」
なんて、心配していた。
夏海の優しさは嬉しい。でもそれを受けいれてしまったら、変わってしまう気がしていた。
「はぁはぁ……、寒いなぁ、今日は」
雪化粧した河川敷は足が取られて走りにくかった。手がかじかんで息が白い。
「でも……、やらなきゃ」
小さいころ、憧れていた秋山蒼衣は努力の人だった。
雄大と違ってずば抜けた運動能力があるわけではない。足は速いし肩も強いが、別格ではなかった。
だが蒼衣は頑張ってた。
イチローのマネを始めた時は、左打ちをマスターするために、お箸もエンピツも左手で持って、左利きの感覚を掴もうとしていた。
周りからは笑われていたけれど、蒼衣は気にしてなかった。
サブマリン投法もそうだった。
まるで制球がつかず、
「野球をバカにしている」
なんて対戦相手から言われたこともあったけど、蒼衣はそれを反発力に変えて練習に打ち込んでいた。
負けず嫌いで、一度決めたら最後までやりきる。
そんな力強い蒼衣の姿が目に焼き付いていた。
「蒼衣ちゃん……」
そんな時――、雪にもつれて僕は前のめりに転倒してしまった。
「痛っ……、ぁあ」
肘や頭を打った。痛い。痛みにうちひしがれながら姿勢を起こして目を開けると、驚いた。
――僕は一瞬にして家の中にいたのだ。
「ったく……、しょうがないわね。誰に似たのかしらね、その負けず嫌いは」
「……? ……え?」
母が呆れたように僕に言った。
父は軽自動車の鍵を持って玄関へ向かっている。
「……? え? なんで? え?」
それがあの日の光景だとすぐにわかった。
でもなんで? なんでこんなところにいるんだろう。
「……夢? ……?」
「陽太大丈夫か? 到着するまで車の後ろで寝てるといい」
父に言われるがまま僕が車に乗り込んだ。
頭がふらふらとする。
夢をみているような浮遊感。だけど心音が激しくなっていく。
「いやー、空いてるなー、これなら試合に間に合うかもしれないなぁ」
「お父さん気をつけなさいよ」
「大丈夫大丈夫」
「あー、夏海ちゃんにこれから行くってLINEしなきゃねー」
エンジンの音。
少し開いた窓から香る排気ガス。
車のスピードが上がっていくのを感じた。
「陽太? 大丈夫?」
「あ……うん」
「ゆっくり休んでなさいね」
――と母が笑ったその時、激しい衝突音がした。
ものすごい重力がかかって僕は前方へ投げ飛ばされた。
「――ッ、痛……、な、なにが……」
状況が飲み込めなかった。
頭を打った。
吐き気がする。頭がクラクラとする。頭部を支えながら目を開けると――上半身が潰れてしまった父と母がいた。
「……お父さん……?、お母さん?」
悲惨な光景だった。
鮮血が車中に飛び散っている。フロント硝子は原型をとどめず、よく見ると肉片がそこら中にあった。
「はぁはぁ……、え?」
呼吸が荒くなった。息が出来ない。吸っても吸っても苦しかった。
「あ……、あぁ……、あああ」
声にならない声が出た。
世界が終わっていく気がする。
「あ、あぁああああぁぁぁ……!」
細胞が沸きたっているのを感じた。
体が熱い。
頬も熱く感じた。
涙だった。涙が止まらなかった。熱い雫が顔を濡らした。
――太くん!
「あぁぁぁぁぁぁぁ……!」
言葉にならない哀しみが溢れ出した。
血の海の中で声がする。
――陽太くん!
「あぁぁぁぁぁ……あぁぁぁぁあ!」
「陽太くん! 起きて!」
「――あ」
次の瞬間、よく知っている顔が近くにあった。
懐かしくて安心する笑顔。
「……な、なっちゃん……?」
「よかったー! 陽太くん!」
夏海は僕を抱きしめた。頭が夏海の胸の中に埋もれていく。ふわふわとしたニットの感触。温かい体温は夏の海のように優しい。
「陽太くん! よかった! よかった……!」
「な、なっちゃん……?」
「私……ぐす……、心配したんだから! 家に行ったらいないからこっちかなって思って来たら……、雪の中に倒れてて」
「あ……」
少し我に返るとここが河川敷だと気がつく。
地面は雪で湿っていて冷たい。僕の体中に雪がついていて濡れている。
「なっちゃん……」
夏海は冷たい地べたに膝をついて太ももに僕の頭を乗せていた。
抱きしめる。
ぎゅっとする仕草が優しかった。
「ぐす……、陽太くん! 陽太くん! 陽太くん!」
「あ……、なっちゃん……」
「陽太くん……、なんでもゆってって、ゆったのに!」
「……ごめん」
「もー! 許さない! 許さないから! ……ぐす……陽太くん!」
「ぐす……、ごめん……、ごめん、なっちゃん……」
降り注ぐ雪のつぶてが心臓に刺さる。
冷たい風が頬を赤く染める。
「だめだよ! 許さないから! だめだから!」
「ぐす……ごめん……ぐすぐす……、ごめ、……ん」
夏海の胸の中は優しかった。
僕は溢れ出る涙を止めることが出来なかった。




