王川小学校
5
午後五時三〇分。夏の太陽が西に傾いて黄昏を描いている。大宮から帰路に着いた僕らは狭山市駅で降りた。
「え? 陽太、どこ行くのー? 家はそっちじゃないよー」
僕は自宅とは反対の方向へ歩を進めた。蒼衣は困惑した様子だったが、後ろから着いてきた。
――ブォーーーン。
と帰りのチャイムが鳴る。この時期の狭山市のチャイムは、毎年、五時三〇分である。チャイムと同時に、自転車で街を走る少年少女の姿が増えた気がした。
「わー、もうこんな時間だねー」
「そうだね」
僕は足早に歩いた。
「ちょっと陽太―、どこ行くのー?」
「王川小」
「え?」
「ちょっと……、行きたくなったんだよ」
市立王川小学校は昭和中期に建てられた古い学校である。隣には入間川があり、校舎の窓から水分をふくんだ風がいつも吹き込んでくる。
敷地の端っこにある柵を乗りこえたら、その先には入間川の自然が広がっている。あのころはこの柵を乗りこえて、休み時間や放課後によく遊んだ。春は野草を取って、夏は水遊びをして、秋は虫を集めて、冬はソリを使って遊んだ。
授業でも美術の時間や道徳の時間に入間川に行った。川の風景を写生したり、生き物の観察をしたりした。写生した絵画で優秀なものは児童コンクールに応募されたりした。器用だった雄大や蒼衣は時々、賞をもらっていた。
「小学校? なんで?」
「いいだろ、なんでも」
一〇分程度ですぐに王川小に着いた。小学校に来たのは何年ぶりだろうか。《王川小学校》と大きな文字が描かれた校舎は、少し色あせた気がする。
雄大と喧嘩をして、無性に腹が立った。そして自分の原点たるこの場所に、戻りたくなったのだ。
「……? 変な陽太」
「うるさいな」
校門は施錠されていなかった。僕と蒼衣は中に入る。砂埃が舞う校庭には人っ子一人いなかった。
「誰も……、いないね」
「もう帰ったんだろ、さっきのチャイムで」
「みんな真面目だねー。私たちだったら時間なんて守らなかったのにね」
「たち、じゃなくて蒼衣ちゃんだけだろ」
「えー、違うよー」
今日は土曜日。校舎の窓から電気の光は確認出来ない。先生も誰も来ていないのかもしれない。
校庭に入ってゆっくりと歩いた。少し滑りやすいグラウンド。昔はよく転んで膝を擦りむいてた。
小さいころの蒼衣が走っている姿が幻影になって浮かぶ。
「わー、懐かしいねー」
「蒼衣ちゃんそればっかり」
「えー? だって、懐かしいものは懐かしいじゃん! 陽太は懐かしくないの?」
「そんなことは……、ないけど」
「思い出すなぁー、あのころのこと。陽太はちっちゃくて可愛かったなぁ」
「蒼衣ちゃんも可愛かったよ」
「にししー、私は昔から美少女だから! 当然よ」
「蒼衣ちゃんはバカだなぁ」
「はぁー? なに言ってんのよー。私のこと好きだったくせに」
「はぁ? なんだよ。好きじゃねえよ」
「でも、なーちゃんがこないだ言ってたじゃん」
「あれは……、なっちゃんの勘違いだっただろ」
「そうなの?」
「そうだよ! 勘違い!」
夏海とは同じクラスで毎日顔を合わせている。下校もこの二年と少しのあいだ、一緒に帰るのが日常だったが、最近は別々に帰っている。
あの後、何ごともなかったように夏海に話しかけた時、
「陽太くん……、私は本気だからね。返事はいつでもいーけど、待ってるから」
なんて言われてしまい、それから会話をしていない。
わかっている。告白を”なかったこと”にしようとしている僕が悪いのである。夏海とは小さいころからの友達でずっと一緒だった。一番の友達だと思っていた。だから夏海との関係が変わってしまうことが恐くて、僕は何も答えられずにいる。
「ふーん……、あ! ボールだよ! ボール見つけたー!」
蒼衣は校庭に落ちていた軟球を拾った。
「なにこれ? J球?」
「ああ、J球。C球がなくなってJ球になったんだよ」
「へー、そうなんだ」
野球のボールは二種類ある。コルクの芯に牛の革を縫い付けて作られている硬球と、内部が空洞になったゴムで出来た軟球である。
リトルリーグや甲子園、プロでは硬球が使われ、《硬式》という呼ばれ方をする。一方で大半の少年野球や中学野球では硬球より安全性が高い軟球が使われ、《軟式》と呼ばれる。さらに軟球にも大きさによる種類の違いがある。昔はC球、B球、A球と三つあったが、今は主に小学生が使うJ球と、中学生以上が使うM球の二つがよく使われている。
「へー! J球ってジュニア球って意味、なのかなぁ?」
「さあ? そうかも」
「ねえ陽太、キャッチボールしよっか」
「え? ここで?」
「うん。しようよ。昔みたいに」
「でもグローブもないしなぁ」
「えへへ、私は用意がいいんだよ」
蒼衣はデニム地のショルダーバッグからグローブを二つ取りだした。
それは僕がよく知っているグローブだった。
「あ、蒼衣ちゃん! それをどこで……」
「えへへ、ごめんね。なんかさー、陽太が学校行ってる時にね、陽太の部屋を探検してたら見つけちゃった!」
「探検って……」
「なんかさー、えっちな本とか隠してないかなーって思って。ごめんね」
「お前なぁ」
「えへへ、はいこれ陽太の」
と蒼衣は内外野兼用のグローブを僕に渡す。高校に入った時、父に買ってもらったグローブだ。
「私はこっち使うね」
蒼衣がはめたのは、投手用のグローブ。高校に入学して少し経ってから、これもまた父に買ってもらったものだ。
「おっきいグローブだよね。よく使えるね、こんな大きいの」
「そう? 大人の硬式ってみんなそんなもんだよ」
グローブが二つあるのは僕が内野手兼投手だったからだ。
僕は高校に入るまでは三塁手だった。背の高さを活かした捕球範囲の広さに定評があった。高校に入学して少し経ってから、監督に投手挑戦を勧められた。同期の中では一番の長身で肩も強かったからだ。それが僕の投手人生の始まりだった。
「なんかぁ、陽太の匂いがする」
「は? 何言ってんだよ」
「土と汗のにおいがするよ」
蒼衣はグローブに鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「は、恥ずかしいからやめろよ」
「えへへ、陽太は子供だね」
「はぁ? なにがだよ」
「純粋」
野球はポジションごとにグローブが違う。キャッチャーは手を痛めないようにクッションが分厚くなったキャッチャーミット、ファーストはポケット部分が大きくなったファーストミット、内野手は捕球から送球動作に素早く移行出来るように小さめのグローブを使い、外野手は後ろに逸らしづらくするために大きめのグローブを使う。
そしてピッチャーは握りを相手に見えづらくするために、ポケットに隙間がないグローブを使う。
「行くよ……、陽太!」
蒼衣は楽しげにボールを投げた。山なりの軌道を描いて僕の胸元へボールが飛んでくる。僕はボールをキャッチして投げ返す。蒼衣とのキャッチボールは五年ぶりだ。思い出が溢れてきて、感傷的な気持ちになる。何球も行ったり来たりする。蒼衣の捕球動作も投球動作も、女の子のそれではなくスムーズだった。
「ねえ陽太……、今日土曜日なのに誰もいないんだね」
「あぁ、もう夕方だし」
「でも私たちのころは、真っ暗になるまで野球やってたじゃん」
「あぁ、そうだったな」
「ねえ……ヤンキースってなくなっちゃったんだってね」
「……どこで聞いたの?」
「なんか噂で」
「噂ってなんだよ」
「なんか街をぶらぶらしてたらね、小耳に挟んだの」
「あぁ……、そうなんだ」
「寂しいね、陽太」
「少子化だから、仕方ないよ」
去年、王川ヤンキースは隣の御狩場小フェニックスと合併して、王川・御狩場フェニックスと名前を変えた。少子化に伴い王川小だけではチームの活動が難しくなったからである。
「でも寂しいじゃん」
「あぁ……、まあ、それは」
「大ちゃんがプロになったらさ、プロ野球選手を輩出したチーム! って復活してくれないかな」
「はは……」
「陽太が監督やって復活させてよ」
「なんで俺が」
「大ちゃんとも仲直りしてよ」
「そ、それとこれとは関係ないだろ」
「なんであんなに仲悪いの?」
「蒼衣ちゃんには関係ないことだろ」
「でも気になるじゃん!」
「いいじゃん別に」
「ねえ! なんで喧嘩してるの!」
「言わない」
「陽太!」
野球をやめてから雄大とは上手くいっていない。連絡をとったのも久しぶりだった。雄大が言いたいこともわかるが、僕には僕の事情もあるのである。喧嘩するつもりはなかったが、感情が高ぶってしまった。王川小に来たら、少し気持ちを落ち着かせることが出来るかもと思った。
「もう……、なんでそんなに強情になっちゃったんだろう。昔はもっと素直だったのに」
「何目線だよ」
「ねえ陽太、私ピッチングしたい」
「ピッチング?」
「うん! 座ってよ。王川ヤンキースのエース、秋山蒼衣の復活だよ」
蒼衣はそう言って笑って、僕と距離をとった。
ヤンキースのころ、蒼衣はエースだった。女の子だけど背は男子と比べても高い方だったし、肩も強かった。体も柔らかくて、バランスもよかった。
「まだ……、出来るかなぁ、サブマリン投法」
「はは……、怪我するなよ」
蒼衣の最大の武器は柔軟な体から繰り出されるサブマリン投法だった。
下手投げ――アンダースローとも呼ばれるこの投法は、体をくねらせて腕が下から出てくるのが特徴である。
一般的な上手投げ――オーバースローと比べ最大の利点は下から浮きあがるように進むボールの軌道である。他の投法では再現出来ない軌道のためバッターは慣れておらず、打ちづらいのである。
だがデメリットはたくさんある。下から投げると制球が定まりづらく、中々ストライクがとれない。速い球も投げづらい。スタミナの消費も激しく、すぐに疲れてしまう。そして一番の問題はその習得の難易度の高さである。難しい投法のため使い手はプロでもほとんどいない。小学生ともなればもっといない。だが蒼衣は負けず嫌いなその性格で必死に練習をし、高学年のころには自由自在にサブマリンを扱っていた。
「このくらい……、かなぁー?」
「うん、それくらいだと思う」
蒼衣は僕と一六メートルくらい離れた位置で訊いてくる。投手と捕手の距離は、少年野球では一六メートル、高校野球だったら一八メートルである。
「よし……、じゃあ行くよ、陽太!」
蒼衣は大きく振りかぶって投球モーションを開始した。
頭の上にあるグローブを下ろすと同時に左足を上げて右足に重心を移す。そこから上体をくねらせて屈み込むと、右腕を弓のように後ろに引く。
左足が僕の方へ向くと、少し遅れて右腕が下から出てきて、ボールがリリースされる。
下から浮きあがってくる軌道は新鮮だった。強豪桜ヶ丘学園ですら、下手投げの投手はいないからである。
――パシィィン!
と僕のグローブに速球が収まると乾いた音がした。野球界隈では、いい音、とされる音だ。真ん中高め、ストライクである。
「ナイスボール!」
「はは……、ストライク?」
「うん! ストライク!」
「えへへ……、まだやれそうじゃん! 私!」
蒼衣はそう言って喜んだ。野球は久しぶりだろうと思うが、変わらないその運動神経はさすがだと思った。
「すごいね、蒼衣ちゃん」
「でしょ! 私ってさー、やっぱり天才だからー」
「自分で言うなよ」
「えー? だって陽太だって天才だって思うでしょ?」
天才かどうかはともかく投球フォームは綺麗だったしスピードも出ていた。草野球くらいだったら充分通用しそうである。
「何キロくらい出てたかなぁ?」
蒼衣はゆっくりと僕に近付いてきて言った。
「一四〇キロくらい出てたー?」
「いや、一〇〇キロくらいじゃん?」
「えー? もっと出てたよー!」
「そう思うならそれでいいよ」
「なにそれ! テキトーだよ! 陽太!」
「いやいや、一〇〇キロでもすごいよ。ストライクだし」
「そうかなー?」
「ああ。サブマリン投法でそれだったら全然、すごいよ」
「陽太でも無理?」
「無理無理。下から投げたらストライクなんてとれないよ」
「えへへー、やっぱりそうかなー」
「うん。蒼衣ちゃんは才能あるよ」
「えへへ……、桜ヶ丘のエースに褒められちゃった」
「元な。元エース。それに先輩が怪我したから背番号一番だっただけだから」
二年生の夏の大会の前――、僕は内野手兼三番手投手という立場だった。三塁手としてはレギュラーではなく控え選手だったが、長身を活かしたパワーによる長打力は評価されていた。
だが大会の二ヶ月前になってエースだった先輩が肘の靱帯を断裂した。先輩はMAX一四三キロを投げて変化球も素晴らしい好投手だった。
代わりを務めることになったのはこちらも三年生の先輩で、二番手の投手だった人だ。その人はサウスポーで制球のいい技巧派だったが、期待がプレッシャーになってしまったのか、練習のし過ぎで腰を疲労骨折してしまった。
そして夏の大会の二週間前になって、僕が背番号一番になった。
「そんなことないよ。陽太はどのみちエースになってたよ」
「なんだよそれ。何も知らないくせに」
「知らないよ。だって陽太が何も話してくれないから」
「あのチームは打力が売りだったんだよ。三年生の先輩にいいバッターが多くてさ……。俺なんてただ投げてただけなんだよ」
「でもすごいよ。陽太は頑張ってたよ」
「はぁ? なんだよそれ。知ったようにさ」
初めての夏の大会――。初戦のマウンドは緊張した。相手は強豪とはいえない川越西高校だった。下馬評では桜ヶ丘が圧倒的に有利だったが一回表のマウンドは足が震えたのを覚えている。
「MAX一四八キロを投げるプロ注目の二年生エース……、ネットにいっぱい記事あったよ? 動画もたくさんあった。陽太すごいじゃん」
「すごくないよ……、運がよかっただけ」
「違うよ。努力の成果だよ。大ちゃんも言ってたじゃん。陽太は努力家だったもん。昔から」
「たまたまだよ」
「たまたまで一四八キロなんて投げられないよ」
「……」
「ねえ陽太、もう一回訊いてもいい?」
「だめ」
「なんで……、野球やめちゃったの?」
一回戦――、震えを忘れるためにがむしゃらにプレーした。思い切って腕を振ると、練習でも出したことがないスピードが出た。
「教えて」
「やだ」
「なんでやめちゃったの?」
「言いたくない」
「なんで大ちゃんと喧嘩してるの?」
「いろいろあって」
「だからそのいろいろってなんなの?」
「言いたくない」
「そればっかり! 教えてよ! 陽太!」
「だからやなんだって言ってんじゃん」
「教えてくれなかったら、今夜襲うからね! 私!」
「は、はぁ?」
「陽太の寝込みを襲って、めちゃくちゃにしてやるんだから」
「めちゃくちゃってなんだよ」
「めちゃくちゃはめちゃくちゃだよ。めちゃめちゃめちゃくちゃ!」
「意味不明」
「いいから教えてよ! 知りたいの! 陽太のこと!」
「別にいいよ、知らなくたって」
「……あれはなに? 大事な人がいなくなったって……、どういう意味?」
雄大と口論になった時、本音が口から零れてしまった。蒼衣は僕が生きてきた人生を何も知らない。でも、そんな一言をしっかりくみ取ってくるあたり、勘の鋭い女の子である。
「言いたく……、ない」
「大事な人って、誰のこと? 教えてよ! 陽太!」
去年の夏の大会――僕は必死だった。一回戦を突破した僕らは快進撃を続け、ついに決勝戦まで辿り着いた。相手は強豪大宮学院である。
前日――、
【明日はうちが勝つからな。覚悟しとけ】
なんて雄大からLINEがきて、
【大宮学院の連覇も明日で終わりだよ】
と僕は返した。
【陽太くん、一緒に甲子園に行こーね】
【うん! なっちゃんやみんなの夢を明日叶えよう!】
と夏海とLINEしていたりした。
前日は練習は休み。僕は一日、家で休養を取るつもりだった。しかし――、朝起床した時点で違和感を感じた。頭がふらついて転んでしまったのだ。寒気がした。体温を測ると三八度四分。嫌な予感がした。薬を飲んでそれから一日ベッドにいた。母が作ってくれた滋養強壮のネギと豚肉の鍋を食べて、明日、熱が下がるように祈っていた。
そして翌日――、
予感は的中した。最悪の形になって。
「――死んだんだよ」
「……え?」
「死んだんだ。お父さんとお母さんが」
「……? ……え?」
「去年の夏、県大会の決勝の日だった。僕を乗せて運転していた車が事故に遭って、二人とも死んだ」
「……は? ……え? ……?」
「全部、俺のせいだった」
蒼衣の顔から血の気が引いていくのがわかった。蒼白とはこういうことをいうのだと思った。
「……え? そ、そんなわけないよ! だ、だって、おじさんたちは海外にいるって……、出張だって」
「ほんとにそうだと思ってた?}
「え? ……」
「俺も嘘が上手くなったんだよ」
「……え、そ、それって」
「そうだよ。嘘だよ」
「……!」
「出張なんて嘘。家にいないことをごまかすための嘘だよ」
「そ、そんな……、わけ……ないよ」
「ごめん……嘘ついてて」
「そんな……」
「あれは忘れもしない去年の七月二六日だった。思えば暑い日だったなぁ。今日みたいに……」




