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試合


 12


「ちょ、ちょっと陽太! どこ行くの」

「いいから来て」

 蒼衣の手をとって一〇分間。僕らは街を走った。入間川に続くあの丘を下って、広瀬橋を渡って、河川敷の階段を降りた。時刻は午後四時近くになろうとしている。空はまだ青いまま。夕暮れはまだ先。八月の世界。

「奥富公園……?」

 ちらほらと見える人の影。入間川沿いの奥富運動公園。ここは夜の花火観賞の絶好のスポット。花火が輝いた夜空が入間川に反射して、まるで天の川みたいに水面がキラキラと光るのは、最高の風景である。ちいさいころ、蒼衣たちと祭りに来た時、途中で飽きて奥富グラウンドに来て、野球をやった。休憩してたらそのまま夜になって、花火が川に反射するその光景を発見した。そういえばそれを「天の川」って名付けたのは多分、蒼衣だった気がする。

「はぁはぁ……なに? 陽太……急に」

 奥富グラウンドに着くと、蒼衣は膝をついて息を切らしている。ひきこもりの蒼衣にしたら、一〇分間のランニングはさぞきついだろうが、最近、トレーニングを再開した僕には大したことがない。この辺りは僕のホームコースでもある。

「蒼衣ちゃん……」

「はぁはぁ……な、なによ」

「変わらないものは……、ないかもしれない」

 蒼衣が探していた変わらないものは、きっともうここにはない。あの時、みんなで遊んだ風景は、僕らの胸の中で思い出になってしまった。

 変わらないままでいることはきっと出来ない。僕らは大人になって、あの風景はあっという間に昨日になってしまう。遠くなる。背が高くなる度に、空はきっと遙か彼方に行ってしまう。

「でも……、今日は七夕だから」

「……? だから?」

「願いごとが叶う日だろ」

 と僕が言うと、後ろから声がした。


「おい! 蒼衣にヒナ! 遅いぞ! 何やってたんだよ」


 振り返るとそこには、みんながいた。

 蒼衣は唖然とした顔でしばし言葉につまった。冷めた調子で何もかもわかったような蒼衣が、今日初めて、我を忘れた感じで驚いている。

「……え? ……? なに? なんで?」

 パニックになって蒼衣は言った。雄大、夏海、清純、あかり、諒、翔、そして晴臣まで、みんないる。

 帽子を被り、ユニフォームを着ていたり、ジャージだったり思い思いの格好をしながら、ぞろぞろと僕らの方へやってきた。

「……? え? どういうこと?」

 と蒼衣は混乱した顔で僕を見る。

「野球、したかったんでしょ?」

 蒼衣は変わらないものを探して、みんなに会いに来た。あのころみたいに、みんなで野球がしたかった。僕はそんな蒼衣の願いを叶えたかった。

「だからみんなに頼んだんだ」

 蒼衣を誘拐したのは、祭りを一緒に楽しむことが目的じゃない。みんなで野球をするためだった。

「え……嘘」

「今日に限っては嘘じゃない」

 あの日、蒼衣の家から帰って、僕はこの一ヶ月近く、みんなで野球をする今日のために準備をしてきた。乗り気だったあかりや諒、翔や清純と日程を合わせるのは難しくなかった。清純は受験があるが、一日くらいどうってこともない。受験があるから今日は予備校、っていうのは本当だが、この時間はもう予備校は終わっている。

「だって……、大ちゃん甲子園……」

「まあ……それは……」

 雄大の大宮学院は埼玉県代表で夏の甲子園に出場している。大会は明後日の開会式から始まる。トーナメントの組み合わせ抽選会は終わり、大宮学院の一回戦は、八月一〇日。相手は西東京代表の帝都大学附属高校である。大河原翔の高校だ。翔はベンチ外で応援要員であるが、少年時代の仲間が所属する学校が甲子園で戦うのは胸が少し熱くなる。

「こんな所にいていいの? ねえ」

 ジャージ姿に深く帽子を被った雄大は、帽子のつばを持ちながら言った。

「蒼衣のためだから」

「……? え?」

「事情は知らないけど……なんだかヒナが必死だったからな」

 甲子園出場中の雄大が直前になってチームを離れるのは難易度が高い。既に大宮学院は現地の旅館に泊まっていて、大会に向けて集中している段階だ。身内に急病があったとしても、早々、離脱出来ないくらいに強豪校の規律は厳しい。ましてや雄大は主力中の主力で、精神的主柱でもある。僕が頼み込んだところで、そうそういい返事はもらえない。だけど、どうしても今日蒼衣と野球がしたかった。

「甲子園が終わってからなら野球をやってもいい」

 と雄大は前に約束をしてくれた。でもそれじゃ、蒼衣の気持ちは変えられないと思った。七夕祭り。昔よくきたこの場所じゃなきゃ、閉ざされてしまった心に隙間を産むことは出来ないと思った。だから雄大を連れてくるために、僕はとある条件を出した。

「大ちゃん……、陽太……」

「それより遅いぞ。もう四時じゃないか。三時三〇分の約束だろ」

「ごめん……、祭りが楽しくて」

「まあいいけど、相手もいるんだからさっさと準備しろ」

「悪いな」

 僕は蒼衣の手をとって野球のフィールドへ向かって歩いていく。あの日来たグラウンド。芝は青く生い茂り、グラウンドの土は夏の太陽に焼かれて枯れている。一塁側のベンチの方にはおじさんたちが体を動かしたり、キャッチボールをしたりしている。今日対戦してもらう地元の草野球チーム《セブンスターズ》である。主に七夕通り商店街の人たちが中心になったチームで清純のお父さんを通じて今日の対戦を申し込ませてもらった。

「蒼衣ちゃん、久しぶりだね! こないだうちに来たんだよね。ごめんね。結局会えなくて」

「う、ううん! せじゅん久しぶりだね!」

 と清純と挨拶をする。黒い短髪に明るい笑顔が印象的な清純は、今は受験勉強で大変だ。

「今日も予備校で忙しいって」

「ああ……、さっきまで予備校だよ。俺、頭悪いからさー。はは、陽太みたいに野球の才能あれば推薦で楽だったんだけどな」

 軽い調子で清純は言った。それは明らかに皮肉だった。

「指定校推薦だろ。いいよなー、才能ある奴は」

 と僕や雄大へ視線を送る。雄大はプロにいけなくても大学は野球推薦で進学出来るだろうし、僕も進学が決まっている。

「ねー! そうだよね! ずるいよね!」

 なんて蒼衣はさっきまでとは打って変わって、また元気で明るい蒼衣を演じて言う。やっぱり昔の友達の前では素の自分を見せたくないのだろうか。

「ずるいよー! お前はー」

 と清純に軽く頭を小突かれる。

「なのに野球やめるとか、おかしいだろ」

 清純がそうやって茶化すように言うと、夏海や雄大たちの視線が僕に刺さる。えぐるような冷たい視線。哀れむような悲しい視線。いい気持ちにはならない。

「なっちゃんもそう思うだろ」と清純が夏海に訊くと、「う、うん。そうだね」なんて夏海はごまかすように笑う。「ほらー」

「うるさいな」

「でも……、陽太くんが元気に生きていけるのが私は一番だから」 

 その言葉は重たくて、胸に響いた。

「だから陽太くん、大学でも私と一緒にいてね」

 また告白されているみたいだった。夏海は容赦ない。

「ごめん……」

「……? なんで謝るの?」

 最近、このセリフもよく言われる。そんなに謝ってばかりだろうか。

「謝るのは私の方だよ。ごめんね、最近、変なことばっかりゆってて」

「変なことじゃないよ」

 それは蒼衣や蒼衣のお母さんが言う言葉のことだ。

「ありがとう」

 と照れたように笑った夏海を可愛いと思った。

「こっちこそだよ。嫌がってたのに。今日来てくれて」

――告白の答えを言えないままに、夏休みに入った。

僕は夏海にLINEを送った。

【なっちゃん、ごめん。野球はやっぱり、やりたくないよね?】

返事はなかった。

当然だった。告白の答えをしないままに、逃げてばかりの僕には何も言う権利はなかった。

【ごめん……、やっぱり怒ってるよね、俺のこと。でも、蒼衣ちゃんのために、どうしても野球がやりたいんだ】

 蒼衣のために何が出来るだろうか、ずっと考えていた。

その答えはみんなで野球をすることだと思った。

返事はなかった。

 でも、何度かLINEを送った時、夏海から返事が来た。

【ねえ……、陽太くんってやっぱりあーちゃんのことが好きなの?】

 蒼衣は小さいころの憧れだった。力強くてかっこいいキラキラ星だった。

【好きだよ】

【……そっか】

【でも、その好きは、恋愛感情じゃないよ】

 プロ野球選手に憧れる少年の気持ちだった。いくつになっても小さいころの憧れの選手はスターのままだ。

【付きあいたいとか、そういう気持ちはないよ】

【ふーん】

 事情を聞いた今はただ、蒼衣を助けたいという気持ちでいっぱいだった。

蒼衣に笑って欲しかった。

【私はね、陽太くんが好きだよ】

 子供のころはどこまでも空が広がっているように感じた。

 でも歳を取るごとに世界は少しずつ変わっていた。

【私の好きは、付きあいたいって意味だよ】

 蒼衣と再会してから、いろんなところへ行った。みんなと会って、たくさんの話をした。みんな、自分の人生を必死に生きていた。変わってしまったこともたくさんあった。

「あのころのままでいたかった」

 そう言った蒼衣の気持ちはよくわかる。

 変わっていく空はいつも少し寂しい。

【だいたい……、告白の返事もせずに他の女の話をするなんて、陽太くんって結構ひどいよね? 私じゃなかったら怒られてるよ?】

【ごめん……】

 青空が夜になったら暗くなってちょっと恐い。

見慣れた空が、変わらないままだったらいい。

【ごめん……、なっちゃん】

【謝るところじゃないよ】

【俺さ、恐かったんだ】

【恐い?】

【なっちゃんとの関係が変わってしまうことが、すごく恐かった】

 恋愛なんてしたことがない。ずっと側にいてくれた友達だった夏海が、違う存在になってしまうことに、得体の知れない恐怖を感じていた。

【だから逃げてた。雄大の言う通りなんだよ。俺は逃げてばかりなんだ】

【陽太くん……】

【でもさ、逃げてばかりじゃだめだよね。俺たちは変わっていくんだから】

 少しずつ、大人になっていく。

 変わらないままではいられない。 

 世界は移動していく。僕らは前に進んでいく。

【なっちゃん……、ありがとう】

 蒼衣と一緒にみんなと会って、気づかされた。

 僕はたくさんの人に支えられてきた。

変わっていくことは寂しい。だけど暗くなっていく空を誰かと一緒に迎えたら、ちょっとはマシになる。それを蒼衣にも伝えたかった。

【昔からずっと、側にいてくれて、本当にありがとう。なっちゃんがいなかったら、俺はおかしくなってたよ。ありがとう。いつも本当にありがとう】

 僕は一歩を踏み出した。それが大人への第一歩なんだとなんとなくわかった。

【ずっと逃げててごめんね。告白してくれてありがとう。優しいなっちゃんが大好きだよ】


 *


「――ううん、私の方こそごめんね。ずるい女で」

 僕を見ながら夏海はそう言って笑った。ちょっと満足げだった。

「あーちゃん……、ピッチャーだよね?」

「……え? 私が?」

「え? だって昔のみんなでやるんだったら、そうだよね?」

「……え、む、無理だよ、ピッチャーなんて」

「……? あーちゃん?」

 弱気な発言をする蒼衣を夏海は疑問に思ったようだった。

「珍しいねー! あーちゃんがそんなこと言うなんてー!」と驚いているようだった。ちょっと笑ってる。

「あ、そ、そりゃー! 私だって弱気な時くらいあるさー!」と蒼衣ははぐらかしている。

「ね? 陽太」

 と助けを求められる。

「へー、意外」

 と僕は冷めたように言う。

「蒼衣ちゃんバカだから、悩みとかないと思ってたわー」

「おい! このバカ男!」

 と蒼衣に胸を小突かれる。

「なんてこと言うんだ!」 レディに失礼でしょ!」

「あー、女だとは知らなかった-」

「このバカ陽太め!」と何度も小突かれた。

「くすくす……、変わらないねー、二人は」と夏海が笑い、呆れた感じで清純や雄大たちが見ている。

「仲いいねー」

「「仲良くない!」」

 と二人してハーモニーを奏でた。

 

 *


 それから軽いウォーミングアップをした。みんなスポーツをするための格好をしているが、蒼衣だけ家から出てきた格好のままである。部屋着っぽい短パンにTシャツ。僕が貸した長袖のパーカー。それは蒼衣には超オーバーサイズなので、ワンピースのようなそれっぽい服に見えてはいるが、運動をする格好ではない。あかりが「着替えあるから着る?」なんて蒼衣に言うが、「いいよ! これで! 私、身軽な格好好きだし」なんて軽快に断っていた。。僕と蒼衣は普段着のままだが、しかし草野球ならそれでもよかった。軽くストレッチをした後、僕の黒いバックからグローブを取り出して蒼衣に渡した。僕が高校で使っていた投手用のグローブである。今日は蒼衣が投手。僕は内外野兼用のグローブを使う。軽いキャッチボールをして肩を作る。

「投手か……、出来るかなぁ」

 なんて蒼衣は弱気だった。

 時折、左手首の辺りをパーカーの上から触って下を向いている。

「大丈夫だよ。あの日のピッチングをすればいいんだよ」と王川小で見せたサブマリン投法を思い出す。

「あれだけ出来ればいけるよ。ひきこもりにしては……、上出来だって」

「それ言わないで!」

 と蒼衣はちょっと怒ったように言った。みんなは蒼衣のその事実を知らない。

「うん……、言わないよ」

勿論、秘密にしておくつもりだった。

 キャッチボールを終えた後、僕は蒼衣にもうひとつプレゼントを渡した。それは、桜ヶ丘学園の野球帽である。帽子の前面に桜の模様と《S》とアルファベットが描かれた水色を基調とした帽子である。

「野球するのに帽子は必要だろ」

 何個か家にある。部活はやめたがユニフォームもまだある。それは未練の象徴なのだろうか。

「うん……」

 なんて帽子を被った蒼衣はちょっと嬉しそうだった。

 *

 そして試合は始まった。

 王川ヤンキース対セブンスターズ。八月七日。午後四時二〇分。狭山市奥富グラウンドにてプレイボール。

 スタメンは一番センター真島清純、二番セカンド茅野陽太、三番ピッチャー秋山蒼衣、四番ショート藤村雄大、五番キャッチャー大河原翔、六番ファースト篠ノ崎晴臣、七番サード道上諒、八番ライト栗山夏海、九番レフト日沖あかりである。当時のスタメンだったら僕は九番だったが、試合に勝つために元高校球児である僕が上位打線を打つことになった。ポジションは当時のままである。

 一回表。セブンスターズの攻撃。相手の一番バッターはまだ二〇代くらいに見える若いお兄さんだった。「お前が頑張らなきゃ勝てないぞー」なんてヤジが飛んでいる。「ピッチャー女の子かー。かわいいー」なんて声も飛んでいる。蒼衣は「よーし! 行くぞー!」なんて元気な声を出してみんなを奮い立てる。

「勝つぞー!」

マウンドで腕を振り上げて鼓舞すると、みんなも「おー!」と大きな声を出す。小さいころもこうして一回のマウンドで、蒼衣は気合いを入れていた。あのころと何も変わらない。でもちょっと背が大きくなって、ちょっと声が小さくなった。

「蒼衣ちゃん、リラックスリラックス」

と僕はセカンドから声をかける。よく見ていると、蒼衣の体が縮こまって、足が少し震えているように見えた。

「うん」

なんて蒼衣は振り返って帽子をぎゅっと深く被り直す。

「楽しもうぜ。野球は楽しいものなんだから」

「おっけー! 行くぞー!」

と蒼衣は腕を振りまわして、そしてプレートを踏んだ。

 キャッチャーの大河原翔がサインを出し、蒼衣は体を曲げてサインを覗き込む。翔はベンチ外だが甲子園にも出場する強豪帝都大付属高校でプレーしている。この試合が終わった後、数日後には帝都大附属高校から甲子園応援のバスが出て、数百人で応援に行く。現役で野球を続けているのは、雄大と翔だけだ。実力はこの中でトップレベル。子供のころから真面目で努力家で、黙々と自分の目標に向かって進んでいる。もしかしたら一番野球少年らしい野球少年なのかもしれない。

「ん」

 翔が出したサインに蒼衣は小さくうなずく。軟式の少年野球は変化球が禁止で、サインを出す必要はなかったが、蒼衣たちは外角内角真ん中、高中低で九つのコースを二人でサイン交換していた。そこまで投げ分けられるコントロールは持っていないので、ほとんど格好だけだったが、蒼衣たちは楽しそうだった。

 蒼衣は大きく振りかぶって投球動作を始める。足を高く上げて一本足になると、一瞬静止したように時間が止まり、そこから体を折り曲げると同時に右腕が後方へ移動する。左足は上げたまま、地面に頭が着くんじゃないかというくらいに頭が下に下がる。そして後方から右腕が地を這って浮きあがり、左足がバッターに向けて着地すると、低弾道のボールが蒼衣の繊細な右指から投げだされる。投じられたボールは翔のキャッチャーミットに向かって一本の線を引くように伸び上がって進む。

――パシン!

 と綺麗な音がした。ミットの皮に当たって響く乾いた音。その音は祭りの喧噪を割って遙か彼方の空まで届きそうだった。

「ストライク!」

 審判をやってくれているセブンスターズのおじさんが大きな声でコールする。

「ナイスボール!」

 翔のかけ声が通ると、みんなも同じように声をかける。蒼衣は一瞬呆けた顔をした後、ニッと口を結んだ。髪と帽子の影で顔は見えない。でも次の瞬間、蒼衣は顔を上げて自信満々に言った。

「よーし! 絶好調―!」


 *


 試合は快調に進んだ。エース秋山蒼衣は華麗なサブマリン投法を駆使し投球を続ける。膝上三〇㎝くらいまで丈がある大きなパーカーの裾から白い生足を絶妙に動かして対戦相手を惑わした。

草野球レベルでは滅多にいないサブマリン投法にセブンスターズのバッターは翻弄され、上手くミート出来ない様子だった。

一回表は蒼衣が四球を三つ出しながらも無失点。蒼衣は蒼衣で本格的に試合をするのは中学一年生以来で、二〇球くらい投げた辺りから息があがり、フォームのバランスを上手く保てなくなった。ただでさえスタミナの消費が激しく、足腰が強くないと出来ない投球フォーム。長いブランクがあるひきこもりの蒼衣が、そう易々とこなせるフォームではないのである。

 一回裏。

 一番の清純は「受験勉強のストレスを発散するぞー」と意気揚々と打席に入った。チームのムードメーカーで切り込み隊長だった俊足の一番バッター。昔は軽快にセーフティーバントを決めて、ダイヤモンドを駆け巡っていたがそれも今は昔。高校に入ってから運動部には入らなかった清純の脚力は明らかに落ちていて、内野ゴロであっけなく凡退した。「あー、だめだったー」と楽しそうにベンチに帰ってきた。二番は去年まで高校球児だった僕、茅野陽太。身長一八二センチの長身で、他のメンバーと比べても体格が目立つ。自分を客観的に見るのは難しいが、しかし、期待されているのはわかる。

「陽太―! 頑張って―!」

「陽太くん! いけー」

「ヒナ―打てよー!」

「ヒナちゃん-」

 とみんなの応援がより一層響く。空はまだ青い。夕暮れはまだ先。夏の空はいつまでも高い。「おう」と軽く応えてバッターボックスに立った。ボックスに立つのはいつ以来だろうか。随分と久しぶりだ。ここから見る風景。ピッチャー、内野陣、遠くの外野手、その先の広いグラウンド。ああ、ピッチャーってこんなにも遠かったっけ。よくあんなところからボールを投げていたなぁ、とふいに感心する。相手のピッチャーは恐らく僕らとそう変わらないくらいの若い男だった。軟式野球は久しぶり。だが自信はあった。

 一球目。彼の投げるボールは結構速かった。多分、高校まで野球をやっていたのであろうことは、そのボールやフォームから推測出来た。だが、そこまででもない。僕が対戦してきたライバルたちに比べたら、凡庸だ。

 二球目。彼の投じた外角の速球を強く振ったスイングで捉えると、打球はセカンドの頭を越えて右中間を真っ二つに割った。僕は全速力で一塁を膨らんでセカンドベースへ向かった。「わー! すごーい! 陽太―!」「陽太くんさすがー!」「ナイスバッティン!」等、ベンチから歓声が上がる。これくらい打てて当たり前だ。引退したころは打者は本職じゃなく投球練習ばかりしていたが、それまでは野手だった。草野球レベルで凡退しているようじゃ、甲子園なんて目指せなかった。と僕の中に眠っていたプライドが急に芽を出して、ガッツポーズをしたい自分の気持ちを邪魔した。

「ひなーたー!」

と蒼衣がネクストバッターズサークルで手を振っている。笑ってた。無邪気な笑顔で僕を見てた。その笑顔は僕のプライドをちょっとだけ緩ませて、軽く握り拳を握った。

「続け―蒼衣ちゃん!」

「うん!」

と蒼衣も握り拳を返した。ちょっと大きめのヘルメットを被って蒼衣は左打席に入った。右手で投手へ「待って」のポーズをしながら左足で打席の地面を削って足のポイントを固定する。……といってもスパイクを履いてないのでほとんど削れないし、意味もあまりないが、体に染みついた動作は早々に消えない。ポイントが決まると体の前でバットを一回転させて、左耳の後ろくらいの位置にバットを構えて、蒼衣は右足をリズミカルに動かし始める。特徴的なタイミングの取り方。ピッチャーが振りかぶって投球動作を始めると、蒼衣はキャッチャーのミットを遮るくらいに右足を大きく振り上げる。振り子のようにぶらんぶらんと揺らしてタイミングを取る。振り子打法の命名元である。その打法に動揺したのか一球目は外角に外れてボール。「蒼ちゃんー、チャンスだよー」

と夏海も応援している。なんだかあのころみたいな風景だ。違うのは僕がちゃんと塁に出ていることだ。小さいころは下手だったからいつも凡退していた。僕は変わった。蒼衣の打席を不安げに見るなんて、あのころはなかった。蒼衣には期待しかなかったから。

 二球目。女の子に死球はだめだと思ったのか再び外角への速球だった。蒼衣はその速球を振り子打法でタイミングを取り、軽くミートして三塁方向へ飛ばした。硬球に比べゴムで出来た軟球は反発力が高く、軽く当てただけで打球が飛んでいく。動体視力が高く、柔軟な肉体を持っていた蒼衣は、そうしてミートするのが上手だった。久しぶりだが体が反射的に動いたのか、見事に捉えた打球はサードの頭をふわりと越えてレフト前ヒットになった。僕は打球が越えるのを見てから一気に加速し、全速力でサードベースを蹴ってホームへ向かった。こんなにも勢いよく走ったのは久しぶりだった。筋肉が痙攣するような感じがしたが気にならなかった。「わー」とみんなの歓声が聞こえる。これまでの人生。少年時代。高校時代。そして蒼衣と再会してからの日々が急激に脳裏を通り過ぎて、ホームベースでスライディングをした。ジーンズにTシャツ。足から滑り込める格好じゃなかったがそれもまた気にならなかった。野球をやったら楽しくて色んなことを忘れる。そうだ。野球っていうのは僕にとってそういうものだったんだ。

「――セーフ!」

 と甲高い声が響いた。「わー、やったー!」とみんなの歓声が聞こえる。でも、それよりも何よりも、僕が真っ先に見たのはファーストベースにいる蒼衣だった。

「陽太! ナイスー!」

と右手でサムアップして見せた。

「おう!」

 その顔に影はなかった。見上げた空みたいに青く澄み渡るあのころの蒼衣の笑顔だった。


 *


 夏の空の下、試合は快調に進んだ。蒼衣のレフト前ヒットで先制したヤンキースは、続く四番、藤村雄大が豪快なホームランを放ち追加点を挙げて、初回に一挙三点をとった。

 しかし二回表、秋山蒼衣は早くもスタミナ切れを起こし、四球を連発。そしてストライクを取るために甘く入ったボールを狙われ、四失点し、逆転されてしまった。四対三。二回裏はあかりが凡退した後、清純が四球で出塁し、二番の僕がレフトオーバーのタイムリースリーベースを打って同点。蒼衣が凡退した後、雄大が二打席連続のツーランホームランを放ち逆転。四対六。

 だが三回表、蒼衣の調子が戻ることはなく、変わらずの制球難とカウント玉を狙われる繰り返しで三失点して再び逆転される。七対六……。

 試合はそうして早々に点の取り合いの様相を呈し、荒れていった。久しぶりの試合なのは蒼衣だけでなく、ヤンキースの大半がそうだった。小学校以来のプレーになる夏海、あかり、諒、晴臣たちは序盤こそ集中力を保てていたが、すぐにボロが出てミスを連発。特に守備でエラーが多く見られた。

 けれど相手のセブンスターズも商店街のおじさんたちの草野球チームで、何人かの若い人を除き動きは緩慢だった。さらに試合中にもどんどんとメンバーが変わり、途中参加で加わるメンバーも数多くいた。恐らくは祭りの運営の合間に気晴らしとお祭りムードで試合に来ているのだろうと感じた。そんな和気あいあいとした空気は緊張感もなく、あちらもエラーを連発し、ヤンキースの得点につながった。

 そんな牧歌的ムードで試合は進んでいく。エラーをしてもチームメイトを責めることもないし、逆転されても殺伐とした空気になることもない。これはあくまでも草野球。甲子園を目指してきた僕が戦ってきた舞台とは違うのだ。だけどそんなゆるやかな野球は久しぶりで、みんなの笑い声が響く試合を通じて僕は、野球ってやっぱりいいな、と思った。

 試合は七イニング制で行われている。六回表を終わった時点で、二十二対二十一で僕らは一点負けていた。チームの得点の大半は雄大と僕、そして翔で稼いでいた。雄大は全打席でホームランを打っていた。硬式野球と軟式野球では感覚が違うが、高校トッププレイヤーの雄大にはそんなこと関係ない様子だった。甲子園直前にチームを離れ、軟式の草野球をやることでリズムを崩したりするきらいはまるでなかった。

 六回裏。二塁に僕を置いた状態で雄大は六打席連続のホームランを打った。

 悠々とダイヤモンドを回ってホームに帰ってきた姿はさすがにかっこよかった。

 二十二対二十三。

 とても野球のスコアとは思えないが、やっている僕らはとても楽しかった。シーソーゲーム。点の取り合いはいつだってわくわくする。

 六回裏が終わった後。最終回に向かう前に蒼衣は僕に頼みごとをした。

「陽太……、最後、よろしく」

 ベンチ裏で疲れた表情で僕の目を見て言った。

「ちょっともう……、疲れた」

 ブランクのある蒼衣。試合の勝ち負けは正直どうでもいい。ただ蒼衣が楽しんでくれたのならそれでよかった。

「満足したよ。もう。充分」と蒼衣は憑き物が落ちた顔で笑う。

「ありがとう。こんな舞台を用意してくれて」

 と軽く頭を下げる。汗だくになって濡れた髪を少し結んでいて、色っぽかった。

「楽しかった」

「そっか」

「うん。この五年間で一番楽しかった!」と無邪気な顔で笑った。そんな蒼衣を見て僕も嬉しくなった。

「だから最後は、陽太のピッチングを見たい」

「それ、脈絡なくない?」

「あるよ! だって陽太は私のスーパースターだもん」その言葉を聞いたのはあの池袋の日以来だった。

「生でピッチング見たい! この試合は私のための試合なんでしょ? だったら、私の願いを叶えてよ」

 それは確かに理にかなっていると思った。

「……わかった。投げるよ」

 蒼衣に笑ってほしくて、この舞台を用意した。雄大にはとある条件を出したし、夏海とは一歩前に進む勇気を出した。

 家庭の事情で余裕がない晴臣には、お金を払うことを提案した。借金返済の足しになるなら、と思った。晴臣には「そんなのもらえない。バカにするなよ」と怒られた。

「だけど……、俺だって人間だからさ、感情はあるんだぜ。忙しいけどさ、そこまでするくらいだったらなんか、事情があるんだろ?」

 と晴臣は笑って言っていた。

 そして今日、こうして参加してくれた。

 変わらないものだって少しはあるんだって思えた。

 七回表。最終回。「じゃあ、よろしく。エース」と蒼衣は僕にグローブを渡した。甲子園出場を目指して戦っていたあのころ。思い出がつまった投手用のグローブ。蒼衣と内外野用のグローブを交換し、僕はマウンドに上がった。

 軽く投球練習をする。セットポジションから左足を高く上げて、軸足に乗せた体重を一気に前方へ移動させる。――バシイィィン。と翔のミットに速球を投げ込む。長いあいだボールには触れてこなかったが、最近、ランニングと筋トレと平行して、軽い壁当てをまたやるようになった。蒼衣が来てから、昔のみんなと再会して、自分の中で変わったものがあったのだ。

「ナイスボール!」

僕に変わってセカンドに入った蒼衣が声をかける。

「陽太―! りらっくすりらっくす!」

と軽やかに声をかける。

「おう」

と握り拳をつくって返す。

 投球練習が終わり相手の先頭バッターが打席に入る。「ふぅー」と大きく息を吸って、吐いた。そして天高く手を上げて「ラスト! 行くぞー!」と蒼衣の真似をして大きな声をあげた。

「おー!」

一拍を置いてみんなの声がした。

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