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篠ノ崎晴臣

 8


 午後五時三十分。

 それから池袋でサンシャインシティの水族館や、猫カフェなどを楽しみ、観光を終えた僕らは帰路についた。再び西武線に乗り、電車に揺られて狭山市駅で降りると、蒼衣は、「行きたいところがある」と自宅のとは逆方向である入間川の方へ向かった。

 最初は疑問に思ったが、考えていると今日がなんの日であるのかふいに思い出した。

 そうだ。今日は記念日だ。

 *

 奥富おくとみ運動公園。

 入間川の河川敷にある広い運動場を持つ公園。児童用の遊具が多数ある公園と、野球とサッカーのグランドがそれぞれ三面、テニスコートやゴルフのパター練習場などのスポーツ施設を兼ねそなえた運動公園である。

 公園の端っこからは入間川が見えて、河川敷の狭山川越遊歩道を歩いて散歩する人たちの顔が覗く。野球場は大人用フィールドとしてだけでなく、少年野球場としても使われる。軟式少年野球は塁間の距離が短いため、同時に、四試合することも出来る。 

 狭山市駅から歩いて十五分程度。桜ヶ丘高校からもほど近い。僕は自転車を押して後ろから着いてきた。

「懐かしいなー、なんも変わらないね。ここは」

 と河川敷を歩きながら蒼衣は遠くを見つめる。

「昔来たよねー、何回も」

「ああ、そうだね」

 少年野球をやっていたころは、公式戦がある度にここに来た。監督や父兄の車に乗せてもらい、野球用具を持って試合に来ていた。試合が終わると川沿いに座りこんでお弁当を食べて、みんなで釣りをしたり虫を捕まえたりして遊んだ。試合のことよりも、実はそうしてみんなで遊んだことのほうが強く思い出されたりする。

「よっっと。誰もいないねー」

 蒼衣は河川敷からグラウンドに降りる階段を飛ぶように降りて行く。

「夏なのに」

「少子化だから試合とか減ってるんじゃない?」

「そうなのかなぁ」

 と蒼衣は悲しそうに呟く。

「でも、明日から夏休みじゃん。遊びに来るじゃん。普通」

「まあ、今の子は外に出ないんじゃない?」

「私らなんてしょっちゅうここに来てたじゃん。試合以外でも」

「まあ、それは近かったから」

 王川小学校は入間川のすぐ近くにある学校だ。校舎から入間川が見えるほどである。

「王川小も最近子供少ないらしいし……、聞いた? 一学年二クラスしかないらしいよ?」

「えー、そうなのー?」

 僕らのころは一学年三クラスが普通だった。たった六年。風景は変わる。あっという間に世界は変わっていく。

「一年生は一クラスしかないって」

「えー? ヤバイじゃん! この街!」

「ま、なんもない街だし……」

 僕にとっては狭山市は生まれ育った大切な故郷だ。しかし、これといって観光スポットもなく、名産の狭山茶や入間川や、ホンダやロッテの工場以外に目立つものもない。学校で地域について習ったことがあるが、元は近隣の入間市を含めた入間地区と呼ばれる地域であり、入間川の流域で狭山茶を作っていた農村だった。人も少なく、のどかな田舎町だったが、戦後、都心への人間の流入に伴い、鉄道が整備され、東京のベッドタウンとして再開発が行われ、現在のように発達したという経緯がある。日本の経済発展が落ちつき、郊外でなく、都心回帰現象が進む現在においては、また戦前のように狭山市の様相も変わっていくことが今後予想されている。

「でも、なんか寂しいなぁ……、私は」

 蒼衣は哀しそうな顔をする。

「ま、わかるけどさ。仕方ないよ」

「陽太。なんか、……大人になった」

 と蒼衣はむくれた顔で言う。

「え? 何が?」

「なんか、落ち着いた」

「そう……かな。自分ではわかんないけど」

「つまんない」

 と蒼衣はふて腐れたようにグラウンドに降りて、誰もいない野球場を横切っていく。内野は土。外野は少し荒れた芝だ。

「あー、誰もいない―。空が綺麗だー」

 夕焼けに染まった空は郷愁を感じる。

「あー、ひっろーい」

 と蒼衣は大の字になって外野の芝生に寝転ぶ。

「空は広いなー大ーきいな-」

 と変な歌を歌う。入間川から水分を纏った風がそんな歌をさらっていく。

「なんだよ。その歌」

「陽太。海行きたい、私」

 と蒼衣は突然に言う。

「だめ?」

 とかわいい声で言う。

 ふいに蒼衣の年齢を自覚する。見つめる視線は大人びて見えて、いつも子供みたいな蒼衣ももう十八なのだと思い出して、ドキッとする。

「海行くって……いつ?」

「いつでも」

「なんだよそれ」

「んー、じゃあ明日!」

 と蒼衣は元気よく言う。

「だめ?」

「だめじゃないけどさ……、急だな」

「だめ?」

 と蒼衣は憂いを帯びた表情で再び誘う。心音が高鳴るのを感じる。

「それやめろよ」

「……何を?」

「普通にしろ、普通に」

「……? 普通だよ? 私は。何言ってるの? 陽太」

 蒼衣は少し疲れたように、儚げな声を出す。

「お前、いつ帰るんだよ、大体」

 僕は話をそらす

「さあ……?」

 蒼衣の表情は遠くを見ていて、うるんだ瞳に空が映り込む度に、甘い香りを漂わせる。

「陽太は帰って欲しい? 私に」

 色気のあるその声を使われると落ちつかなくなるからやめてほしい。

「そんなことはない……けど、だけど、もう二週間じゃん。大丈夫なの? こんなにいてさ」

 蒼衣が来てから色んなことがあった。だけど、夏の冒険にしては、いささか長い気がする。

「大丈夫だよ?」

「まあ……、いいならいいんだけどさ。俺はどうせ暇だし」

 夏休みの予定は特にない。毎年、野球ばかりやってきたから、野球のない夏は、どうすればいいのかよくわからない。夏海とは関係が悪いし、他の友達も、野球部の友達が多かったから、退部してからはばつが悪くて避けてしまっている。

「ねえ……、陽太は今日がなんの日かわかってる?」

 蒼衣はガラス玉みたいな瞳で僕に訊く。

「あぁ……、蒼衣ちゃんが完全試合した日だろ」

「え?」

「六年生の夏の大会の決勝」

 七月のこの時期、市内大会があった。参加チームは一八チーム程度の小さな大会だが、子供にとっては甲子園みたいに熱いものだった。

 エース秋山蒼衣と、市内一の強打者藤村雄大。二人を中心とした王川ヤンキースは強豪だった。六年生の時は、春秋夏の市内大会全てで優勝した。夏の大会は、六年前の今日、七月一六日、ここで決勝が行われた。

 前日の雨が上がり、ぬかるんだグラウンド。

 雄大が三打席連続ホームランを打って得点を挙げ、蒼衣が華麗なサブマリン投法で完全試合を達成した。

 投球フォームの弊害からか、四球が多かった蒼衣だが、雨上がりのぬかるんだマウンドが上手くハマったのか、その日の制球は安定していた。

 決勝でパーフェクトゲーム。

 漫画みたいでかっこよかった。

「え? 覚えてるの?」

 蒼衣は驚嘆の声をあげた。

「覚えてるよ」

「えー? ほんとー?」と歓喜が混じった悲鳴をあげて、「びっくりぃー!」と笑っている。

「かっこよかったから、あの日の蒼衣ちゃんは」

「はは……、そうでしょ? 私、かっこよかったでしょ」

「うん」

 蒼衣は立ちあがってスカートについた汚れを軽くはたき落とす。空に西日が射して水面が夕焼けに染まる。

「私は……、かっこよくて可愛かったでしょ?」

「なんだよ、それ」

「え? だって野球美少女なんて、男の子はみんな大好きでしょ?」

「自信過剰だなぁ」

「過剰じゃないよ。事実だよ」

 と蒼衣は本気なんだか冗談なんだか相変わらずわからない。

「まぁ……、野球はやめちゃったけど……、今はもっと美少女だし、こんな私も陽太は大好きだよね?」

「かもなぁ」

「なに? その言い方。 テキトー」

「なんか懐かしいなぁ。色んなことがもうずっと昔のことなんだよな」

 世界が移動していく速度は、いつも速い。さっきまで澄んでいた青空が、こうしてオレンジ色に染まっていくように、あっという間に風景は変わっていく。

 僕らは取り残されないように、今を生きていく。

「……ねえ、陽太」

「……何?」

「私、翔くんに会ってきた」

「え?」

 子供のころのチームメイトで、今は東京の帝都大付属高校に通っている。学校の寮に入って、野球部で日々汗を流している。野球をやめてしまった仲間が多い中、翔は未だ、あのころの夢を追っている。

「翔くん、真っ黒だった!」

 翔とは、長い間連絡を取っていない。高校が変わってしまったし、寮にも入って、疎遠になった。雄大みたいに喧嘩してるわけじゃないが、自然と、距離が遠くなった。

「第一印象、それ?」

「うん。だって真っ黒だったんだもん」

 帝都大付属は強豪校だ。かつては全国屈指の強豪で、何度か甲子園も優勝している。今は多少、力は落としたが名門であることには変わらない。

「そりゃあまぁ、日焼けもするだろうよ」

「なんか、陽太たちほど大きくはなってなくて、あんまり、変わってなかった。翔くん」

 翔は昔から野球がそこそこ上手かった。だけど雄大や蒼衣ほどじゃなかったし、中学生になってからは僕の方が上手くなった。夏海から伝え聞いた話では、帝都大付属では今年もベンチメンバーに入れなかったようだ。強豪チームだから仕方ないとは思うが。

「そっか。俺もしばらく会ってないからわかんないけど」

「うん! 陽太がね、学校行ってる間に、会ってきたんだけど……、翔くん、陽太のこと、心配してたよ!」

「え? 俺の?」

「うん! なんか……なーちゃんから聞いたらしくて……、陽太は大丈夫? って何回も言ってたよ」

「またなっちゃんか……」

「なーちゃんは陽太のこと心配なんだよ」

「わかってるよ、それくらい」

「陽太のことが好きだから」

 と蒼衣は恥ずかしいセリフをいとも簡単に言う。

「好きだから、どうにかしたいんだよ。だからみんなに陽太のことわかって欲しいし、力になって欲しいんだよ。きっと」

「……そんなこと言われても」

「なーちゃんは多分、私に怒ってるんだと思う。私が、突然、帰ってきて、陽太の家にいついて、陽太を独占してるから……、なーちゃんは昔からそういう子だったもん、優しいけど……、実は結構芯が強くて怒ったらほんと怖かったから」

 昔を思い出すように蒼衣は言う。蒼衣と夏海は小学校に入ってから仲良くなった友達で、それから六年間、ずっと一緒にいた。たまには喧嘩もしてたけど、二人はよく馬が合うようだった。

「ごめんね、陽太。なんか、お邪魔虫しちゃってるみたいで」

「え? いや、俺は別に」

 夏海とはしばらく会話していない。このまま夏休みに入ってしまうのは避けたかったが、しかし踏み出せないままに今日になってしまった。

 

「ん? あれ? そこにいるのは陽…太? それに……秋山さん?」


――と、突然に後方から爽やかな男の声が聞こえて僕は思わず振り返る。

「晴…臣?」

 そこにいたのは篠ノ崎晴臣だった。小学校のころのチームメイトで、今は川越南高校に通っている。高校に行ってから、疎遠になった昔の友達の一人。

「え……? 秋山さん? ……か?」

 と晴臣は蒼衣の姿を見て不審そうに言った。

「え……晴くん?」

 晴臣のフチのないメガネは、あのころと何も変わってない。黒髪にストレートの短髪で色が白い。視線が鋭くて、頭の回転が速い。昔から勉強が得意で、いつも学年一位。高校は推薦で地域トップクラスの川越南高校へ行った。

 いつも冷静で、現実主義者の晴臣は言葉が強くて、僕はそんな晴臣がちょっと苦手だった。

「やっぱり、秋山さん?」

「そだよ! 私だよ!」

 と蒼衣は晴臣を認識するなりいつもみたいに勢いよく抱きついた。

「お」と晴臣は一瞬、困惑したようにも見えたが、表情はさして変わらなかった。

 三年ぶりくらいに顔を見たがちょっと無骨になったような気がする。

「晴くん、久しぶり! 全然変わってないね!」

 だが蒼衣は嬉々として言う。

 晴臣は冷めた感じで、

「そっかな」

 なんて言う。

「何してるの? 晴くん」

「何って……、気分転換、かな」

「気分転換?」

「そう」

「なんでまたこんなとこで?」

「ていうか俺んちの前だから。ここ。忘れた?」

「あ! そうだった!」

 と蒼衣はふいに思い出したように驚く。晴臣の家は、この入間川の河川敷の隣にあり、奥富グラウンドは家から目と鼻の先にある。

「秋山さん……、こそ、なんでこんな所に? それに陽太まで……?」

「なっちゃんから何も聞いてない?」

「……栗山さん? ……? いや……、連絡取ってないし……」

「え? そうなの?」

 僕は夏海がみんなと未だに連絡をとっていると思っていたので驚く。

「なっちゃん、晴臣とは連絡取ってないんだ」

「ていうか、あのころの友達とは誰とも……俺は」

「翔とかとも?」

「ああ……、まあ」

 晴臣は大河原翔と比較的仲がよかった。

「そっか」

 僕はそれ以上、問い詰めなかった。みんな事情がある。僕の両親が死に、PTSDになり、野球をやめたこと。雄大が甲子園を目指して必死になって練習をしていること。夏海が色んな思いを抱えながら僕の側にいてくれたこと、あかりや諒たちが目指しているもの……、みんなそれぞれの人生を生きている。僕らはもうあのころの子供じゃない。高校三年生だ。

「ねえ……、晴くん、私ね、みんなとまた野球がやりたくてね、会いに行ってたんだ」

 蒼衣はこの二週間のことをつらつらと話し始める。どことなく悲しげで、どことなく楽しげで、蒼衣の言葉はいつもつかみどころがない。

 みんなと会ったこと。今日もあかりや諒と会ってきたこと。翔が野球を頑張っていること。

 そして、青春の最後にみんなで野球がしたいことを蒼衣は感情をこめて説明した。

 一通り話し終えた後、晴臣は言った。

「野球か……。ま、無理だろうなぁ」

「え……?」

「俺んちさ、借金があるんだ」

 晴臣とは余り仲がよくなかったので、詳しい事情までは知らなかったが、噂は耳にしている。

 川越南高校へは返済不要の奨学金をもらって進学したと聞いた。毎年、数人しか選ばれない高難易度の枠だが、頭脳明晰の晴臣はそれに挑戦し、受かった。

――お金に困っているらしい……、

 と時折、耳に入ってきていた。だけどそれをつっこんで訊ける距離感じゃなかったし、訊いてはいけないことくらい中学生の僕でもわかっていた。

「父親がさ、友達の借金の保証人になっていてね。……まあ、騙されたって感じだよ」

「……え」

「だから、普通にしてたら高校も大学も厳しくて。もちろん奨学金っていう選択肢はあるけど、後で返済があるだろ? 借金のヤバさは親を見てたらわかるから嫌だし……」

 訥々と感情を見せず語る晴臣に、蒼衣は圧倒されている。何も言えず、表情をこわばらせる。

「でもさ、そんな他人の事情のせいで俺の人生を壊されるのも嫌で。陽太は知ってるかもしれないけど、返済不要の奨学金に挑戦してみてね。なんとか受かって、高校はそれで行けた」

「……あ、あぁ」

「知ってた? みんな口が軽いんだよ。人の家庭の事情をペラペラとさ、話のネタにして」

「ごめん」

「ま、大学もそんな感じのシステムを利用するつもりでさ、余裕ないんだ」

「そ、そうなんだ……」

「陽太は大学は野球推薦?」

「あ、あぁ」

 野球部の実績があるし、成績も悪くないので学校の指定校推薦で都内の大学へ進学が決まっている。

「そっか。いいよな、野球上手いやつは。雄大とかも。俺はさ、必死に勉強してもこないだの模試、全国八〇二位だったんだぜ。はは、自分の才能に呆れる」

 と自嘲気味に笑うが表情に乏しい。

「え? 晴くんすごいじゃん。八〇二位なんて」

「全然だめだよ。そんな順位じゃ」

「え? すごいよ」

「毎日、八時間勉強して、楽しいこと全部削って勉強して……、それで? この順位で? はは……」

 晴臣が抱えてきた苦しみは僕にはわからない。ただ、もがき苦しんで必死に生きてきたことだけはわかる。

 目標に向けて努力する辛さも楽しさも、結果が出ない時の悲しさも、わかる。

「陽太はいいよな、才能あって」

「俺なんか、雄大に比べたら全然……」

「ああ、あいつはスーパースターだよな。マジでプロ野球選手になりそうじゃん。……ん? そういえばお前はなんで今年は試合に出てなかったんだ? 怪我か?」

「試合?」

「そうだよ。俺は時間ないけど、母親は能天気でね。去年の夏の大会……実はテレビで応援させられたんだ」

「……え?」

「陽太くんが出てるから一緒に見よう! なんてね、はは……、そんな余裕俺にはないのにさ」

「見なくていいのに、俺の試合なんて」

「今年は出場してなかったから母親が心配してたよ。怪我?」

「ま……そんなとこ」

「ふーん」

 何か言いたげだが、それ以上に晴臣は詮索しなかった。メガネをくいっと直し、吐き捨てるように言った。

「雄大は甲子園……陽太もすごい……、俺も頑張らなきゃな」

 夏の埼玉県県大会決勝は、明後日、大宮県営球場で行われる。対戦カードは大宮学院対聖皇学園。

 大宮学院の県内随一の強打者藤村雄大を、聖皇学園のMAX一五〇キロエース松葉隼人が抑えられるかどうかが注目のポイントだ、とネットの記事で読んだ。

 前年準優勝の桜ヶ丘学園は、こないだの準決勝で大宮学院に八対三で破れた。雄大はホームランも打った。

 僕は試合を見なかった。

「ま、そんなわけで野球は無理だな。そんな余裕ないよ。指でも怪我したら勉強に支障出るし」

 と淡々と話す晴臣を僕は冷たいとは思わなかった。

「……そっか……」

「ああ、ごめんな。俺は今を生きるだけで精一杯で……、昔を懐かしんだり、青春を楽しもうなんてやる時間ないんだ」

「晴くん……」

「おっと。もうこんな時間か。こうしちゃいられないな。家戻って夕ご飯つくらなきゃ」

「ごはん?」

「あぁ、最近母親が調子悪くて……、親父は週七で仕事だし……、はは……、人生って中々上手くいかないなぁ」

 と晴臣は踵を返して土手に作られた階段を登っていく。

「じゃあな」

 西日で影が出来た晴臣の振った手は、ちょっとだけ寂しそうに見えた。

 夕闇の風にさらわれていく。

 *

「なんか……、大変そうだね」

 蒼衣はぼそりと言う。

「そうだなぁ」

「みんな変わっちゃうんだね……」

 蒼衣は悲しそうに言う。

「ねえ陽太、変わらないものは……、やっぱりないのかな」

「またそれか……。なんだよ? 蒼衣ちゃんらしくないなぁ」

「らしくない?」

「うん。なんか難しい話しだろ」

「私がバカって言いたいわけ」

「さあ?」

「バカにするな。陽太のくせにー」

 蒼衣は口調だけ怒ったように言う。遠い空を見て昨日を思い出す。

「野球……、嫌だって」

 晴臣には事情がある。みんなにも事情がある。それは生きているということだ。

「ま、いいじゃん。晴臣いなくても野球出来るしさ、誰か他の人でも探してきて……」

「だめだよ。晴くんがいなきゃ、あのころのみんなじゃないもん」

 蒼衣は焦ったように必死に言った。

「ねえ、蒼衣ちゃん。そんなに拘ってさ、どうして野球がしたいの?}

「え……? 言ったじゃん。私はただ、青春の終わりにみんなで野球がしたいだけだよ」

「ほんとにそう?」

「なんで?」

「必死だから。蒼衣ちゃん」

 再会した時から、蒼衣が時々見せる影が気になっていた。夕日に照らされた長く伸びた蒼衣の影は、本当にあのころと同じだろうか。

「なんか他に理由があるんじゃないかって」

「……? ないよ」

 蒼衣はそう言って視線をそらす。

「でも……、寂しい」

「……?」

「寂しいなぁ」

 風が吹いて蒼衣の黒い髪が艶やかに揺れた。横から見た蒼衣の顔は、可憐だった。

「寂しいよ、陽太」

「……?」

「変わらないままで、いたかった」

 水分をふくんだ声はいつになく弱気だった。

 思わず抱きしめたくなる。

「でも……、変わらないものはやっぱりどこにもないんだね」

 まただ。

 蒼衣の影が酷く伸びて僕を覆っていく。最初からずっと感じてきたのに、その違和感に触れないようにしてきた。

 それは僕の弱さだった。

 だけどそれがいけなかったのだ。

「大ちゃんも……、なーちゃんも……、あかりんも晴くんも……、みんな、変わっちゃった」

「そりゃ……、変わるよ」

僕たちは大人になっていく。それに抗うことは出来ない。変わることを望まなくても、世界は一方的に景色を変えていく。僕らはただ、置いていかれないように、走っていくしかない。

「陽太も変わった」

「俺?」

「うん。陽太は大人になった」

「そりゃぁ、多少は。もう一八だし」

「昔の陽太の方がよかった。何も出来なくて、いつも私の後ろから着いてくるだけだった陽太がよかった」

「……それは……、はは、俺は何も言えないな」

そんな自分が嫌で、蒼衣みたいに輝きたくて僕は努力した。でも挫折して逃げ出して、今の僕はどんな僕なんだろう。


「やっぱり……変わらないものなんてどこにもないんだね」


 蒼衣の声が風に乗って空へ飛んでいった。瑞々しいその声はやがて蝶になって花びらのあいだを舞っていく。でも今は、どこにも行けない。すがるように昨日ばかり見てる。


「――バイバイ」


「え?」

 強い風が吹いて、振り返ると、もうそこに蒼衣はいなかった。一輪のきいろい花が河川敷に咲いていた。

 夕日が夜に変わる。 

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