三上琴音
*
あの雪の朝、僕の前に現れた幻たちはフラッシュバックという心の現象だった。
あの後、僕が見た光景を夏海に話すと、「陽太くん……、一回、ちゃんと病院へ行って見てもらった方がいーよ」と心配していた。僕は「そんなことしなくても大丈夫だよ」と言ったけれど、「また倒れたどうするの!」と、夏海に怒られたため、反省し、川越にある国立児童医療センターという主に未成年者の医療を専門とする病院へ行くことになった。
未成年者だけでは精神科の受診は出来ないと言われたが、父と母が死んだため、親権は神奈川に住んでいる母の姉が持っている。だが仕事をしておりすぐには来られないし、正直、迷惑もかけたくなかった。
そんな時、夏海が、彼女の姉に事情を話して、付き添いを依頼してくれた。「そこまでしなくてもいい。かえって迷惑がかかる」と思ったが、しかしそんな夏海の一生懸命な優しさが傷心に染み渡り、嬉しいとも思った。
栗山夕葉さんは社会人二年目のお姉さんで、川越にある福祉系の会社で仕事をしている。
夏海とは七つ歳が離れているので「姉とゆーより、もう一人のお母さんみたいな感じ」なんて夏海は言っているが、優しそうな顔立ちや、ゆったりしているが芯が強い性格は夏海との血の繋がりを感じる。
夏海とは小学校一年生のころから友達だ。夏海の家に行ったこともたくさんあるし、お互いの家族同士、付きあいも多くあった。夕葉さんのことも僕はよく知っている。幼なじみのお姉さん、と言えば聞こえはいいが、七つも年が離れているとかなり緊張するので、昔から夕葉さんと話す時は、あがり症を発症していた。
一月の終わりごろだった。
夕葉さんと夏海、そして僕の三人で川越にある県立児童医療センターの精神科に行った。事前に予約は取ってあり、大きなエントランスを通ってエレベーターに乗り、二階にある精神科に向かった。
午後、一時。ここまで本川越駅から南桑市公園行きのバスで二十分程度だった。西武線で本川越へ行き、一度降りて川越のサンロード商店街でみんなで昼食を取ってから来た。
昼はラーメンを食べた。夕葉さんが選んだ。何を食べようかとサンロード商店街を歩きつつ、夕葉さんは「ね? ラーメンにしよ? 陽太ちゃんも男の子だからこってりラーメンが好きだよね? 私も好きだし……」なんて、僕に同意しろという圧力をかけてきた。
七つも上の大人のお姉さんの圧力に早々、逆らえるわけもなく、しかし猫舌の夏海はラーメンが苦手なのを知っているのでなんとも言えずにたじろいでいると、案の定、夏海は嫌がった。
しかし、夕葉さんが「私がおごるんだしー。嫌なら夏海は一人で別の物食べてきたらいいじゃない。ね? 陽太ちゃん」なんて、面倒なことを言って、「お姉ちゃん酷いよ! 自分がラーメン好きだからって! 私はラーメン嫌いなのに!」と夏海が怒ったりして、「じゃあ陽太ちゃんにふーふーしてもらえばいいじゃない」と姉妹喧嘩に突然に巻き込まれた。
「猫舌でよかったね。夏海」
「……え? な、何言ってんのよ! お、お姉ちゃん! 陽太くんが困ってるでしょ!」
「あー、そんなんだから夏海はモテないのよー。顔は悪くないのにねー。十七歳にもなって彼氏の一人も出来ず」
「お姉ちゃん! うるさいよ!」
「ごめんね陽太ちゃん、夏海はこんなで」
「え、いや……僕は」
「お姉ちゃん! 黙っててよ!」
「はいはい」
なんて適当にあしらいながら夕葉さんは鼻歌を歌いつつ、次郎系ラーメンのお店へ入っていく。店頭の看板には脂っぽいラーメンの写真が載せてある。
「でも……、夏海もいいところあるから、もしよかったらそのうちもらってあげてね」
と暖簾をくぐった時、夕葉さんはぼそっと呟いた。あまりにも自然すぎて僕は何かを取り繕う余裕がなかった。
「ね? よろしく。陽太ちゃん」
「あ……、は、はい」
なんて僕はつい、言ってしまうと、恥ずかしくなって周囲をキョロキョロとした。そこには顔を真っ赤にした夏海の顔が合って、気まずい空気になった。
午後一時十分。
児童医療センターの二階、精神科の診察室の前でイスに座って待機している。
予約の時間は過ぎたが、忙しいのかまだ順番は来ない。
「――茅野陽太さん-、診察室へお入り下さい」
とアナウンスが流れた。僕は立ち上がり、夏海たちと共に診察室のドアを開けた。
「はい、こんにちは。茅野陽太さん? ですね?」
と白衣を身に纏った女性の先生がイスに座って微笑みかけた。長めの茶髪とメガネをかけていたがレンズ越しのたれ目気味の瞳が印象に残った。
「そこに掛けていいよ」
なんて気さくな口調で先生の前にある丸い椅子を手のひらで示した。僕は何も言えずそのままイスに座った。
椅子に座ると甘い匂いがした。花の香りのように淡くて、どこか落ち着くような不思議な匂いだった。病室の中は真っ白で統一され、レースのカーテンから射す陽の光がキラキラと輝いて見えた。
「初めまして。今日診察します三上琴音です。よろしくね陽太くん」
「あ、はい。お願いします」
「おっきいねー、身長何センチ?」
「一八二です」
「おー! 大きいー。うちの子と比べたらえらい違いだわー」
「お子さん……ですか?」
「んー、ま、そんなとこよ。高二なんだけど、ちっちゃくてねー」
「はぁ……」
三上先生はかしこまった様子がまるでなく、世間話をするみたいに軽い口調で話した。僕の緊張を解くためのテクニックだったのかもしれないが、ただこういう性格の人のようにも思えた。恐らくは三十代前半くらいであろうルックスは年相応だが、母性を強く感じさせるのは何が要因だろうか。
「それで……今日はどんなことを相談しに来たのかな?」
と三上先生が本題に入った。優しく微笑みかける。その表情はだらしなくも見えたし、すごく紳士的に見つめているようにも見えて、僕はあっという間に、この先生の持つ空気感に乗せられていった。
「えっと……、こないだ倒れてしまって……」
――僕はこないだの朝、河川敷で見た光景を話した。それを皮切りにして、父と母が死んだ事故のことや、それから実感が沸かず涙の一つも出なかったこと、野球をやっていて毎日、激しい練習をしてきたことなど、直近のことを詳しく話した。先生は相づちを打ちながら、落ち着いて話しを聞いていた。過度に食いつくでもなく、しかし興味なさそうにするわけでもなく、適度に合いの手を入れ、リアクションを取りながら、僕の心の内側を引き出していった。
一通り話し終えた後、三上先生はニコリと笑い、切り出した。
「人間の心ってね、器用なんだよ。とってもね」
「器用?」
「そう、器用。生きるために必要だったらどんなことだってやれてしまうのよ」
「……?」
「例えばね、すごく辛い出来事があったとするでしょ? そうね……、大好きだった彼女にフラれたとか。彼女は学校一の美少女で、アイドルみたいに可愛かった。そんな彼女にフラれるなんてね……、もう死にたくなるくらいにショックで、毎日、寝込んでるとする。食事も喉を通らないし、何をしても楽しくないし、生きていくのが嫌になった」
突然の喩え話の意味はまるでわからなかったが、それが何か大切なことを言っているのだということは直感的にわかった。僕は先生の言葉に耳を傾けた。
「そして死のうと思った。でもね……、そんな時、ふいに脳裏にとある考えが浮かんだの。ふふ、どんな考えだと思う?」
「……え?」
「さあ、考えて」
いきなり質問を振られて僕は困った。先生が何かいい感じの話をしてくれるのかと思ったら、対話方式だとは思わなかった。
「え、えっと……」
「ブブー、時間切れでーす。陽太くんの負けでーす」
「え? 負けとかあるんですか」
「もちろーん。負けたので陽太くんは今日から先生と一緒に人生を歩まないといけませーん」
先生はおどけた調子で意味不明なことを言った。さすがに理解が追いつかなくて、言葉もでてこなかった。
「ふ、ふざけないでください、三上先生」と後ろで見ていた夏海が言ったが、「真面目だにょー」なんて先生はあきらかにふざけた様子で言った。
「三上先生!」
「まあまあ落ち着いて夏海」
と夕葉さんが夏海をなだめた。夕葉さんには三上先生の言いたいことがわかっていたのだろうか。
「ま、冗談はさておきね……続けましょうか」
「え? 冗談?」
「死のうと思った時、脳裏に浮かんだ考えっていうのはね……、あんな女、ろくな女じゃなかった。浮気してたし、顔はいいけど、男に依存して、とっかえひっかえするしわがままだし、男好きのメンヘラビッチ女だ、なんて悪口を言うことだった」
先生は僕の質問には答えず、自分のペースで言葉を紡ぐ。声を高くしたり、低くしたりして、情緒豊かに話す様は一人芝居みたいだった。
「そうやって悪口を言っていると、なんだか、この失恋は大したことじゃないように思えてきた。だって、ろくな女じゃなかったんだもの。男依存のメンヘラ。むしろ貢がされて破滅する前に早い段階で別れられてよかったー! 今度からはもっと普通な女の子と付きあおう。きっと浮気しないし! なんて、途端に前向きになり気持ちが晴れたりした」
「は、はぁ……」
「これを心理学用語で認知的不協和という。イソップ童話の狐と葡萄がまさしくこのことを言っているなんて言われかたもする。ま、難しい話しをすると長いけれど、要するに、美少女の彼女が大好きだった、でもフラれた悲しい、という矛盾した状況を解決するために、美少女は浮気するメンヘラビッチだからろくな女じゃないので、普通の女の子と付きあった方が幸せだ。だから別れてよかった! なんて、自分の好みを無理矢理ねじ曲げるの。自己の合理化なんて言い方もするわね。そうしないと死にたくてたまらないんだもの。仕方ないわよねー」
「……は、はぁ」
「ん? 何? その顔は? ふふ、え? つまり何が言いたいんですか? って顔してる。難しかったかしら? 先生の話」
「い、いや……、そういうわけじゃないんですけど」
「恋愛の話しはわかりにくかった? うーん、共感しやすいテーマを選んだつもりだったんだけどなー」
「いや、そうでもなく……」
「んもう! だったらなによ!」
「いや……、なにとかそういうことじゃなくて」
話が脱線してばかり……、いや、それも何か意味があるのかもしれないがともかくこの先生は自由すぎてよくわからない。つかみ所がないというか……、悪い人じゃないのはわかるが、独特な空気感を持っている人である。
「ま! よーするに人間ていうのは都合がいいのよ。楽しく生きていきたいの。辛いことは極力、なくしたいのよ」
「そう……ですね。それはわかります」
「わかってくれたー? わー、嬉しー」
なんて、子供みたいに幼く振る舞う先生のことはやっぱりよくわからない。
「陽太くんも同じ。ご両親が亡くなって、きっと耐えられないくらいに辛かったんじゃないかな?」
「そう……、なんですかね、わかりません」
「遺体を見てないから?」
「それも……あるし、事故の記憶もないし……、なんだか夢を見てるみたいで実感が沸かなくて……」
「その記憶がないっていうのは、脳震盪のせいって先生に言われたの?」
「え、ええ、そうです。入院先の病院で脳震盪のせいだろうって」
「ふーん……。ね? そこでちゃんとした先生のカウンセリングって受けた?」
「ちゃんとした先生?」
「そ! 私みたいな可愛くて美人で色気があって優しいお姉さん先生!」
三上先生は嬉々として言った。
「……は?」
「あ、い、いや……、今のはちがくて、え、えっと、そう! 精神系の先生の診察って何か受けた?」
三上先生は慌てふためき言った。
「……? いや、受けてないですけど」
「そ、そっか! なるほど! うーん! そっか! なるほどー!」
「……?」
要領を得ない返事に不安になる。やっぱりこの精神科医は変だ。明らかに普通じゃない。精神科なんて来たのは初めてだからよくわからないけれど、精神科医ってこんな人ばかりなのだろうか。
「もしかしたら……、陽太くんの記憶喪失って、脳震盪の影響じゃないのかもしれない」
「え? そうなんですか?」
「ね、その病院でさ-、MRIとか撮った?」
「はい」
「何か、異常とかってあった?」
入院先の病院で頭部の検査は一通りしたが、どこにも異常はなかった。
「いや、特には」
「うーん、やっぱりそうかー」
「脳震盪のせいじゃないんですか?」
「んー、ま、そっちは専門じゃないからテキトーなことは言えないんだけどー……、でも、その可能性もあるんじゃないかなーって」
「どういうことですか」
「ね? PTSDって言葉、どこかで聞いたことないかしら?」
そのアルファベット四文字が先生の口から出たとき、意味はよくわからないけれど、喉の先っぽでつっかえているモノの正体がわかったような気がした。
「え、ええ……、聞いたことぐらいはありますけど、映画とかで」
「うん。多分、陽太くんはそれだよ」
「え?」
「PTSD。ポストトラウマティックディソーダーの略。ま、意味なんてどうでもいいんだけれど」
先生は足を組み、デスクの上にあるコーヒーをすすりながら、イスを回転させる。スカートの下で組まれた足は重量感があって、年齢を感じる。急に真面目なトーンの声色を出し、真剣なまなざしをしたその表情は、やっぱりというか、ちゃんとした先生の顔だった。
「心にね、強いショックを受けたときに、人間ていうのはそのシーンをなかったことにしようとするの」
「なかったことに? ……ですか?」
「そ。だって辛いんだもの。辛くて耐えられない。ならいっそ忘れしまえばいいじゃないか。脳が喋るなら、きっとそんなことを言っているはずよ」
「忘れる……」
「キミは多分、その光景を見てる。夢で見たその光景は、多分、本当にあったことよ」
「え?」
あの雪の日に、僕が見た幻は酷く辛いものだった。動悸がし、嘔気がし、不安感に苛まれ、恐くて仕方がなかった。人間の姿を失った血だらけの遺体を見たとき、頭がねじ切れていくような感じがした。
「あまりにもショックだったから……、そのまま気を失って、そして忘れた。なかったことにしたの。その方がキミが生きていく上で都合がよかったんだろうね」
「そんなことないですよ! 都合いいとか悪いとか……、そんなこと考えてないです!」
僕は思わず声を荒げて立ちあがる。「陽太くん!」なんて夏海が僕の衣服の裾を掴んで静止する。
「ふふ……、優しいね」と夏海の方を見て、先生は言う。「はー、青春だな-。私はもうとうの昔に過ぎちゃったなー」と虚空を見つめる。「煙草吸いたくなってきちゃったなー」と物欲しげに僕らの方を見るが、もちろん、タバコはない。
「ん……、ま、陽太くんがどう思ったかじゃないのよ。心の中で、脳が勝手にそう判断したのよ。キミは耐えられない。生きていけない、って」
「そんなことない! 僕は……、俺は、耐えられた! そんな弱くないですよ!」
「陽太くん!」
と夏海が後ろから僕を止める。僕だってどうしてこんなに感情的になってしまうのかわからない。先生が言いたいことはよくわかるのに、でも、つい頭に血が上ってしまった。
「そうね。そうかもしれない。私は陽太くんのこと知らないから、なんとも言えないけれど、でも、話しを聞く限り、キミは強い子なんだろうな、って思うわ」
「……」
僕は何も言えない。先生は僕を肯定してくれたのに、それに対して言う言葉が思い浮かばない。
「でもきっと頑張り過ぎちゃったんだろうね。ご両親が亡くなって……、部活のチームが新しくなって……、一生懸命頑張った。すごいわよ。将来プロ野球選手になるかもしれないんだもの。そりゃあ、頑張らないとね」
「プロなんて……そんな、まだ……」
「だけど、それがご両親への手向けだって思ったんでしょ?」
「まあ……、そういう風に思うのもありかなって」
「頑張ったね」
「……、そんなことないです」
「頑張って頑張って、頑張りすぎて、きっと疲れちゃったのね。脳の中でもきっと、頑張ってあの日のことを忘れようとしてたんじゃないかしら? でも疲れてしまって、キミの強い心にも隙が出来ちゃって、そうしてフラッシュバックが起こったんじゃないかな?」
先生の言葉を聞いていると、段々と弱くなっていった。どうしてだろう。優しい口調のせいか、自分を隠さないマイペースな態度のせいか、それもテクニックだとしたらすごい先生だと思うが、きっとそうじゃない。
「フラッシュバックってなんなんですか? 僕は病気なんですか?」
「病気というか……、ま、脳障害かな? 正確には」
「障害……」
「まー、大丈夫よ。キミだったら」
「そんなテキトーな」
「テキトーじゃないわよ。だって陽太くんは強い人でしょ? こんな障害くらい、乗りこえられるわよ」
「強くないです……、僕なんて」
「ふふ、そうなの?」
「そうですよ……、僕、わかってたんです。無理してるって。両親が死んで……、実感は沸かなかったけれど、でも、その実感が沸かないってことがすごい……、不安だったんです。ずっと、喉の先っぽの方で出かかってるような何かがあって、でも出せなくて、気持ち悪かったんです。それを忘れたくて……、どうにかしたくて、とにかく野球野球野球、練習だ! ってなってました。そうしてたら少しは嫌なこと忘れられたから」
人間は都合がいい生き物だ。
矛盾した二つの選択肢があって、片方は絶対に叶わない選択肢だったとしたら、もう片方を素晴らしい選択肢だと思うように出来ている。
認知的不協和。自己の合理化。そんな心理学用語なんか知らなくたって、僕はわかってる。
両親に会いたい。でも死んだ。もう会えない。でも実感が沸かない。だけど喉の先っぽに違和感がある。つっかえている何かが気持ち悪い。でも野球をしなきゃいけないから気にしない。野球が上手く行かない。練習が足りないからだ。練習しすぎて体が痛い。でも休んだらダメだ。
休んだら喉の先っぽにあるその違和感がもっと大きくなって、壊れてしまうような気がしていたから。
両親が死んでしまった事実から逃れるように野球をやっていた。新人戦でサヨナラ負けをして悔しいという気持ちにならなかったのは、野球をやることが、両親の死から逃げるためだったから。試合に勝つことじゃない。楽しむことじゃない。ただ……、忘れたいだけだった。
認知的不協和。
両親の死と向き合おうとしなかったのは、それが選択出来ない選択肢だったから。
遺体を見てないから実感が沸かないので、とりあえず生活出来ているので向き合わなくても大丈夫だ。
喉の先っぽに違和感があるが、 新チームになって野球を頑張らないといけないので、そんなことを気にしている余裕はないし、今のところ生活に問題はないから放置しておいても大丈夫だ。
僕のしてきた行動はそうしてみんな、自分を守るために合理化された思考ばかりだった。
本当のところはわかってたんだ。
涙を流せないのは、涙を流しても両親は蘇らないから。
死んだっていう事実を受けいれたくなかったから。
泣いたら終わりだと思っていたから。
死んだと確定してしまうことが怖かったから。
夢にしておきたかったんだ。
「僕は都合よかったんです」
「そう……なの?」
「そうです」
「そんなことないよ!」と話しを割って入ってきたのは夏海だった。僕の診察なのに、じっとしていられないなんて夏海らしくない。
「なっちゃん、いいから」
「でも……」
「仲いいねー。もしかして付きあってる?」
「「付きあってないです」」と二人して言った。「あら息ぴったりね」と先生はくすりと笑う。
「まあ、PTSDのことはこれから説明するとして……、さっきの約束覚えてる?」
「……?」
「忘れちゃった?」
「え……? 約束?」
「キミは忘れっぽいなー」
皮肉を言われた気がした。でも嫌な気持ちにはならず、ちょっと笑顔になった。
「さっき先生のクイズ、答えられなかったでしょー?」
「あぁ……、あの……」
もうかなり前の質問だ。先生が喩え話で彼女にフラれて死のうとした人の話をして……、脳裏に浮かんだのは何か? って問われたが、僕は答えられなかった。
診察が始まってどれくらい経ったんだろう。そういえば時計を気にしてなかった。夢中になってた。見上げると目の前の壁の上に丸いアナログの掛け時計があった。え? 二時四十分……、診察開始が一時十分くらいだったから……、かれこれ一時間半も話してた……、のか。ちょっとびっくりした。
「そう! そのとき、約束したでしょー?」
「約束は……、してないですけど」
「したのー! したんだよー! キミはね、陽太くんはー、これからの人生、先生と一緒に生きていくのー」
先生は駄々っ子みたいに話す。この場面でどうしてそんな態度になるのか全くもって理解出来ない。先生のことはさっぱりわからない。本当に変わった人だと思ったけれど、この人だったら、きっと助けになってくれるって不思議と信じることが出来た。
「はぁ……、そう……、ですか」
「あ! 今、認めたよね? 認めた! わーい! やったー! ……あ、もう今から撤回とかだめだからね! もう決まりだからね!」
「わかりました。いいですよ」
「え……、あ、う、うん! そ、そっか! あー、よかったー! わー、わーい!」
僕が素直に言ったせいか、先生は反応に困ったようだった。やっぱり、僕の緊張をほぐすためにおどけていただけなのかもしれない。でも、今はそれでよかったと思った。
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それから先生の治療を継続的に受けている。二週間に一度、川越へ行き、県立児童医療センターでカウンセリングをする。《人生を一緒に歩んでいく》、とは先生のカウンセリングをちゃんと受けに来る、ということだった。
PTSDとは主に三つの症状からなる脳神経の障害である。交通事故や犯罪現場などを目撃、体験してしまった人が、その衝撃的な光景を目の当たりにし、心的外傷を受けることで様々な症状が現れる心の病気だ。
中核をなす三つの症状。過覚醒、回避、再体験。
過覚醒というのは、いつまたその現場みたいなことが起きるか気が気じゃなくて、イライラして落ちつきがなくなる症状のことである。
回避とは、そんな恐怖でいっぱいの現場を極力避けようとする行動のことであり、交通事故に遭ったのなら車に乗ることを避け、事故現場に行くことを避け、酷い場合は車を視界に入れるだけでも逃げ出したくなる衝動に駆られる。
再体験というのはフラッシュバックのことであり、心的外傷に関連する事象……、例えば交通事故に遭った被害者が避けるその《車》や、事故に遭った日の根本原因を作った自宅での《転倒》……とは、まさに僕のことだが、それをきっかけとし、まるで白昼夢のように《その日》に戻り、心的外傷の光景を再体験することである。
PTSDにも程度の差があり、僕のように交通事故によってトラウマを持った人であっても十人十色である。例えば人が運転する車に乗っていて死亡事故に遭った人でも、誰かの運転する車には乗れないが、自分で運転する場合はいたって平気な人や、車という存在を目にするだけでパニックになりフラッシュバックを起こしてしまうため外に出ることが大変困難になっている人までいる。
僕みたいに事故の現場そのものではなく、その遠因となったことがらでフラッシュバックを起こすこともある。
大事なのは何がその人の心的外傷の根幹をなしているかということである。
「無理を言って野球に行こうとした、という原因が両親を死なせるという結果になってしまった。陽太くんはその行動を後悔し、自分を責めている。だからその思考を変えない限りはPTSDは解決しない」
と先生は僕のことを分析した。
PTSDの治療に使われるのは、主に認知行動療法という治療方法である。例えば車は恐い。車に乗ると事故に遭う、と車を恐れているのなら、楽しい家族ドライブの絵を描いたり、爽やかに海辺をドライブする空想をしたり、玩具の車を使って子供みたいに遊んでみたりする。そうすることで車は恐くない、楽しい、安全だ、と認識を変えていくことで、トラウマを改善するのである。
僕が両親が死んだのは自分のせいだ、事故の原因は自分のせいだ、と責めている限り、治らないというのはそういうことである。




