〇八〇 天に二日あり
~~~許昌の都 宮廷~~~
「な――なんという無礼な!
いくら兄ちゃんの言葉とて許すわけにはいかない!
兄ちゃんを、曹丕をここにつれてきなさい! ぼくが問い質してやる!」
「こ、皇后様、どうか落ち着かれよ」
「これが落ち着いて聞いていられるか!
帝位を禅譲しろだって?
華歆! お前は曹丕の臣である以前に漢の臣であろう!
漢の禄をはむお前が献帝陛下によくもそんなことを言えるな!」
「はしたないね曹節君。皇后なら皇后らしくしたまえ」
「兄ちゃん! いや曹丕! そこに直れ!
曹彰兄ちゃんから習った虎殺しの奥義を見せてやる!」
「怖い怖い。たしかに素手の勝負なら君には敵いそうもない。
でもご覧のとおり、僕の左手には亡き父上から習った剣がある。
いくら君でも剣には勝てないだろう?」
「むむむ。皇后であるぼくを脅すつもりか!?
そもそも帯剣して宮中に上がるなんて――」
「よしなさい、曹節。
…………もういいのだ」
「陛下! もういいってどういうこと?」
「曹丕殿。あなたに帝位を譲ろう」
「!?」
「これはこれは。さすがに陛下は話が早くて助かるね。
僕も手荒な真似はしたくない。だから禅譲という形を取ろうと言うんだ。
曹節君と違いそのあたりを陛下はよくご存知だよ」
「な――なにが禅譲だ! こんなのは簒奪だ!」
「曹節、お前の気持ちはありがたいが、それ以上の言葉は慎みなさい。
……朕は何度も曹操に帝位を譲ろうと持ちかけた。
曹操にはいつも断られたが、その子息に譲れるのならば悔いはない」
「でも、でも、陛下ぁぁ……。ええ~ん……」
「話はついた。華歆君、すぐに準備を整えたまえ」
「は、はい!」
「これでいい。これでいいんだ。だから泣くな、曹節……」
~~~建業~~~
「曹操のバカ息子が皇帝になったって? へ~え」
「バカむ……曹丕様は献帝陛下から禅譲されるという形式で、帝位につかれました。
その後、献帝は僻地へ追いやられたとも、暗殺されたとも伝わっています」
「な、な、なんという傲慢な、横暴な、不遜な、尊大な……」
「こんなことは許しがたいゲス! 即刻、曹丕を討つでゲスよ!」
「――と、儒者の連中は御立腹だけどよォ。陸遜、おめェはどう思うよ?」
「そうですね。
曹丕さんが皇帝になられたなんて、とってもおめでたいことです。
ぜひお祝いしましょう!」
「い、言うに事欠いてお祝いだと!?」
「き、貴様は何を言っているかわかっているのか!?」
「ええ? だって、ボクらは曹丕さんに降伏してるんですよ。
臣下が主君の即位をお祝いするのは当たり前じゃないですか~」
「ははっ。違ェねェや」
「そ、孫権殿…………!」
「それにそれに、お祝いしたらきっとお返しがもらえますよ。
曹丕さんが皇帝なら、孫権艦長は王位くらいもらえるんじゃないかな?」
「それはいい。
艦長は偉そうにしてますが官位はたかが荊州刺史に過ぎませんからね。
王になれれば箔が付くというものです」
「そうなりゃますますでけェ顔ができるってもんだ。
――ってなわけで、誰か曹丕のヤローに御祝儀を届けてきてくんな」
「……漢の滅亡までも自分のために利用なさるか。
まったく、我が御主君はたくましくなられたものだ! 大変に結構ですな!!」
~~~成都~~~
「陛下が……死ん、だ……?」
「い、いえ。亡くなられたかどうかまではわかりません。
依然として情報が錯綜していまして……」
「いずれにしろ、漢は滅びた。それだけは確かなようです……」
「なんということじゃ……。
わしは陛下のために何もできんかったのか……」
「曹丕め……。正直、アイツを甘く見てたわ。
こんなに強引に事を進めるなんて……」
「帝位を簒奪する前には、弟の曹植や曹彰らを失脚させたそうだ。
特に曹植は詩聖とうたわれるほど名声が高かったからな。
だが腹心の楊脩らも殺され、もう何もできまい」
「曹操の弟分だった曹洪も投獄されたそうだぞ。
自分の対抗馬になりうる一族を次々と排除してやがる。
曹操以上に冷酷な男だぜ……」
「何より憂慮すべきは、これで我々が漢王室の復興という大義名分を失ったことだ。
せっかくの漢中王という称号も有名無実なものになってしまった。
これからどうすべきか……」
「馬鹿め。これは絶好の機会ではないか」
「ぜ、絶好の機会? なんの話だ?」
「これだけ雁首そろえてなぜわからぬ?
漢が滅びた? だからどうした?
ならば貴様が漢そのものになればよかろう」
「…………へ? わ、わしが? 漢に? どういう意味じゃ?」
「貴様が献帝の次の皇帝となり、漢はいまだ健在だと言えばよかろう。
貴様は皇帝の末裔サマで、しかも漢中王サマなのだろう?
資格は十分ではないか」
「わ、わしが……皇帝に……?」
「どうした。皇帝になるのは貴様の夢であろう。もっと喜ばぬか」
「い、いや……急に言われたもんじゃから、なんか実感が湧かなくてのう」
「でも、それって良い考えよ。
天下広しといえども、献帝陛下の跡を継げるのは、
今やアンタしかいないんだから!」
「おめでとうッス! ついに劉備先輩の夢が叶うッス!」
「わしが……皇帝に……」
「そうだ、ちょうどいい。貴様にあれをくれてやろう。
――黄月英」
「はいです。ででででん。伝国の玉璽~~」
「ぎょ、ぎょ、ぎょ、ぎょ、ぎょ、玉璽ィィィ!?」
「玉璽って、皇帝の証だというあの印綬か!?」
「ち、ちょっと諸葛亮! アンタこれどこで手に入れたのよ!?」
「拾った」
「拾えるものなのか……」
「こ、こんな大事な物を無造作に持ち歩いておられたのか?」
「ただの良く光る判子だ。だが今の貴様らには有用であろう」
「ううむ……。皇帝か……。
ぎ、玉璽を見ているとなんだかその気になってきたぞ……」
「あのろくでなしの劉ちゃんが皇帝になるんか。
……世も末だな」
~~~許昌の都 軍議場~~~
「劉備君が皇帝を名乗った? だからどうしたんだい?
魏帝国にあだなす逆賊が何を自称しようが痛くもかゆくもないよ。
どうせ僕が滅ぼすまでの短い栄華の時さ。好きにさせておきたまえ」
「は、はい……」
「しかしこれは由々しき事態ですぞ!
一刻も早く劉備を討つべきでしょう!」
「いや、焦ることはありますまい。
劉備はいま、関羽の仇討ちのため孫権の討伐を目論んでいる。
劉備と孫権が共倒れになるのを待つべきであろう」
「ずいぶんと消極的な考えじゃな。
魏帝国が建国された今こそ、一息に中華統一をすべき――。
んん? 誰かと思えば程昱ではないか。何しに参った?」
「なんじゃなんじゃ。
久々に参内してみたというに、見飽きた面々が顔をそろえておるわい。
人事を一新したのではなかったのか?
王朗が司空じゃと? そんな人事で大丈夫か?」
「こ、これは手厳しいですな程昱殿。
ところで引退なさった御老体がなんの用ですかな?」
「フン、曹丕の陛下に招かれて復帰したんじゃ。
ワシのことはいい、それより孫権が即位の祝儀とともに捕虜を返還してきおったぞ」
「ただいま、戻りましたぜ」
「…………戻りました」
「は、はは…………」
「むざむざ関羽の捕虜になり、
孫権の手に渡っておきながら、無様に帰ってきたのか。
どのツラ下げて陛下に会いに来たのだ? んん?」
「まあまあ、そのくらいにしてあげたまえ。彼らも苦労したんだ。
ところで孫権君は僕の即位に関して何か言っていたかな?」
「た、大変おめでたいことであると喜んでいました!
も、もはや孫権が陛下に逆らうことはないでしょう!
中華統一も目前です!」
「……いや、それは表面上だけのことだ。
いつの日か必ず、孫権は再び我らの敵となるだろう。
決して油断なさるな」
「と、東里袞。へ、陛下の前でなんということを言うんだお前は!」
「ふうん。于禁君はどう思うんだい?」
「孫権の旦那は一代の傑物だ。俺っちが言えるのはそれだけさ」
「なるほど。
――そうだ、君たちは父上の葬儀にも出られなかっただろう。
せっかくだから墓参りをしてきたまえ。質素だけど良い墓ができたんだ」
「ああ……」
~~~許昌の都 墓所~~~
「………………」
「あわわわわわわわわ。
へ、陛下は、内心では激怒しておられるのだ……。
あわわわわわわわわ……」
「けっ……。性格の悪い野郎だとは思ってたけどよ、ここまでとはな!
『関羽に降伏し醜態をさらす于禁と、降伏を拒絶し壮絶に討ち死にする龐徳』
の壁画だとよ!」
「…………まあ、よく描けてるじゃねえか」
「どどどどどどうしましょう!?
ど、どうすれば陛下の怒りを解くことができますか!?」
「知らねえよ。自分で考えろ」
「……俺っちは鮑信の旦那に代わり、
曹操の旦那の行く末を見守るため、生き恥をさらすことを選んだ。
でも曹操の旦那はくたばった。生き恥だけが残っちまった」
「だがこれで曹丕という男の底は見えましたよ。
魏に何十年も仕えてきた于禁将軍にこの仕打ちとはな!
こんな男には見切りをつけましょうや、将軍!」
「よせよ。俺っちはもう将軍でもなんでもねえ。ただの一兵卒の于禁だ。
曹丕の旦那がどう思ってようが、俺っちには関係ねえ。
ま、一兵卒は一兵卒らしく、一からやり直すとするさ」
「…………曹丕のもとに残られるのですか?」
「曹丕じゃねえ。
俺っちはいつまでも曹操の旦那の、いや旦那の残した魏の臣さ」
「………………」
「どうしようどうしようどうしようどうしよう…………」
~~~成都 式典場~~~
「わしはここに漢王室の再興を宣言する!
曹魏の偽りの世を正し民を救い、献帝陛下の雪辱を果たすんじゃ!!」
「漢皇帝・劉備バンザーーイ!!」
「漢帝国バンザーーイ!!」
「せや! 魏を討つんや!!」
「やりましょう! 我々の力で! 必ず!」
「バンザーーイ!!」
「オオオオォォォォオオオオン!!」
~~~成都~~~
「ふう……。さすがに疲れたのう」
「ご苦労。
ただの無能だとばかり思っていたが少しは演説もマシになったではないか。
即位の祝いだ。たまには褒めてやろう」
「いやあ、亮さんの台本が良かったんじゃよ。
三日三晩、徹夜してそれを丸暗記しただけじゃ」
「でも暗記できるようになっただけでも大した進歩じゃないの!
伊達に皇帝サマじゃないわね!」
「いやあ、そんなに褒められると照れるのう!
……でもそんなことより、わしは、いや朕にはやるべきことがあるんじゃ。
早速じゃがその相談をしたい」
「……関羽の仇討ちね」
「おう。孫権を討つ。それが朕の皇帝としての初仕事じゃ!」
「待つッス先輩! ついさっき打倒・曹魏を掲げたばかりなのに、
孫権先輩を攻めるんじゃあ道理が合わないッスよ」
「道理なんて関係ないのよ。アタイと劉備の一番の願いはそれなんだからね!
……この晴れの舞台に、関羽のヤツにもいて欲しかったわ。
あのバカ! なんでこんな時に死んじゃうのよ……」
「……でも道理の問題だけじゃなく、遠征自体にも不安が残るわよ。
荊州の軍馬を失ったことも大きいし、上庸も魏に寝返ったと聞いてるわ。
益州に残ってる戦力も、うちの馬超は毒矢で撃たれて寝込んでるし、
留守を任せる糜竺は弟が謀叛した責任を取って隠居したし、
法正や黄忠も漢中制圧戦で無理をして倒れてるし……」
「それなら心配はいらん。ワシは大丈夫じゃき」
「法さん!? 寝ておらんと駄目じゃろうが!」
「ゴーーホッゲホゴホッ!! わ、儂もまだまだ戦うんじゃからな!」
「黄忠まで……そういうのを年寄りの冷や水って言うのよ!
おとなしく寝てなさい!」
「孫権を討つのだろう? それならワシの……グフッ!
ワシの、頭脳が、必要だろうが……」
「駄目ッスよ。御二人にもしものことがあったら、それこそ一大事ッス」
「そうそう。それにまだまだアタイらには戦力が揃ってるんだから心配しなさんな。
――たとえば、そこでふんぞり返ってる偉そうなウチワ馬鹿とかさ!」
「余を指すに適当ではない呼称は見逃してやるとして、
いったいなんの話だ?」
「なんの話って――アンタが遠征軍の指揮を執りなさいって話に決まってるでしょ!」
「はあ? 何を言っているのだ貴様は。
もはや余が手を貸してやることはない。
約定は果たしてやったではないか、劉備よ」
「へ?」
「貴様を望み通り皇帝にしてやった。
余は約定を果たしたのだ。
これ以上、貴様ら凡愚どもに付き合ってやる義理はない」
「し、諸葛亮……アンタ……」
「余は草廬へ帰る。
余の貴重な頭脳を貴様らのために消費させてやるのは無駄だからな」
「……ああ、そう。
アンタのこと、ちょっとは認めてたんだけどね……。
いいわ。アンタの力は借りない。
今までご苦労さん。草廬でもどこでも行っちまいなさいよ!!」
「無論だ。貴様の赦しがいることか?
行くぞ、黄月英。馬謖」
「はいです」
「ええ、御主人様」
「と――止めなくてよろしいのですか?」
「止めて止まるようなタマじゃないわよ! もう知らないわあんなヤツ!!
ほら劉備! しゃんとしなさいよ! 遠征軍の編成を考えるわよ!」
「………………亮さん」
~~~成都 郊外~~~
「………………」
「何か言いたそうだな、黄月英。
名残が惜しいとでも言いたいのか?」
「……私は御主人様に従うだけです」
「クックックッ……。
人形のように無機質な貴様も、だいぶあの愚者どもに感化されたようだな」
「……それを言うなら御主人様の方こそです」
「なんだと?」
「昔は従者にいちいちそんなことを聞く人じゃなかったです」
「…………下らぬ」
「そ、そんなことよりあのー。
な、なぜかうちの兄貴がついてきちゃってるんですけど……」
「………………」
「きっと馬良はついてくれば働かなくてもいいかもと考えてるです」
「馬鹿な。ついてきたからにはタダ飯は食わせぬぞ。働け馬良」
「………………」
「あ……帰ってった……」
「入れ替わりに誰か来るです。殺すですか?」
「し、諸葛亮殿! はあっ、はあっ……。
ゴホッ! ゲホッ! ゴホッ!!」
「殺すまでもなさそうです」
「ま、待ってくれ諸葛亮殿。ワシの……ワシの頼みを聞いてくれぜよ」
「断る」
「ワシは……もう戦えん。
口では強がりを言ったが、ワシの身体はもう従軍には堪えられんぜよ」
「断ると言った」
「どうかワシの代わりに軍師を務めてくれ!
殿を、陛下をこれまで通り助けてくれんか……」
「…………貴様は龐統になりたかっただけではないのか?」
「え……?」
「益州で不遇をかこち、才能を腐らせていた貴様は、龐統がうらやましかった。
仕えるべき主君を持ち、信頼を受け、才能を存分に発揮していた龐統が」
「………………」
「その龐統が目の前で死に、後釜になれる機会が転がってきた。
貴様は龐統に成り代わった。
そしていま己が死に瀕し、龐統の役目を余にやらせようとしている。
下らぬ。余は龐統ごときの代わりなど死んでも御免だ」
「…………ああ、そうぜよ。ワシは龐統がうらやましかった。
龐統になりたかった。否定はせん。
だが、それだけじゃないぜよ。
龐統と同じようにワシは、殿が好きになったんじゃ。
殿のために戦いたい。殿の力になりたいんじゃ」
「ほう。龐統ではなく法正の代わりをしろと言うのか。ますます御免蒙る」
「理由はなんでもいい!
どうか、どうかもう一度、殿のために……ゴホッ! ゲハアッ!!」
「気絶したです。とどめ刺すですか?」
「捨て置け。
行くぞ、黄月英。馬謖」
「………………やっぱり変わったです。
法正にたくさんしゃべったです」
「だからどうした? 傷をえぐってやっただけだ」
「お前さっきから御主人様に対して生意気だぞ」
「馬謖は黙るです」
「うるさい。死ね。不満があるなら消えろ」
「消えないです。従者はついていくだけです」
「好きにしろ」
~~~~~~~~~
かくして伏龍は劉備のもとを去った。
残された劉備、張飛は義兄弟の仇討ちを新たに願う。
だが立ち上がったばかりの蜀漢の行く手には暗雲が待ち構えていた。
次回 〇八一 次代の風
 




