第九話 嘘の終わり、本当の恋
運命の日曜日。
真治は美咲に指定された場所へ、
約束の時間の二十分以上前に到着していた。
そこはかつて結婚前に美咲と何度も訪れ、
そして最近では「リリさん」とも訪れた思い出の海岸だった。
冷たい潮風に吹かれながら、
真治は胃が千切れるような緊張に耐えていた。
美咲から「次の日曜日に返事をする」
と言われてからの数日間、
彼は生殺しの時間を過ごしてきたからだ。
今日ここで、美咲から離婚の承諾を得る。
そして妻との関係に区切りをつけた上で、
晴れてリリさんのもとへ向かい、
新しい人生を歩み出すのだ
――そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、
胸の奥には重い罪悪感がのしかかってきた。
「……真治さん」
背後から、聞き覚えのある声が届いた。
真治は弾かれたように振り向く。
そこに立っていたのは、妻の美咲だった。
すっぴんに近いナチュラルメイクに、
シンプルなニットとジーンズ。
潮風になびく黒髪。
「……美咲」
真治はゴクリと唾を飲み込み、美咲を見つめた。
今日、呼び出されたこの場所で、
妻からどんな宣告や罵声を浴びせられようと
受け止める覚悟だった。
「……指定された場所に来たよ。
僕は……君の返事を聞く覚悟はできている」
しかし美咲は、夫の悲壮感漂う表情を前にして、
怒るでも泣くでもなく、
どこか楽しむような笑みを浮かべて
一歩ずつ歩み寄ってくる。
「ふふ、覚悟ねぇ。
……ねえ真治。
あなたは私と離婚して、
あの『リリさん』とやり直すつもりなのよね?」
「……うん。勝手なのは分かってる。
でも、僕は彼女を……」
真治が苦しげに言葉を返そうとした、その時だった。
美咲は肩にかけたトートバッグから、ゆっくりと「それ」を取り出した。
鮮やかな金髪のロングウィッグ。
そして、あの夜、真治が心を奪われた胸元の開いた派手なドレス。
「……え?」
真治の思考がピタリと停止した。
なぜ、美咲がそれを持っているのか。
なぜ、リリさんしか持っていないはずの、
あの派手な衣装と金髪が、妻のバッグから出てくるのか。
目の前の光景を脳が拒絶し、言葉を失う真治の前で、
美咲はさらにバッグの中に手を入れ、
小さなジュエリーケースを取り出した。
数日前、真治が「リリさん」に愛を誓って手渡した、
あのプラチナの指輪だ。
それをパチンと開けて真治に見せると、
美咲は自分の左手をそっと差し出した。
その薬指には、数年前に真治が「美咲」に贈った、
結婚指輪が輝いている。
並べられた、二つの指輪。
「……気づかなかったの?
どんなに化粧を変えても、髪型を変えても……
あなたがリリさんに贈った指輪は、
私に贈った指輪と驚くほどそっくりだったわよ」
「え……、……!?」
点と線が一瞬で繋がり、真治の頭の中で爆音を立てて弾けた。
あの夜の香り、デジャブのような仕草。
ダブル・ディナーでの奇跡的な入れ違い。
そして何より、
「リリさんといると、美咲といる時と同じくらい胸が苦しくなる」
と感じていた理由。
すべては当たり前だったのだ。
自分は別の女性に惹かれていたわけではない。
自分が恋に狂い、
妻を捨ててまで手に入れようとしていた「浮気相手」は、
最初から自分自身の妻だったのだから。
「浮気相手は……妻の、わたし」
美咲は静かに、けれど決定的な言葉を突きつけた。
「う、嘘だ……そんな……だって、リリさんは……僕の妻は……」
真治の膝が、がくがくと震え始める。
自分のあまりの愚かさ、浅はかさ、
そして妻の手の上で完璧に踊らされていたという事実が、
怒涛の津波となって押し寄せてきた。
自分は妻を裏切る罪悪感に苛まれながら、
裏切っている当の妻本人に「君と同じくらい愛おしい」
などと語っていたのだ。
これ以上の滑稽がこの世にあるだろうか。
「僕……僕は……何を……っ!」
真治は顔を蒼白にし、そのまま砂浜にドサリと崩れ落ちた。
膝をつき、砂まみれになりながら両手で頭を抱える夫を、
美咲は静かに見下ろす。
その瞳には、嘘を完璧に暴いた爽快感と同時に、
ここまで自分に愚直で、
どこまでも「自分」という存在に引き寄せられてしまった
情けない夫に対する、諦めにも似た深い愛おしさが宿っていた。
「…私と離婚してやり直したいって言ったわよね、真治?」
美咲の低く静かな声が、崩れ落ちた真治の頭上に降り注ぐ。
砂浜で震える夫を見つめながら、
美咲は次のステップ
――この愚かな夫をどう懲らしめ、どう料理してやるか
を静かに考え始めていた。




