第八話 夫の告白
その日の夜、自宅のリビングには、息が詰まるような
重苦しい沈黙が満ちていた。
帰宅した真治の様子は、玄関のドアが開いた瞬間から
明らかに異常だった。
靴を揃える手はかすかに震え、視線は泳ぎ、
妻である美咲と目を合わせようとしない。
リリ――すなわち美咲本人にあのプラチナの指輪を渡し、
離婚の決意を語ったその足で帰ってきたのだから、
それも当然だった。
美咲は、そんな夫の目に見える動揺をすべて見抜きながらも、
いつも通りの穏やかな妻として夕食の準備を進めていた。
テーブルに並べられた料理は、真治の好きな煮物と味噌汁。
だが、向かいに座った真治は箸を手に取ったものの、
一口も付けないまま、ただ汁物の湯気をじっと見つめている。
「真治? ご飯、口に合わない?」
美咲が尋ねると、真治は弾かれたように肩を跳ねさせた。
「あ、いや……ごめん。ちょっと、今日はお腹が空いてなくて……」
言葉を濁し、箸を置く。
その額には、エアコンの効いた室内であるにもかかわらず、
うっすらと冷や汗が浮かんでいた。
美咲は「そう」とだけ返し、自分の箸を静かに進める。
夫の喉を料理が通らない理由は、痛いほど分かっていた。
今、彼の頭の中は「妻にどうやって離婚を切り出すか」
ということでいっぱいなのだ。
何年間も共に暮らしてきた妻を捨て、
出会ったばかりの夜の女性を選ぶ。
その背徳感と身勝手さに、彼なりの罪悪感が
押し潰されそうになっているのだろう。
食事を終え、美咲が食器を下げてキッチンで
洗い物を始めたときだった。
背後で、カチャリと椅子が引かれる音がした。
「……美咲」
ぽつりと、掠れた声が響く。
美咲が手を止め、ゆっくりと振り向くと、
真治はリビングのソファに浅く腰掛け、
膝の上で両拳を強く握りしめていた。
「少し……大事な話があるんだ。そこに座ってくれないか」
ついに、その時が来た。
美咲は水道の蛇口を締め、タオルで丁寧に手を拭くと、
静かに向かいの椅子に腰を下ろした。
自分の胸の奥が、恐ろしいほど冷たく冴え渡っていくのを感じていた。
「……急で、本当に申し訳ない。
勝手なのは痛いほど分かっているんだ」
真治は深く頭を下げたまま、絞り出すような声で言葉を続けた。
ポツポツと畳の上に視線を落としながら、逃げるように言葉を紡ぐ。
「好きな人が、できたんだ。……僕と、離婚してほしい」
妻として、これ以上ない衝撃的な一言。
しかし、美咲の心には動揺の波一つ立たなかった。
数時間前に「リリさん」として彼から告げられた言葉の、
裏返しのセリフがそのまま返ってきただけだったからだ。
美咲は悲鳴を上げることも、
取り乱して夫を責め立てることもせず、
ただ静かに目の前の男を見つめた。
その拍子抜けするほどの静寂に、
真治はかえって居心地の悪さを深めたようだった。
彼はおそらく、泣き叫ばれたり、怒鳴られたりすることを
覚悟していたのだろう。
その無言の圧迫感に耐えかねたように、
おずおずと顔を上げた。
「……その人のこと、そんなに好きなの?」
美咲の問いかけは、静かで、どこか遠い場所から
投げかけられたように淡々と響いた。
真治は苦痛に顔を歪め、縋るような目で美咲を見つめ返す。
「…うん。本気なんだ。
この前、君にも話した “リリさん” っていう人なんだ…」
妻の前で、堂々と“別の女性”の名前を口にする夫。
しかも、その女性に本気だと言い切った。
美咲は胸の奥で、乾いた笑いがひとつ零れた。
――この前、君にも話した人
――リリ
――その“人”は、他でもない自分
真治は、妻に隠れて妻に恋している。
その事実があまりにも滑稽で、そして少しだけ痛かった。
目の前の夫は、美咲ではなく“リリ”に向けて離婚を願い出ている。
その矛盾に気づいていないのは、世界でただ一人、真治だけだった。
「どうして? 私じゃ、ダメだったの?」
その真っ直ぐな追及に、真治は言葉を詰まらせた。
怒られるよりも、静かな理由の追及の方が、
彼の薄っぺらい誠実さを鋭く刺す。
真治は頭を抱え、自分でもうまく整理のついていない
胸の内をぽつり、ぽつりと吐露し始めた。
「美咲が嫌いになったわけじゃないんだ…
むしろ、君には感謝しか…
ううん、申し訳なさしかない。
君は何も悪くないんだ。
でも…彼女と一緒にいると、
なんだか自分が自分でいられなくなるんだよ」
真治の言葉に、美咲は黙って耳を傾ける。
「彼女と過ごしていると…
なぜか、君と昔付き合っていた頃と同じくらい、
胸が締め付けられるんだ。
懐かしくて、愛おしくて…
まるで、僕がずっと探していたものを、
彼女が持っているような気がして…
どうしても手放せないんだよ」
妻を裏切り、捨てようとしている最中の夫が口にしたのは、
皮肉にも「妻との思い出」だった。
真治自身は、リリに惹かれている理由が
「美咲の面影」だとは微塵も気づいていない。
けれど、彼の潜在意識はどこまでも美咲を探し求め、
美咲との愛の記憶を追いかけていたのだ。
――あなた、本当にバカね。
美咲の胸の奥で、深い哀しみと呆れ、
そしてほんの少しの愛おしさがぐちゃぐちゃに混ざり合う。
自分を捨てようとしている目の前の男は、
結局のところ、どこまでも「自分」に恋をしているのだから。
美咲は深く息を吐き出すと、静かに立ち上がった。
「分かったわ」
「……え?」
呆然とする真治を見下ろし、美咲は表情を崩さずに告げた。
「返事は、次の日曜日にするわ。
それまで、お互いに少し頭を冷やしましょう」
「美咲、僕は……」
「これ以上は、日曜日にね」
美咲はそれだけ言い残すと、ゆっくりと寝室へ向かった。
扉を閉めた瞬間、背中で真治が大きく息を吐き出し、
ソファに崩れ落ちる気配がした。
修羅場になる覚悟をしていた真治をあえて生殺しの状態にし、
決着の「日曜日」へと追い込む。
妻としての最後の温情と、愚かな夫へのささやかな罰。
美咲の心の中で、シナリオの最終章が静かに動き始めていた。




