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第七話 二つの指輪

 真治の中で「妻への罪悪感」と「リリへの執着」が

限界に達していることを、

美咲は彼と過ごすわずかな時間から

痛いほど感じ取っていた。

 自宅で見せる夫の視線は、どこか遠くを泳いでいる。

美咲と目を合わせようとせず、

会話の端々に小さな後ろめたいが生まれる。

一方で、「リリ」として会うときの彼は、

まるで暗闇で何かにすがるような

悲壮感すら漂う情熱を見せるのだ。


――夫が葛藤している

妻である自分と、浮気相手である自分との間で。


 その愚かさが哀しくもあり、同時に、

男としての身勝手さに

どこか冷ややかな思いを抱く自分もいた。

(本当に愚かな人…。どちらも『私』だということにも気づかずに)


 そんな日が続いたある日、真治からリリ宛てに

「どうしても渡したいものがあるんだ。

今夜二人きりで話したい」

と切羽詰まった連絡が入る。


 指定された静かなバー

真治はいつも以上に固い表情で座っていた。

テーブルの上に置かれたグラスの水滴を指先で

何度も弄び、意を決したように深呼吸をすると、

スーツの胸ポケットから小さなジュエリーケースを取り出す。


「リリさん。……これを、受け取ってほしい」

パチン、と静かな部屋に小さな音が響き、

パカッと開いた箱の中にはプラチナのシンプルなリングが収まっていた。

一粒の小さなダイヤが、薄暗い店内の照明を受けて(はかな)げに輝いている。


 美咲はそのデザインを見た瞬間、一瞬だけ呼吸が止まりそうになった。

――ああ、やっぱり。


 それは、かつて真治が「美咲」に贈った婚約指輪と、

驚くほどよく似たデザインだったのだ。

 真治は「リリ」という派手で刺激的な夜の女性に

狂おしい恋をしているつもりでいる。

けれど、彼が本気で女性に愛を捧げようとするとき、

無意識に選んでしまうのはどこまでも「美咲」を想起させる

清楚でクラシカルなデザインだった。

 浮気をしている最中ですら、彼の美的感覚や愛の基準は、

過去に自分(美咲)と作り上げた価値観から抜け出せていない。

その滑稽さと皮肉さに、美咲の胸の奥で冷たい笑いがこみ上げる。

 真治は真剣な眼差しで、リリ(美咲)の手をそっと両手で握りしめた。

その手は少し震えており、彼がどれほどの覚悟を持って

ここに来たかが伝わってくる。


「僕、妻とは別れるつもりだ。

……君と出会って、自分が本当に誰を必要なのか分かったんだ。

もう、自分に嘘はつけない。

本気で、君と一生を共にしたい」


 真治の言葉は力強く、まっすぐだった。

それが「夫」としてあまりにも誠実なトーンで語られるからこそ、

美咲の胸には鋭い刃物で刺されたような痛みが走る。


自分 (リリ)を選んでくれた嬉しさ。

自分(妻)を裏切られた絶望。


 相反する感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、美咲の脳裏を駆け巡る。

目の前にいる男は今、まさに自分(妻)を捨てる決意を、

自分(浮気相手)に向かってこれ以上ない情熱で告げているのだ。


――あなたはずっと、私を見ていたの?

――それとも、私を捨てて『新しい私』を選んだつもりなの?


喉の奥が引きつりそうになるのを、

美咲はリリとしての妖艶な微笑みで必死に覆い隠した。


「…奥さんを捨てるなんて、酷い人ね。後悔しないの?」


 わざと少し意地悪く、突き放すように囁くと、

真治は苦しげに眉をひそめ、握る手にぎゅっと力を込めた。


「酷い奴だと分かってる。自分でも最低だと思う。

でも……君と一緒にいると、

なぜか胸が苦しくなるくらい愛おしいんだ。

まるで、昔忘れてきた大切なものを

もう一度見つけたような…

…そんな気がするんだよ。

この気持ちをごまかしたまま、妻と暮らすことはできない」


 その真摯な瞳に宿っているのは、間違いなく純粋な「愛」だった。

だが、その愛の向け先があまりにも歪んでいて、悲しい。


 美咲はそっと指輪ケースを受け取った。

ひんやりとしたプラチナの質感が、指先に重くのしかかる。


「…ありがとう。大切にするわ」


 そう答えたリリの表情を、真治は「喜びの微笑み」として

受け取ったようだった。

重荷を下ろしたようにホッと胸を撫でおろす夫の姿を見つめながら、

美咲は心の中で静かに誓っていた。


 決着の時は、もうすぐそこまで来ている。



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