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第六話 疑惑の香り

「ふぅ……」

 真治がシャワーを浴びに浴室へ入ったのを見計らい、

美咲はリビングのソファに深く身体を沈めた。

 昨夜のダブル・ディナー。

二つの個室を往復し、ウィッグを付け外し、メイクを直し、

声のトーンを変える――まさに命がけのミッションだった。

どうにか最後までバレずに切り抜けたものの、

精神的な疲労感はピークに達していた。

(もう二度とやりたくない……)

美咲が胸を撫で下ろしていると、

髪をタオルで拭きながら真治が浴室から出てきた。

彼はどこか浮かない顔をしていて、

美咲のとなりに腰を下ろすと、小さく息を吐いた。

「美咲」

「ん? どうしたの?」

努めて自然な笑みを浮かべ、美咲は夫を振り返る。

真治は美咲の顔をじっと見つめ、それからふと、

鼻をかすかに鳴らした。

美咲の首元に顔を近づけてくる。

「…? 真治?」

「あ、いや……」

真治はハッとしたように顔を遠ざけたが、

その表情には明らかな動揺が走っていた。

「…なあ、美咲。それ、香水変えた?」

美咲の心臓がどきりと跳ねた。

昨夜、リリとして真治と会ったときにつけていた香水。

帰宅後に念入りにシャワーを浴びて洗い流したはずだった

が、ほんのわずかに、その甘い香りが肌に残っていたらしい。

「あ……これ? 友達に試供品をもらってね、

ちょっと試してみたの。変だった?」

「ううん、変じゃない。すごく……いい匂いだけど」

真治は視線を彷徨わせながら、どこか気まずそうに呟いた。


――いい匂いなのは当たり前だ。

だって昨夜、あなたが『リリさんって、すごくいい匂いがするね』

って鼻の下を伸ばしていた香水なのだから。

 美咲は内心で冷ややかなツッコミを入れつつ、

真治の様子を伺った。


 真治の脳内は、今まさに大混乱に陥っていた。

昨夜、妻の美咲と、憧れの リリ 。

二人を同時に同じ店に呼び出すという

奇策を思いついた真治だったが、

結局、二人を直接会わせることはできなかった。

 リリは「急にお腹が痛くなった」

、と言ってトイレにこもったきりそのまま帰ったらしい。


 結局、二人を引き合わせることは叶わなかった。

だが、昨夜の二人との会話、

そして今、目の前の妻から香るリリと同じ匂い――。

(なんなんだ、この感覚は…)


 真治は頭を抱えたくなった。

美咲を見ていると、ふとした仕草や言葉遣いに

リリの面影が重なる。

逆に、リリと話していると、どこか美咲といるときのような

安心感を覚えてしまう。

 自分は、リリの中に妻を見ているのか?

それとも、妻の中にリリを求めているのか?

 どちらにせよ、自分は最低だ。

妻という存在がありながらリリに惹かれ、

だがリリと向き合おうとすると妻の顔が浮かぶ。

 二人の女性の間で揺れているつもりだったが、

真治の心の中で、二人の存在は怪しく重なり合い、

収集がつかなくなっていた。


「真治? どうかしたの? 難しい顔をして」

美咲が覗き込んでくる。

そのまっすぐな瞳に見つめられると、

真治は胸が締め付けられるような罪悪感に襲われた。


「…なんでもないよ。ちょっと仕事のことで考えごと」

真治は無理に笑顔を作り、立ち上がった。

「今日、ちょっと帰りが遅くなるかも」

「そう? わかった。気をつけてね」


 会社へ向かう準備を始める真治の背中を、美咲は見つめた。

(真治…あなた、そろそろ限界ね)


 夫の葛藤は、妻である美咲には痛いほど伝わっていた。

浮気をされた腹立たしさはもちろんある。

けれど、自分 (リリ)を選びきれず、

自分(美咲)への罪悪感に苛まれている夫の姿は、

どこか滑稽で、そして少しだけ愛おしくもあった。


 美咲は静かに、次の決着の時を待つことにした。


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