第五話 ダブル・ディナー
最近の真治は、どこか美咲の顔を探るような目をしていた。
まるで、彼女の中に“別の誰か”を
見つけようとしているかのように。
真治は美咲の仕草を観察するようになった。
髪を耳にかける癖。
グラスを持つ指の角度。
笑うときの目線の動き。
どれも “リリとしての美咲” が無意識に
やってしまう癖だった。
――気づかれたのかもしれない。
美咲は思った
「来週の金曜日、リリさんという女性を呼んであるんだ。
三人で食事をしよう」
真治の言葉に、美咲の背筋は凍りついた。
彼は賭けに出たのだ。
美咲とリリを物理的に対面させる。
もし一人が現れなければ、
あるいは二人があまりに似ていれば、正体は暴かれる。
今日子に相談すると、彼女は
「私がリリのフリをしてあげようか?」と提案してくれた。
しかし、美咲は首を振った。
「ダメよ、今日子。
真治さんはリリの『肌の質感』も『声の響き』も
知っている。偽物じゃ、彼を騙せない」
真治がレストラン『深淵』で『澪』と『朧』という
二つの個室を押さえたと聞いたとき、 私は正直、
意味がわからなかった。
どちらも落ち着いた名前で、店の雰囲気に合っている。
けれど、会食なのに二部屋?
私と真治と、紹介したいという女性。
三人なら一部屋で十分だ。
そう言いかけた私に、真治は少しだけ目をそらした。
「…念のためだよ」
その言い方が妙に引っかかった。
念のため? 何を?
真治は続けた。
「美咲をいきなり知らない女性と同じ席に座らせるのは、
俺としても気が引けるんだ。
まずは俺が向こうの部屋で話してくる。
それから美咲を呼ぶよ」
その声音は、どこか慎重すぎた。
まるで、私を守ろうとしているような、
あるいは――私を試そうとしているような。
私は笑ってみせたけれど、胸の奥がざわついた。
真治は、何を恐れているのだろう。
何を確かめようとしているのだろう。
『澪』に私を置き、『朧』にその女性を迎える。
そして、真治がタイミングを見て私を呼ぶ。
その段取りを聞いた瞬間、 私は悟った。
――真治は、私とその女性を“いきなり対面させたくない”のだ。
理由は二つ。
私を傷つけたくないから。
そして、彼自身が確信を得たいから。
真治のその慎重さが、 かえって私の心を締めつけた。
【決戦:19時00分】
レストラン「深淵」
「美咲、君は『澪』(個室)で待っていて。
僕は入り口でリリさんを迎えてから、
『朧』(個室)で少し話をして、
それから彼女を連れて君のところへ行くよ」
真治は、美咲を「待たせる側」に固定することで、
彼女がリリに着替える隙を与えないつもりだった。
『澪』に通された私は、
落ち着かないまま真治の背中を見送った。
彼は『朧』に向かうと言った。
紹介したい女性――リリさんを迎えに行くためだと。
扉が閉まった瞬間、私は立ち上がった。
『澪』の奥にある小さな化粧室で、急いで夜の顔に変わる。
髪をほどき、濃い口紅を引き、リリの声を喉の奥に沈める。
鼓動が早い。
真治が『朧』に入ってしまう前に、
“リリ”としてそこへ向かわなければならない。
【19時15分:『朧』の部屋】
少し遅れて入室した私を見て、真治はわずかに眉を上げた。
その目が怖かった。
気づかれたのではなく、
“確かめようとしている”目だったから。
「遅くなって、ごめんなさい」
リリの声でそう言うと、
真治は短く「いや」と返した。
「今来たところだ。…リリ、今日はこれから僕の妻に会ってほしい」
真治の目は、リリの正体を暴こうと血走っている。
彼はリリの手を握り、指先のささくれ、
香水の残り香、すべてを検品するように確かめる。
そして――
真治は私を連れて『澪』へ向かった。
妻の待つ部屋へ。
その言葉が胸に刺さる。
『澪』の前まで来たとき、
私は腹を押さえた。
「……ごめん。急に、お腹が……」
真治が驚いて私を覗き込む。
その視線が怖くて、
私は扉の横にある個室トイレへ駆け込んだ。
鍵を閉め、息を整えながら夜の顔を落とす。
鏡の前で、リリの影を急いで消した。
着替え終えた私は、
真治が澪に入る前に廊下へ出た。
足音を殺して、澪の扉をそっと開ける。
昼の私、美咲として席に戻る。
【19時30分:『澪』の部屋】
ほどなくして、扉が開く音がした。
真治が入ってくる。
「リリさんは?」
美咲は何でもないふうに尋ねた。
真治は少し息を整えてから言った。
「体調崩して……帰られた」
美咲は静かに頷いた。
胸の奥で、リリの影がゆっくり沈んでいった。
真治は崩れ落ちるように座った。
『澪』と『朧』を往復し、リリの存在を確認し、戻れば美咲がいる。
物理的には不可能なはずなのに、二人は確かに「存在した」。
美咲は、テーブルの下で震える足を隠しながら、夫に微笑みかけた。
(真治さん、残念だったわね。
私は今、あなたの目の前で、あなたを裏切っているのよ)
【21時:決戦後】
食事を終え、帰宅するタクシーの中。
真治は美咲の肩に頭を預け、疲れ果てたように眠っている。
美咲は窓の外を見つめながら、自分の心が摩耗していくのを感じていた。
夫の疑念を晴らすために、自分を二つに引き裂き、時間と空間を騙し抜いた。
「夫の浮気相手は、私」。
そのバカバカしくも絶対にバレてはいけない秘密を守るため、
彼女は己の演技力の限界へと挑もうとしていた。




