第四話 鏡の中の告白
遮光カーテンが引かれたホテルの室内は、外界の時間を遮断した深い闇に包まれ
ていた。 間接照明の淡いオレンジ色が、不規則に並んだ鏡の壁に反射し、
美咲の姿を幾重にも写し出している。
ボルドーのドレス、濃いメイク、偽りの名前。
鏡の中にいる無数の「リリ」が、本物の自分を見失わせようとしているかのようだった。
「…リリ、どうしたの? 震えてるよ」
背後から真治が近づき、彼女の肩に手を置いた。その手は驚くほど熱い。
家で、寝ぼけ眼で触れ合う時の温もりとは違う。それは獲物を追い詰める捕食者
のような、ひりついた熱情だった。
「緊張、してるのかも」
リリの声で答える。真治は彼女の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「この香り……昨日から、ずっと忘れられなかった」
その香水は、今日子のスナックで「男を落とすならこれよ」と手渡された、
重厚なムスクの香りだ。
美咲としての彼女が愛用している石鹸のような清潔な香りとは、対極にある。
真治は彼女をゆっくりとベッドへ促し、その上に覆い被さった。
唇が重なる。 美咲は目を見開いた。真治のキスは、かつてないほど強引で、
それでいてひどく丁寧だった。
(私、こんな風にキスされたこと、あったっけ……)
七年の歳月が、彼から奪い去ったはずの欲望。それが今、別人になりすました
自分の前で、鮮やかに蘇っている。皮肉な現実に、美咲の目から涙がこぼれそうに
なる。
「…真治さん、奥さんのこと、愛してるんでしょう?」
行為の最中、美咲はあえてその言葉をぶつけた。確認せずにはいられなかった。
真治の手が、一瞬止まる。彼はリリの瞳をじっと見つめ、
それから独り言のように、絞り出すような声で言った。
「愛してるよ。美咲は、僕の人生そのものだ。彼女がいなくなったら、
僕は生きていけない」
美咲の胸が、歓喜で震える。 だが、真治の告白には続きがあった。
「でも…彼女の前での僕は、いつも『正しい夫』でいなきゃいけないんだ。
妻は純粋で、優しすぎる。僕の汚い部分や、男としての身勝手な欲望を見せたら、
彼女を壊してしまう気がして…。だから僕は、彼女の前で息を止めているような
ものなんだ」
真治はリリの髪に指を絡め、狂おしそうに囁く。
「リリ。君の前でだけ、僕は呼吸ができる。君なら、僕の醜さも、この衝動も、
全部受け止めてくれる気がするんだ」
美咲は衝撃に打たれた。 彼が浮気 (のつもり) をしているのは、美咲を
愛していないからではなかった。
むしろ、美咲を聖域に閉じ込め、崇めすぎた結果、彼は自分自身の「毒」を逃がす
場所を失っていたのだ。
鏡の中の美咲と目が合う。 そこには、夫の孤独を知り、彼を救えるのが
「偽物の自分」だけであるという事実に絶望し、同時に狂喜している一人の
女がいた。
「…いいわよ、真治さん、わたしに…」
美咲は夫を抱きしめた。 それは、妻としての包容ではなく、共犯者としての
誘惑だった。 肌と肌が触れ合う音だけが響く部屋で、美咲は自分の中の「美咲」
が死んでいくのを感じていた。
数時間後。 シャワーを浴び、先に身支度を整えた真治が、鏡の前でネクタイを
締めていた。彼は財布からあの結婚指輪を取り出し、迷いなく左手の薬指に戻す。
鏡に映る彼の顔は、もう「リリの愛人」ではなく、どこにでもいる「誠実な夫」の
顔に戻っていた。
「リリ。…また、お店に行くよ」
彼はそう言い残し、部屋を出ていった。
一人残された美咲は、彼がネクタイを締めていた鏡の前に立つ。 そこには、
メイクが落ちかけ、髪の乱れた「リリ」が立っていた。けれど、その瞳の奥には、
美咲でもリリでもない、もっと深い闇を抱えた「怪物」が宿り始めていた。
「ねえ、真治さん。…あなたは今夜、どの私を抱くの?」
彼女は、鏡の中の自分に向かって、冷たく微笑んだ。




