第三話 初めての「浮気」
それは、幸福な家庭という名の檻が、静かに軋み始めた夜のことだった。
週に三回、美咲は「残業」や「友人との食事」という嘘を吐き、
スナック『紫苑』のカウンターに立つ。
真治はそれを疑うどころか、妻の自立を喜ぶような顔で
「楽しんでおいで」
と送り出してくれる。その優しさが、今の美咲には毒のように染みた。
店に入れば、そこには決まって真治がいた。
彼はもう、同僚を連れてくることはない。ただ一人、リリを独占するために
カウンターの一番端の席に座り、彼女が他の客と笑い合うのを、嫉妬を
隠しきれない瞳で見つめている。
「リリさん、明日の午後、時間は取れないかな」
真治が、グラスの縁を指でなぞりながら切り出した。
美咲は心臓が跳ねるのを感じながら、リリの少し気怠げなトーンを保つ。
「明日の午後? どうして?」
「この店の中じゃ、いつも誰かの目がある。君と、もっと静かな場所で話し
たいんだ。…二人きりで」
それは明確な、一線を超えるための誘いだった。 美咲は知っている。
明日の午後は、二人で新しい掃除機を買いに行く約束をしていたはずだ。
真治は、妻との穏やかな休日を、リリとの密会のために投げ捨てようとしている。
「…いいわよ。どこで待っていればいい?」
翌日。美咲は午前中のうちに家事を完璧に済ませた。
真治が「急に休日出勤になった」
と苦しげな嘘を吐くのを、穏やかな微笑みで受け流して。
午後二時。美咲は街角のカフェにいた。
ベージュのニットを脱ぎ捨て、タイトなレザーのスカートと、鎖骨が大胆に
覗くブラウス。髪はハーフアップにし、大きめのサングラスで顔を隠す。
向かい側の席に座った真治は、現れたリリを見て、絶句したように息を呑んだ。
「…来てくれたんだね。私服の君も、すごく素敵だ」
彼はリリの手を取り、店を出た。向かったのは、彼らが結婚前に何度も歩いた、
海沿いの公園だった。 美咲は眩暈を覚える。夫と手を繋いで歩く。
ただそれだけのことなのに、リリとして繋がれたその手からは、かつて味わった
ことのないような熱量が伝わってきた。
「実は、ここ、昔よく来たんだ。大切な人と」
真治が、遠い目で海を見つめて言った。「大切な人」――それは間違いなく、
妻である自分(美咲)のことだ。
「その人とは、どうなったの?」
リリとして、残酷な質問を投げかける。真治は少し顔を伏せ、寂しげに笑った。
「今も一緒にいるよ。幸せだと思っている。……でも、彼女といる時の自分は、
どこか完成されすぎているんだ。リリさんといる時のように、心がざわついたりしない」
その言葉は、美咲の心を真っ二つに引き裂いた。
妻としての自分は「完成された、動きのない静止画」であり、リリとしての自分は
「生きた、揺らぎのある女」なのだ。
夕暮れが迫り、二人の影が長く伸びる。真治がリリの肩を抱き寄せた。
「ねえ、リリ。今日は帰りたくないんだ。…どこか、もっと静かなところへ行かないか」
ホテルへ行こう。彼は口に出さずとも、その瞳でそう訴えていた。
美咲は一瞬、すべてを打ち明けて彼の頬を打ちたい衝動に駆られた。
けれど、彼が今抱き寄せているリリの肩が、微かに震えているのを見て、
彼女は確信してしまう。
私は、私を裏切ることでしか、この男の情熱を取り戻せないのだと。
「…いいわよ、真治さん。あなたの好きなところへ連れて行って」
美咲は、夫にエスコートされながら、ラブホテルの煌びやかなネオンの中へと
足を踏み入れた。 背負っているのは、妻としての絶望と、女としての狂おしい
までの悦び。
チェックインのカウンターで、真治が自分の財布からクレジットカードを
取り出す。
その財布の奥には、今もあの結婚指輪が隠されていることを、美咲だけが知っていた。




