第二話 指輪を隠す夜
昨夜の出来事は、すべて悪い夢だったのではないか。
そう願いながら、美咲は朝の光の中で真治の寝顔を見つめていた。
穏やかな寝息、自分を「美咲」と呼ぶ優しい声。彼はいつも通り、彼女を愛する
夫としてそこにいる。
しかし、洗濯機に放り込むために預かった彼のジャケットを手に取った瞬間、
指先に硬い感触が触れた。内ポケット。
そこには、昨日「リリ」として彼に手渡した、スナック『紫苑』の名刺が入って
いた。
丁寧に、折れ曲がらないように差し込まれたその紙片が、夫の心に
「別の女」が入り込んだ証拠だった。
「……おはよう、美咲」
真治が目を覚まし、眠たげに微笑む。美咲は咄嗟に名刺をポケットに戻し、
何事もなかったように「おはよう」と返した。
朝食のテーブル。真治はいつも通り、美咲の作った出し巻き卵を
「美味しいね」と言って食べる。けれど、彼のスマートフォンが卓上で小さく
震えた瞬間、彼は明らかに動揺した。
画面には、リリのアカウントから送られた『今夜も、お店で待ってるね』
という通知が出ているはずだ。 真治はさりげなくスマホを裏返し、
コーヒーを啜る。その横顔には、美咲が今まで見たことのない、秘密を抱えた
男の翳が差していた。
「今夜、また少し遅くなるかもしれない。急なプロジェクトが入ってさ」
真っ直ぐに自分を見る彼の瞳に、美咲は戦慄する。
嘘だ。プロジェクトなんてない。彼は「リリ」に会いに行くのだ。
自分という妻を、家という静寂の中に置き去りにして。
「わかったわ。無理しないでね、真治さん」
美咲は微笑んで彼を送り出す。ドアが閉まった瞬間、彼女は膝から崩れ落ちた。
彼が恋をしたのは「リリ」だ.。
しかし、彼が今、嘘をついている相手は「美咲」だ。
私は彼に愛され、彼に裏切られている。
夜、スナック『紫苑』の喧騒の中に、リリは立っていた。
ボルドーのドレスを纏い、髪を掻き揚げ、昨夜よりも少しだけ扇情的な香水を纏う。
真治は、開店と同時に現れた。同僚の姿はなく、一人だった。
「リリさん」
カウンター越しに彼が呼びかける声は、熱っぽく震えている。美咲は動揺を隠し、
リリとしての余裕を演じる。
「あら、真治さん。昨日あんなに飲んだのに、今日も?」
「どうしても、君に会いたくて」
真治はリリの指先に触れようと手を伸ばす。
その瞬間、美咲の背筋に冷たい汗が流れた。
(指輪……!)
ボブヘアのウィッグや濃いメイクにばかり気を取られ、左手の薬指に光る
結婚指輪を外すのを忘れていた。美咲は咄嗟に左手をカウンターの下に隠し、
右手に持ったグラスを彼の前に置いた。
「そんなに急がないで。夜は長いんだから」
危うい沈黙を埋めるように、美咲は軽薄な笑い声を上げる。
真治は少し残念そうに笑い、自分のカクテルを一口飲んだ。そして、彼は
何かに気づいたように、自分の左手を見つめた。
美咲は息を呑んだ。
真治は、自分の左手に手をかけた。そして、美咲との
愛の証である銀色のリングを、ゆっくりと、ためらうように引き抜いたのだ。
彼はそれを、財布のカード入れの奥深く、外からは見えない場所へと
押し込んだ。
「……どうかした?」 リリとして尋ねる美咲の声が、微かに震える。
「いや……。少し、窮屈だったから」
真治はそう言って、指輪を外したばかりの指で、リリの手を強く握った。
家では決して見せない、野生的な、奪う者の眼差し。 美咲は悟った。
真治は、リリと向き合うために、美咲を捨てたのだ。たとえそれが、一時的な
現実逃避であったとしても。
深夜、先に家に戻った美咲は、暗い寝室で真治の帰りを待っていた。
玄関が開く音がする。洗面所で手を洗う音。それから、寝室に入ってきた真治は、
眠っているふりをする美咲の背中に、静かに近づいた。
彼の指先が、美咲の頬をなぞる。
そこにはもう、指輪が戻っていた。ひんやりとした金属の感触が、彼女の肌を打つ。
(さっき、その指で私を求めたのに……)
彼が財布の奥から指輪を取り出し、再び「夫」の顔に戻る瞬間を想像して、
美咲は暗闇の中で唇を噛み締めた。
夫の浮気相手は、私。 けれど、夫が今、心から求めているのは、
ここにはいない「リリ」なのだ。
奇妙な均衡は、確実に崩れ始めていた。




