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第一話 錯覚の恋

「おはよう、美咲」

真治はキッチンに立つ美咲の背中に、自然に腕を回して軽くハグをした。

「おはよう。今日は少し肌寒いから、カフェオレにしたよ」

「助かる。やっぱり美咲の淹れるコーヒーが一番落ち着くな」

穏やかで、幸福な朝。真治は優しく、美咲も彼を深く愛している。けれど、美咲は

時折、この完璧な平穏が「額縁の中の絵」のように、完成されすぎて動きがない

ことに、言いようのない息苦しさを感じていた。



 昼下り、携帯が鳴った

「ねえ美咲、本当にごめん! 頼れるのはアンタしかいないの!」

 夜の店を切り盛りする今日子が、こんな声を出すのは珍しい。

親友の今日子からの電話は、断る隙も与えないほどの悲鳴だった。



 夜、美咲は場末のスナック『紫苑』の控室で、鏡の中の自分を呆然と

見つめていた。

「今日子、これ…さすがに無理があるって」

美咲は、胸元が大きく開いたボルドーのドレスの裾を気にしながら言った。

「何言ってるの! アンタは素材がいいんだから、これくらい化けないともったい

ないわよ」

今日子は美咲の眼鏡をひったくり、代わりにカラーコンタクトを押し込んだ。

普段のナチュラルなベージュのアイシャドウを、深いパープルとラメで塗りつぶす。


「いい、美咲。今夜のアンタは、男を狂わせる毒薬。名前は……そうね、

『リリ』。

おしとやかな ”妻・美咲” は、バックヤードに置いてきなさい」


 鏡を見た美咲は、息を呑んだ。そこにいたのは、清楚な「真治の妻」ではなく、

夜の闇に棲む、見知らぬ女だった。

今日子に強引に着せられたのは、深いスリットの入ったボルドーのドレス。

まぶたにはラメが踊り、唇は熟れた果実のような赤に染まっている。

「…誰、これ?…」

「完璧よ、美咲。今夜はアンタじゃなくて『リリ』。いい、適当に相槌打って、

お酒作ってればいいから!」


 美咲は溜息をつき、フロアへ出た。普段の自分なら絶対に交わらない、煙草と

安っぽい香水の匂いが混じり合う空間。

 接客なんてしたこともない。けれど、どこか解放感があった。美咲という役割

を脱ぎ捨て、誰でもない「リリ」として振る舞うこと。それは、穏やかだが少し

退屈だった日常に、小さな亀裂を入れるような刺激だった。


 夜が更けた頃、店のドアが開いた。

「…おい、ここ、本当に大丈夫かよ」

 聞き慣れた声に、美咲の心臓が跳ね上がった。

同僚数人と笑いながら入ってきたのは、今朝、

「今夜は仕事で遅くなるから、先に寝てていいよ」

、と優しく美咲の頬に触れながら語った夫・真治だった。


(嘘でしょ…?)

美咲は咄嗟に顔を伏せ、店の隅へ逃げようとした。しかし、今日子の容赦ない

声が響く。

「リリ!こちらのお客様、ご案内して!」


 逃げ場はなかった。美咲は覚悟を決め、低めの声で「いらっしゃいませ」と

微笑んだ。


 テーブル席で、真治は同僚の課長に勧められるままにグラスを傾けていた。

美咲は震える手で、彼の前にチャーム(おつまみ)を置く。


 目の前に座っている真治。

「あ、どうも。…リリさん、だっけ?」 真治が顔を上げた。

彼は一瞬、リリの顔を凝視した。

その瞬間、美咲は心臓が止まるかと思った。

バレる――そう思った次の瞬間、真治の口から漏れたのは、絶句に近い感嘆だった。

「……綺麗だ」

美咲は耳を疑った。真治の瞳は、美咲に対して向ける「慈しみ」ではなく、もっと

生々しく、飢えたような「熱」を帯びていた。


 彼の瞳に映っているのは「愛する妻」ではなく「初めて会う魅力的な女」への

純粋な好奇心だった。

 彼は美咲の差し出したグラスを、指が触れ合うほど近くで受け取る。

「ここで君みたいな人に会えるなんて、思わなかった」

 真治はそう言うと、美咲の瞳をじっと覗き込んだ。

家では、彼はいつも美咲の「言葉」を聞いてくれるが、こんな風に

「野生的な視線」をぶつけてくることはなかった。

家での真治は、優しくて真面目な夫だ。でも、今、目の前にいる男は違う。


 美咲は今、夫が「自分ではない女」に落ちる瞬間を “最前列で”

まざまざと見せつけられていた


 彼がタバコに火を点ける。家では美咲を気遣って決して吸わないはずの銘柄。

紫煙を吐き出す彼の横顔は、美咲が7年間守ってきた「優しい夫」の皮を脱ぎ

捨てた、一人の「男」の顔だった。 その見知らぬ顔に、美咲は激しい恐怖と、

抗いがたい高揚感を同時に覚えた。


「…真治さんは、奥様がいらっしゃるんでしょう?」

 意地悪な質問が、リリの唇から滑り落ちた。

真治は少しだけ困ったように笑い、それから遠くを見るような目で言った。


「妻は、かけがえのない人だよ。でも…君を見ていると、自分が男だってこと

を思い出して、胸が苦しくなる」


 その言葉は、美咲の心を鋭く引き裂くと同時に、甘く痺れさせた。

自分の愛する夫は、自分以外の女にこんな顔を見せるのだ。

そして、その「女」もまた、自分なのだ。



 閉店後、美咲は冷めたラテを飲んでいた。

スマホには、真治からのメッセージ。

『今仕事終わったよ。もう寝てるかな? 大好きだよ、美咲』


 美咲はそれを読み、それから鏡を取り出した。

まだ微かに残る赤いリップを指でなぞる。

彼が恋をしたのは、私。でも、私ではない「リリ」。


 奇妙で、歪な三角関係が、静かに始まろうとしていた。


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