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21 約束

 21 約束


 話は少し戻り、怪我をしたリシアが入院していたときのことである。


 医者に許可を受けてギルバードとアレクサンダーが部屋に詰めていた。


 薬を飲んだリシアは、静かに眠っていた。


 熱は下がり始めていたものの、顔色はまだ悪い。ときおり苦しそうに眉を寄せ、浅い呼吸を繰り返していた。


 その時、リシアは不思議な夢を見ていた。


 白い霧の中から、大きな魔獣が姿を現した。


 リシアをこちらの世界へ連れてきた、あの魔獣だった。


 けれど、あのときのような恐ろしさはなかった。魔獣は耳を伏せ、叱られた子どものように身を縮めている。


 やがて、恐る恐るリシアへ近づくと、大きな頭を彼女の胸元へ押しつけた。


「エリシア、ごめんね。怖がらせたね」


 魔獣の声は、見た目に似合わず幼かった。


「僕、そんなつもりじゃなかったんだ。呪いを受けて、苦しくて、怖くて……誰かに助けてほしかったんだ」


 魔獣は甘えるように、もう一度リシアへ額をすり寄せた。


「そうしたら、エリシアがいたから……僕、うれしくなって、思わず勢いよく走っていったんだ。そうしたら、エリシアまでこっちへきちゃった」


「そうだったのね」


 リシアは魔獣を責めなかった。


 怖い思いはした。何が起きたのかも分からないまま、知らない場所へ飛ばされてしまった。


 それでも、目の前の魔獣がひどく怯えていたことだけは分かった。


「ねえ、エリシア。くっついていてもいい?」


 魔獣が尋ねた。


「エリシアにくっついていたら、よくなりそうな気がするんだ」


「ええ、どうぞ。撫でたほうがいい?」


「うん。撫でて」


 リシアは大きな頭へ手を伸ばした。


 柔らかな毛を撫でると、魔獣は気持ちよさそうに目を細めた。苦しそうだった呼吸も少しずつ落ち着いていく。


「エリシア、僕、元気になってきたよ。ありがとう」


「ええ。よかったわね」


 リシアは微笑み、何度もその頭を撫でた。


 すると何故か、リシアの顔から血の気が失われていった。


 撫でていた手が力なく落ちる。


「あれ? エリシア?」


 魔獣が顔を上げた。


「エリシア、大丈夫?」


「ええ……だい、じょうぶ……」


 リシアの体が傾いた。


 魔獣は慌てて、その体を支えようとした。


「エリシア! エリシア!」


「おや、たいへん。この娘が危ないね」


 霧の向こうから、穏やかな声が聞こえた。


 姿は見えない。けれど、その声の主がそばへきた途端、魔獣は助けを求めるように鳴いた。


「お願い、エリシアを助けて。僕のせいなんだ」


「分かっているよ。ちょっと見せておくれ」


 温かな光がリシアの体を包んだ。


「お嬢さん、この子を助けてくれてありがとう。だけど、この子はあなたの魔力をもらってしまったようだね。ごめんなさいね」


「うん……いいよ」


 リシアは苦しそうに息をしながらも、そう答えた。


 魔獣は申し訳なさそうに、リシアの手へ鼻先を押しつけた。


「本当に、ごめんね」


「もう……元気になったのでしょう?」


 リシアの声は優しかった。


「うん」


「それなら、よかったわ」


 その言葉を聞き、魔獣はますますリシアから離れようとしなくなった。


「この子が、どうしてもお礼をしたいと言っているんだ」


 声の主は、困ったように笑った。


「もう少し力をつけたら、そちらへ行かせるよ。そのときは、そばに置いて、思う存分こき使ってやっておくれ」


「ふふっ。それは楽しみね。いいわよ」


 リシアが笑うと、魔獣はうれしそうに尾を振った。


「本当? 僕、エリシアのところへ行ってもいいの?」


「ええ。待っているわ」


「絶対に行くからね。今度は僕がエリシアを守るから」


 魔獣は何度も繰り返した。


「僕が守るよ。今度こそ、絶対に」


 リシアの病室では、ギルバードがベッドの脇に置かれた椅子へ座り、彼女の手を握っていた。


 眠っているリシアの眉間から、いつの間にか苦しそうなしわが消えている。ほんのわずかではあったが、その唇には笑みさえ浮かんでいた。


 ギルバードは、ほっと息をついた。


(さっきまで苦しそうだったのに、少し楽になったのかな)


 自分が手を握ったからかもしれない。


 そう考えたギルバードは、リシアの手を両手で包み込んだ。


(ずっと握っていよう。僕がそばにいれば、怖い夢を見ないかもしれない)


 夢の中でリシアに甘えている魔獣こそ、自分であることをギルバードは知らない。


 何故、初めて会ったはずのリシアが気になったのか。


 何故、彼女を見つけた瞬間から、そばにいてほしいと思ったのか。


 何故、リシアを守らなければならないと、これほど強く感じるのか。


 ギルバード自身にも、その理由は分からなかった。


 ただ、リシアを失うことだけは、どうしても耐えられなかった。


「ギルバード様、付き添いはもう大丈夫でございます」


 診察を終えた医師が、困ったように声をかけた。


「薬も効いております。容体は安定していますので、今夜は侍女と看護人にお任せください。殿下も、そろそろお部屋へお戻りになりませんと」


「いいえ。今晩は、ずっとここにいます」


 ギルバードはリシアの手を握ったまま、きっぱりと答えた。


「しかし、殿下……」


「リシアが怖い夢を見たら心配です。目を覚ましたときに誰もいなかったら、きっと不安になります」


「看護人がおります」


「僕もいます」


 医師は説得を諦めたように、アレクへ視線を向けた。


 アレクならば連れ帰ってくれると思ったのだろう。


 しかし、アレクもリシアのそばを離れるつもりはなかった。


「好きにさせてやってくれ。眠ったら、俺が部屋へ連れていく」


「アレクサンダー殿下まで、そのような……」


 医師は大きく息を吐いた。


「くれぐれも患者を起こさないでください」


「分かっています」


 ギルバードは小声で答えた。


 ずっと彼女の手を握っていたギルバードも、やがて眠気に耐えられなくなった。舟をこぎ始めた小さな体を、アレクが抱き上げる。


 眠ってしまったギルバードは、アレクの胸元へ頬を寄せた。


「まったく、誰が誰を守っているんだか」


 アレクは呆れたように呟いたが、ギルバードを起こすことはしなかった。


 そのまま椅子へ腰を下ろし、自分の膝の上にギルバードを抱いた。


 夜が更けた頃、リシアはふと目を覚ました。


 室内は暗く、枕元に置かれた小さな灯りだけが、静かに揺れている。


 視線を横へ向けると、アレクが椅子に座っていた。


 その膝の上では、ギルバードが小さく体を丸めて眠っている。アレクもギルバードを抱いたまま、椅子の背にもたれてまどろんでいた。


 リシアはゆっくりと体を起こした。


 二人とも、自分を心配して残ってくれたのだろう。


 胸の奥が温かくなった。


 ベッドの足元に畳まれていた毛布を手に取り、音を立てないように二人へかける。


 眠っているギルバードの顔を見たとき、リシアは何か大切なことを思い出しかけた。


 幼い声。


 柔らかな毛。


 必ず守ると繰り返していた、寂しがり屋の魔獣。


 けれど、眠気に包まれた頭では、それが何だったのか分からなかった。


 リシアはベッドへ戻ると、もう一度目を閉じた。


 朝になったとき、彼女は夢の内容をすべて忘れていた。


 ギルバードも、自分がかつて一頭の魔獣としてリシアに救われたことを知らない。


 それでも、魂に残された約束だけは消えていなかった。


 今度は僕がエリシアを守る。


 その思いだけがギルバードの中に残り、理由も分からないまま、彼をリシアのそばへと向かわせていた。


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