16 リシアの怪我 アレクサンダー目線
16 リシアの怪我 アレクサンダー目線
採寸が終わると、リシアは改めてこう言った。
「アレク……殿下。ギルバード殿下が待っておられます」
呼び捨てにしかけて、慌てて「殿下」を付け足す。その距離の取り方が少し寂しくはあったが、今はそれを問いただしている場合ではない。
「いいよ。私も行って話をしよう。ギルバードのことだからね」
「わたくしが話しますね」
「リシア嬢は黙っていればいい。ギルバードの話は、私が聞くから」
「いえ、そこはわたくしが」
そうこう押し問答をしているうちに、ギルバードの部屋へ到着してしまった。
結局、ギルバードの懇願にリシアが折れ、週に一度、彼に勉強を教えることになった。
ギルバードは年齢のわりに頭が切れる。だから、リシアと二人きりにしておくのは、なんとなく面白くない。そこで、おれも同席すると提案した。
するとリシアは、名案だとばかりに手を合わせた。
「それはよい考えだと思います。ギルバード殿下は、どうしてもわたくしと話していると、どことなく女言葉になってしまいますから。殿下もご一緒なら――」
「アレクだ」
「はい、アレク」
言い直したリシアに満足していると、今度はギルバードがすかさず口を挟んできた。
「僕のことも、ギルバード殿下ではなく、ギルバードと。いえ、ギルと呼んでください」
「はい、ギル様」
「ギルだ、リシア」
「ですが、王族の方を呼び捨てになど……」
「アレク兄様は呼び捨てにしたじゃないか」
「それは……」
「僕はだめなのですか?」
ギルバードはにこやかに笑っているが、一歩も引くつもりはないらしい。
リシアは困ったようにおれを見た。助けを求められた気はしたが、ここで口を挟めば、後々ギルバードに何を言われるかわからない。おれは何も見ていないふりをして、机の上の本へ視線を落とした。
「だめではありません……ギル」
「うん」
ギルバードは心底嬉しそうな顔をした。
「あの、アレクが一緒なら、ギルの話し方にいい影響が出ます。ギルのためになるかと存じます。わたくしとだけ話していたら、どうしてもわたくしのくせが移りますから」
その言葉を聞いた途端、ギルバードは急に行儀のよい子供になった。
「リシア、アレク兄様。よろしくお願いします」
先ほどまでの押しの強さはどこへ行った。
こいつは、おれの甥だけあって充分に腹が黒い。欲しいものを手に入れた途端に、素直で可愛らしい子供の顔をしてみせるとは。
(おれは、あの年頃はもう少し可愛かったぞ。少なくとも、こんなふうに大人を手玉には取らなかった……たぶん)
ギルバードを、ただの子供だと侮ってはならない。おれは密かに心へ刻んだ。
こうして週に一度、おれも交えて三人で勉強することになった。
実際に教えてみると、ギルバードはさすがに優秀だった。一度説明したことはすぐに理解し、次に同じ問題が出れば難なく答える。疑問があれば遠慮なく尋ねてくるし、納得できなければ子供らしく食い下がってくる。
教える側としても張り合いがあり、なかなか楽しい相手だった。
もっとも、リシアに褒められるたびに得意そうな顔をするのは、少々気に入らなかったが。
その日の課題を終えると、なぜか話題は男同士が使う罵り言葉へ移っていた。
「だから、そんな言い方は古い。今の騎士たちは、もっと短く言う」
「では、これは?」
「それは喧嘩を売る言葉だな。使うなら、殴られる覚悟をしておけ」
「アレク兄様は使ったことがありますか?」
「もちろんある」
「どなたに?」
「……それを聞いてどうする」
ギルバードは興味深そうに身を乗り出した。
「王太子の弟が誰に殴られたのか、後学のために知っておこうかと」
「おれが殴られたことになっているのか?」
「喧嘩を売れば殴られると、今ご自分でおっしゃいました」
「売った相手が殴り返せなければ、その限りではない」
「権力を使ったのですか?」
「違う。実力だ」
おれたちのやり取りを聞いていたリシアが、静かに本を閉じた。
「今日は男同士でお話が弾んで、何よりです」
リシアは笑顔で立ち上がった。
「わたくしは、その間に魔術書を図書館へ返してまいります」
「一人で行くのか?」
「王宮の中です。それに、これを着て参りますから」
リシアは椅子の背に掛けてあった魔術師団のマントを手に取り、肩にはおった。魔術師団の紋章が刺繍された、濃紺のマントだ。
「寄り道はしないように」
「はい、アレク」
「何かあれば、すぐに魔術師を呼ぶんだぞ」
「図書館へ本を返すだけです」
「だからといって、何も起きないとは限らない」
「わかりました。行ってまいります」
リシアは苦笑すると、魔術書を胸に抱いて部屋を出ていった。
魔術師団のマントを着ている者へ喧嘩を売ることは、魔術師団全員へ喧嘩を売ったと見なされる。個人を侮辱したのではない。魔術師団そのものの権威を侮り、敵に回す意思を示したと判断されるのだ。
王宮内であのマントを着ているということは、最強の護衛を連れて歩いているのと変わらない。
それは、この王宮で働く者なら誰でも知っている常識だと、おれは思っていた。
ところが世の中には、その常識すら通じない馬鹿がいる。
リシアが出ていってから、それほど時間は経っていなかった。
扉が激しく叩かれ、返事を待つ余裕もない様子で、魔術師団の一人が飛び込んできた。
「アレクサンダー殿下、ギルバード殿下! ご報告いたします!」
報告を聞き終えた途端、ギルバードは冷笑を浮かべ、吐き捨てるように言った。
「腐れビッチが」
報告に来た魔術師は、賢明にも何も聞こえなかったふりをした。おれも咎めなかった。
今日教えたばかりの罵り言葉を、さっそく使うとは思わなかったが、使い方としては少々過激かもしれない。だが、今の気持ちを表す言葉としては、これ以上ないほどしっくりきた。
「ギル、行くぞ」
「はい、アレク兄様」
「手は出すなよ」
「アレク兄様こそ」
おれたちは顔を見合わせた。
少なくとも、どちらか一人は冷静でいなければならない。
問題は――それがどちらなのか、ということだった。




