第九話 古都の修羅場と、未来の傾城
夏季補講の助手バイトと、土にまみれた発掘品の保全作業。二足のわらじを履き、俺は朝から大学の保存修復室に籠もっていた。薬品のツンとした刺激臭と、数千年前の遺物が放つ乾いた土の香りが混ざり合う。ピンセットで慎重に土を撥ねる単調な作業は、今の俺にとって唯一の心の安らぎだった。――昼過ぎ。自販機から落ちてきた冷たい缶コーヒーを首筋に押し当てていた、その時だ。
「せんせぇぇぇーっ! 彼女ができたって本当ですかぁぁ!?」
廊下の角から、乱れた黒髪を振り乱して突進してくる影が見えた。
「……結月ちゃん?」
橿原結月。かつての教え子で、今は同じ大学の三回生。ミスコンの常連で、すれ違う男子が必ず二度見するような華やかな容姿の彼女は、高校時代からなぜか俺を「先生、先生」と追い回していた。
「先生、留学中もずっと夜しか眠れなかったんですよぉ!」
「……それ、普通に熟睡してるよな?」
戸惑う俺の右腕に、彼女は香水の甘い香りを振り撒きながらしがみついてきた。二の腕にダイレクトに伝わる柔らかい感触に、鎖骨のあたりがカチカチに強張る。
「聞きましたよ! 金髪の超美人と浴衣デートしてたって! 私のいない間に、誰が先生を毒牙にかけたんですか!?」
ゼミ仲間の無自覚な情報漏洩が、俺の平穏を音を立てて崩していく。
***
大学の談話室。唸りを上げるエアコンの音がやけに大きく聞こえるほど、テーブルを囲む三人の間には冷え切った空気が澱んでいた。俺、アルシア、そして結月。俺を尻目にテーブルを挟んだ二人の視線がぶつかり、静かな火花が散る音がしそうだ。
(……痛い、視線が痛い)
談話室の隅。いつの間に学内に侵入したのか……アイスコーヒーを啜りながら、こちらを射抜くように凝視するツバキとヒバナが見える。ヒバナが手に持ったスマホを、親指でカチカチと鳴らしている。その規則的な金属音が、俺の背筋に冷たい汗を走らせた。
「ええと……。アルシアは、今、俺にとって……一番近くにいてほしい人、なんだ」
平静を装って紹介すると、アルシアは背筋をすっと伸ばし、優雅にカップを置いた。陶器がカチリと鳴る、その音だけで空気が支配される。
「初めまして、アルシア・ロウランです。総一郎から聞いています、教え子の結月さん」
言葉は穏やかだが、彼女が俺の腕にそっと添えた細い指先には、じわりと力がこもっていた。対する結月も、テーブルを叩いて身を乗り出す。
「私、先生の側にいたくてこの大学に入ったんです! ……それに先生、聞いた話だと、鹿と戦って彼女を守ったとか。そんなラノベみたいな展開、信じられません!」
「あ、いや、それは……たまたま、あの日は鹿が荒れていて……」
「鹿王ですよ? 普段は女の子に超紳士な、あの奈良公園のアイドルが、アルシアさんを襲うはずありません!」
結月の鋭い追及に、俺の奥歯がミリ単位で軋んだ。アルシアはふっと微笑み、俺の肩に頭を預けてきた。金髪から香るかすかな砂漠の蜜の匂いが、鼻腔をくすぐる。
「本当よ。あの大きな鹿の猛攻から、私は彼に救われたの。……愛、かしら」
その微笑みが、火に油を注ぐ結末になることを、俺は本能で悟った。
***
「私、絶対に諦めませんから!」
結月が握りしめた拳が、プルプルと震えている。その瞳には、かつて俺に告白してきた時と同じ、真っ直ぐな執念の炎が宿っていた。
「結月さん……あなたの想いは届きました。でも……」
アルシアが毅然と、しかしどこか慈しむような視線を向ける。
「ごめんなさい。私も、彼への気持ちだけは……御仏に誓って、曲げるわけにはいかないの」
「ちょっと、二人とも落ち着こう。な?」
俺はたまらず割って入った。
「結月ちゃん。君の気持ちに、俺は……ずっと向き合ってこなかった。本当にすまん。でも」
逃げずに、結月の目を真っ直ぐに見据える。
「今の俺には、アルシアのことしか考えられない。この気持ちに、嘘はないんだ」
静まり返る談話室。俺の言葉の余韻を塗り潰すように、アルシアが凛とした声を発した。
「――私と総一郎は、婚約しています」
「ぶふっ!?」
飲んでいたコーヒーを思い切り噴き出した。いや、最高だ。最高だけど、俺、初耳なんですけど! 結月の動きが止まった。その瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「……そんな、……まだ、ワンチャンあるって信じてたのに……っ!」
彼女はトートバッグを掴んで立ち上がった。自由を奪われた獣のような絶叫を残して、廊下へと走り去る。
「わたし二号でもいいから、あなたの側にいさせてぇぇぇ!!」
「やめろぉぉぉぉぉー」
廊下の床が、彼女の足音で激しく震える。周囲の耳目が集中する。俺の社会的信用が、今、完全に死んだ。顔を覆う俺の後ろで、アルシアがそっと袖を引いた。
「……ごめんなさい、総一郎。あんな風に言うつもりじゃなかったの。でも……私は本気。この世界で、あなたの隣にいたい」
見上げた彼女の瞳には、かつての王女としての覚悟が真っ直ぐに宿っていた。
***
一方その頃、談話室の隅。ツバキの腰に装着された、物理スライダー付きの分厚い未来タブレットが、金属質な警告音を吐き出した。
ピ――――! ピ――――! 「特異点反応、最大。……コードネーム、『愛姫』」
ツバキが重いスライダーを滑らせる。端末の冷たいバックライトが、戦士たちの顔を蒼白く照らした。
「愛姫・結月。……未来の帝王・長屋総一郎の愛妾にして、帝国の毒牙の象徴。彼女の邪悪な優しさに、人類の精神は麻痺し、世界は愛欲の海に沈む。歴史上、最も多くの戦士を懐柔し、堕落させた女……」
ツバキが無機質な声でログを読み上げる。
「あの闇に微笑む傾城が、もう接触してくるなんて……」
ヒバナが、額の汗を拭いながら銃器のセーフティを確認した。
「今のあの娘が未来の化け物と同一人物なのか、確かめる必要がある。もしそうなら……」
未来戦士たちの間に、重く冷たい決意が落ちた。古都を照らす西日の影で、歴史の歯車が、またひとつ狂い始めていた。




