第八話 揺れる納豆と、暗黒卿の兆し
真夜中。カーテンの隙間から覗く古都の空は、吸い込まれるような闇を湛えていた。アパートの外は静まり返っているが、耳の奥でキーンと鋭く鳴る高周波が、ヒヒイロカネの展開した防御結界の存在を告げている。押し潰されるような、不自然な凪だ。俺は寝返りを打ち、安っぽい神棚を見上げた。
「なあ、ヒヒイロカネ先生……もし俺に何かあったら、アルシアだけは助けてやってくれ。あいつがこの国で、普通に笑って生きていけるなら……俺はそれでいいんだ」
独り言のような呟き。だが、神棚の奥から、緊張感の欠片もない声が返ってきた。
『何をしおらしいことを言っとるかと思えば……』
金属特有の冷ややかさと、隠居老人のような暢気さが混ざった響きだ。
『それに総一郎、お主はそう簡単に死なん。というか、死ねんぞ。ふふん♪』
「……何が言いたいんだよ」
『わしの力を分け与えたであろう? 自覚がないようだが、今のお主、あの映画の『暗黒卿』くらいには強いぞ。フォースが共にある状態じゃ』
「…………んですとおおぉ!?」
俺は勢いよく布団を跳ね飛ばした。脳裏をよぎるのは、漆黒のマスクと荒い呼吸音のあの男だ。俺、今そんなレベルのポテンシャルなのか。
『念動力の基礎は、もう細胞レベルで馴染んでおる。あとはお主の覚悟次第じゃ。ふぉっふぉっふぉ……』
その笑い声が、背筋にまとわりつく粘り気のある冷気のように思えて、喉の奥が乾いた。
「待てよ、その設定。まさか……」
『うむ。面白かったぞ、あの宇宙でチャンバラするやつ。TSUTAYAのカード、引き出しから拝借したわ』
さらりと個人情報の壁を乗り越えてくる我が家のオーパーツ。俺が絶句していると、ヒヒイロカネはさらに声を弾ませた。
『茶番は終わりじゃ。ほれ、試してみるがいい。その文庫本だ』
言われるがまま、俺は寝転がった姿勢のまま、卓袱台の上に置かれた古い文庫本に目を向けた。力を抜く。ただ、意識の糸を本の背表紙に絡ませるように――。 ――スッ。 重力を無視して、本がふわりと宙に浮いた。
「……あ」
紙の束が空気を押しのける微かな振動が、掌に伝わってくるようだ。マジか。俺は本当に、あっち側へ足を滑らせてしまったらしい。
『言うたであろう。もう、ただの考古学徒には戻れんのじゃ……』
暗闇の中で響く笑い声。俺は、自分がSFとファンタジー、そしてロマンスが混ざり合った、とんでもない物語の渦中に叩き落とされた現実を噛み締めていた。
***
翌朝。昨日までの爆発や襲撃が嘘のような、穏やかな光が卓袱台を照らしていた。香ばしく焼けた鮭の匂い。湯気を立てる豆腐の味噌汁と、黄色い出汁巻き卵。アルシアもすっかり箸を使いこなし、小気味よい音を立てて味噌汁を啜っている。
「総一郎、納豆はまだ残っていましたか?」
「ああ、冷蔵庫の二段目に……」
言いかけた俺は、手を伸ばす代わりに、無意識に意識を背後の冷蔵庫へ向けた。磁石のパッキンが外れるペタッという音とともに、扉がひとりでに開く。白いパックがふわりと浮き上がり、滑るような軌道を描いてアルシアの目の前へ着地した。
「はい、どうぞ」
……やってしまった。アルシアの箸が、空中でピタリと止まった。
「……総一郎。今の、どうやったの?」
「え? ああ、念動力っていうか。昨日の夜、ちょっと習得しちゃってさ」
努めて平然と答えたが、彼女の碧い瞳は、激しく小刻みに震えていた。
「……念動力? 魔法でも、神の奇跡でもない、もっと……冷たくて重い空気を感じるわ」
アルシアは、納豆のパックを見つめたまま、指の関節が白くなるほど強く箸を握りしめた。
「お願い、それを軽く使わないで。私……説明できないけれど、わかるの。それを扱う心が少しでも歪めば、すべてが壊れてしまう気がするわ」
澄んだ瞳の奥に、強固な拒絶の色があった。それは、彼女がかつて楼蘭の王宮で見てきたであろう、力による支配の残影を拒む眼差しだ。俺は、便利な手品感覚で力を使った自分を深く恥じた。納豆のパックを解くと、無数の糸が複雑に絡み合い、離れない。
***
カリリ、と小気味よい音を立てて奈良漬けを噛む。発酵した酒粕の香りが鼻を抜けるが、胸の奥のざわつきは消えない。この力の重しとして、アルシアがいてくれる。彼女の常識、彼女の眼差しが、俺を人間という繋ぎ杭に留めてくれているのだ。けれど――。もし彼女が傷ついたら。もし、理不尽な力が彼女を奪おうとしたら。俺は、迷わずこの闇を解放してしまうのではないか。
(……闇堕ち)
その言葉が、奈良漬けの塩分と一緒にじわりと舌の上に染み込んでいく。未来の俺が、世界を征服する帝王。あの三人娘の宣告が、現実味を帯びて迫ってくる。もし隣の部屋の彼女たちが、この力の片鱗に気づいたら、即座にこのアパートごと消し飛ばしに来るだろう。しょっぱい奈良漬けを飲み込む。力を得るということは、王冠を戴くことじゃない。奈落の縁で、どれだけ正気を保てるか試されることなんだ――。俺は、隣で静かにお茶を飲むアルシアの横顔を、ただ黙って見つめていた。




