第七話 ボロアパートの平穏と、侵食する三色
襟元に張り付く汗と、肌をざらつかせた土埃の感触。逃げ帰ったアパートの玄関で、俺たちは数秒間、ただ荒い呼吸を重ねた。サムターンを回す金属音が、静まり返った室内でやけに重く響く。
「……なんだったんだ、あれは」
言葉を絞り出し、湿った畳の上に背中から崩れ落ちる。隣で膝をつくアルシアも、肩を揺らして激しい呼気を繰り返していた。ふと、二の腕の浴衣の布地が、ぎゅっと強く引っ張られた。視線を落とすと、彼女の細い指先が、白くなるほどの力で俺の腕を掴んでいる。力は弱く、小刻みに震えていた。けれど、そこからは決して離れないという拒絶の意志が伝わってくる。驚いて横顔を覗き込むと、アルシアは強がりの混じった笑みを、儚くこぼした。
「……守ってくれて、ありがとう」
掠れた声が、胸の奥をチクリと刺す。俺は何も言わず、ただ彼女の冷えた手のひらを握り返した。これから何が起きるのか、どうすればいいのか、正解はどこにもない。けれど、掌から伝わる彼女の確かな体温だけが、この狂った現実の中で唯一触れられる真実だった。だが、感傷に浸っている時間は一秒もなかった。
***
「起きろ、ヒヒイロカネッ!!」
安っぽい神棚の白木を、指の背で力任せに叩く。ゴン、というくぐもった衝撃音が部屋に響いた。
「おい、いつまで寝てんだ! 緊急事態だって言ってんだろ!」
数拍の沈滅の後、棚の奥から微かな金属の震えと、欠伸の混じった声が返ってきた。
『んん〜……わしは今、絶賛休眠モードなんじゃが……まだ初夏ぞ?』
「吐けッ!」
もはや敬語を使う余裕も、遠慮も消し飛んでいた。額の裏でドクドクと脈打つ焦燥が、一気に声を荒らげる。
「俺の人生、どうなってんだ!? 未来で世界征服? 金属生命体? 地球壊滅だと!? お前、絶対に裏で糸を引いてるだろ!」
ヒヒイロカネはしばらく、思考を巡らせるようにじわりと鈍い光を放った後、どこまでも他人事のようにのんびりと言い放った。
『……わし、なんも知らんよ。未来なんて観測してないし。改変されまくりじゃし。だいたい、タイムラインの因果律なんて、網戸の目よりザルじゃからの』
重苦しい沈黙が落ちる。網戸を透かして聞こえる蝉の声が、やけに虚しく響いた。
「絶対ウソだろ、それぇぇぇぇ!!」
俺の絶叫が、狭いアパートの薄い壁を震わせる。隣で、それまで硬直していたアルシアが、小さく肩を震わせて笑い始めた。その屈託のない笑顔に毒気を抜かれ、俺は心の中で大きく天を仰ぐしかなかった。
***
数日後の夕暮れ。卓袱台を挟み、俺たちは氷水の中で泳ぐ冷やし素麺をすすっていた。網戸を抜ける風が、僅かな夕涼みを運んでくる。ようやく日常が戻ったかと思った――あのチャイムが、耳を劈くまでは。 ピンポーン♪ のそのそと立ち上がり、玄関のドアを開けた俺は、自分の目を疑った。そこには、引っ越し蕎麦の包みを抱えた、場違いな清潔感を纏う美少女が三人。あの、夜空の下で殺意を振り撒いていたヒーローもどき共だ。包みに貼られた熨斗紙には、それぞれ名前が並んでいる。
先頭に立つのは、五條ツバキ。一分の隙もなく結い上げた黒髪と、淡い黄色のブラウス。無駄のない立ち振る舞いから、隙のなさが透けて見える。次に、山添クリス。名門女子校のセーラー服を完璧に着こなし、長い睫毛の奥で何かを計算するように瞳を細めている。口元には不敵な笑みが張り付いていた。そして、桜井ヒバナ。赤いジャケットを羽織り、髪を短く切りそろえた男装の麗人風。だが、ジャケットの合わせ目からは、明らかに火器を模した冷たい金属の質感がチラついていた。ツバキが代表して、抜けるような営業スマイルを向けてくる。
「隣に三人で引っ越してきました。五條です。よろしくお願いしますね♪」
(隣の部屋は、うちと同じ六畳一間のはずだ。そこに、この三人が……?)
「……君たち、あの時の、あの格好の連中だろ?」
「えっ? 何のことでしょう。人違いでは?」
ツバキは眉ひとつ動かさず、完璧な無表情で否定した。その徹底ぶりに、背筋を冷たいものが這い降りる。俺は半ば投げやりにドアを閉め、深いため息とともに卓袱台へ戻った。
「なあ、アルシア……夜逃げ、今からでも間に合うかな」
『わしは今、夏季スリープモードなんじゃ……静かにしてくれい』
役立たずの金属を無視していると、素麺をすくっていたアルシアが、ふいと視線だけをこちらに向けた。少しだけ膨らんだ両頬が、彼女の機嫌を露骨に示している。
「……総一郎。あの子たちが可愛かったからって、鼻の下を伸ばしすぎじゃない?」
刺すような、けれどどこか甘えたような声。
「そ、そんなんじゃねえよ!」
思わずめんつゆでむせそうになり、顔が熱くなる。
「……総一郎、たまに無防備すぎるから。困るのよ」
伏せられた碧い瞳が、夕闇の中でしっとりと揺れた。逃げ場はない。けれど、俺を繋ぎ止める温かな意志だけは、この部屋に満ちている。カオスはまだ、幕を開けたばかりだった。




