第十話 古都の誓い、楼蘭の祝宴
酷夏の夕暮れ。アスファルトが吐き出す熱気が、どこまでも長く、どこまでも優しい風にさらわれていく。俺とアルシアは、どちらからともなく歩幅を合わせ、影を並べて歩いていた。
ふと、指先が触れる。吸い寄せられるように、彼女の細い指が俺の大きな掌の隙間に滑り込み、指と指が硬く絡み合った。人生で初めて経験する恋人繋ぎ。ドクン、と肋骨を叩くような激しい鼓動が掌にまで伝わりそうで、俺は思わず指先に力を込めた。
「……ふふ。総一郎の手、すごくあったかいです」
隣を歩くアルシアが、悪戯っぽく微笑んで顔を覗き込んできた。夕闇を吸い込んで、底の方で碧く濁る彼女の瞳が、西日の残光を浴びてきらめいている。
「……そうだな。……君の方こそ、もっとあったかいよ」
口にした瞬間にキザだったかと後悔したが、彼女は嬉しそうに目を細め、繋いだ手をさらに強く握り返してきた。
***
二人で遠回りをして、小さな街区公園へ辿り着いた。街灯が一つだけ点った、静かな夜の公園。木製のベンチに並んで腰を下ろすと、草むらから響く虫の音が、二人の沈黙を埋めるように鳴り響いていた。
「……アルシア」
月明かりに照らされた彼女の横顔を見つめ、乾いた喉を鳴らして口を開いた。
「本当に、ありがとう。君がいてくれるから、俺は今、自分の人生を動かしているって……そう思えるんだ」
一度言葉を切る。心臓の音がうるさくて、まともな呼吸ができない。
「……まだ考古学者の卵ですらない、不安定な身分だ。何の保証もないけれど。でも、俺は……君がいいなら、結婚したいと思ってる」
アルシアの瞳に、見る間に涙が溜まり、街灯の光を反射して溢れ出した。
「そ……う……なの……? 本当に?」
震える声。彼女はそのままの勢いで俺の胸に飛び込んできた。衝撃とともに、頭の上から金髪の香りが弾ける。
「嬉しい……嬉しいです、総一郎……っ!」
鼻先をかすめる、アルシアの髪の爽やかな匂い。彼女はそっと俺の頬に手を添えると、熱を持った唇を、優しく、けれど確かめるように重ねてきた。
***
気づけば、アパートの玄関に立っていた。鍵を開けた記憶も、靴を脱いだ感覚すらおぼつかない。薄い畳の上に倒れ込み、シミのある天井を見上げる。脳内では、まだあのキスの冷めない余韻が熱を帯びて渦巻いていた。その時、神棚の奥から、低く振動するような声が響いた。
『……よかったな、総一郎。お主ら、よくやった』
「ヒヒイロカネ……」
見上げると、神棚の上で金属質の光が穏やかに揺れている。いつもの傲慢な響きはない。
『礼を言うのはこっちだ。久しぶりにいいものを見せてもらった。ほれ、アルシアに贈り物を用意したぞ』
「え? 俺にじゃなくて?」
『ふん、見ていられんほど一途だったからな。……さあ、二人で“楼蘭の部屋”を開いてみるがいい』
***
押し入れの戸を引くと、そこにはいつもの布団ではなく、異空間へと続く扉があった。一歩足を踏み入れると――そこは、砂漠の王宮を切り取ったような、圧倒的な色彩の世界だった。夜空を模した深い藍色の天蓋。揺らめくオイルランプの灯。色とりどりのシルクが夜風に舞い、部屋中に甘い香木とシナモンの焦げた匂いが満ちている。干し葡萄と蜂蜜を練り上げた菓子、銀の器に注がれた果実酒。そして、色とりどりの花びらが散らされた、黄金の刺繍を施した寝台。
「……これは……楼蘭の、私の国の……」
アルシアの細い肩が、微かに震えていた。
「……初めて嫁ぐ者のための、祝宴の夜だわ……」
震える彼女の指先に、俺は自分の手を重ねた。
「……行こう、アルシア」
彼女が静かに頷く。祝宴の灯が、二人の重なる影を壁に長く映し出す。はだけた布地の向こう、指先が触れたアルシアの肌の、吸い付くような熱。互いの輪郭を確かめ合うように――俺たちは、静かに楼蘭の夜へと溶けていった。
***
翌朝。目覚めると、視界に入ったのはいつものシミだらけの天井だった。けれど、キッチンから聞こえるまな板を叩く小気味よい音と、小さな鼻歌。出汁の香りと味噌の匂いが、俺の心臓をぎゅっと締め付けた。
「おはよう、総一郎。……ふふ、今日はちゃんと味噌汁、薄味にしてみたの」
エプロンの紐を背中で結び、振り返ったアルシアが微笑んだ。ほんのりと赤い頬と、少し照れくさそうに揺れる毛先。
「……ん。うまい……」
一口啜って、それだけしか言えなかった。
「……私のご飯、ちゃんと食べてくれるの、すごく嬉しいです」
彼女が上目遣いに俺を見つめる。心臓に、重い一撃。尊さがキャパシティを超え、危うく意識が飛びそうになる。
「……ありがとう。なんだか、一足早く夫婦みたいだな」
自分でも驚くほど素直な言葉が口を突いて出た。アルシアは、ただ優しく、慈しむように微笑んだ。
「結婚か……」
まだ何一つ手に入れていない俺だけれど、彼女の淹れた味噌汁の温かさが喉を落ちていくのを感じながら、俺は、どんな未来が来てもこの手を離さないと、ただ静かに誓っていた。




