第五話 鹿の王と、魔法の湯
「……六畳一間じゃ、俺の命が持たねぇ」
キュン死寸前の朝をどうにかやり過ごした俺は、酸欠気味の脳を冷やすべく、奈良公園への外出を提案した。
「アルシア、少し歩こうか。俺の住んでいる街を案内するよ」
「うん。緑が見たいな。砂に埋もれていない、本物の緑が」
彼女の何気ない一言が、胸の奥をキリリと締め付けた。
***
木漏れ日が古都の参道を斑に染める。鹿たちが気だるげに歩き、修学旅行生の声が遠くで弾ける。平和な午後――。だが、その平穏は、そいつの登場で一変した。
「……おい。あれ、なんか……異様にデカくないか?」
道の向こうから、砂煙を立てることもなく、静然と歩いてくる影。他の鹿たちが、割れる波のように一斉に左右へ退く。その一頭だけが、圧倒的な個としての格を放っていた。深い森の奥を思わせる、底の知れない瞳。幾重にも枝分かれした立派な角。その毛並みは、使い込まれた絨毯のように重厚な光沢を湛えている。
『うむ。あれが“鹿王”だ。奈良の鹿たちを束ねる、真の長よ』
「ヒヒイロカネ、それマジかよ……」
俺の戦慄を余所に、アルシアは恐れを知らぬ足取りで一歩前へ出た。買ったばかりの鹿せんべいを、細い指先でそっと差し出す。
「はい。遠くからいらしたのね。どうぞ」
鹿王は静かに近づくと、薄い唇で丁寧に、一枚のせんべいを口にした。もしゃり、と乾いた音が響く。直後、その巨大な巨躯が折れ、前足をついて深々とお辞儀をしたのだ。周囲の観光客から、どよめきとシャッター音が沸き起こる。
「おいおい、完璧な礼儀作法じゃねーか……」
さらに、その光景を合図に、周囲の鹿たちが一斉にアルシアへ群がった。
「わぁ、みんな可愛い! くすぐったいわ」
鹿たちに囲まれ、屈託なく笑う彼女。金色の髪が木漏れ日を浴びてきらめき、周囲の雑踏が一瞬で色褪せていく。俺がその光景に呆然としていた、その時だ。
鹿王の鋭い眼光が、まっすぐに俺を射抜いた。
「あ……え? 俺、なんもしてな――ぐはぁっ!?」
次の瞬間、視界を埋め尽くしたのは、王の硬い蹄と、舞い上がる砂。何の前触れもなく、ただの通過儀礼として、俺は地面にめり込まされた。あばらのあたりで、嫌な音が鳴る。
『……理不尽な因果律に巻き込まれるのが、おぬしの宿命だな。不憫よのう』
おかしい。なぜ、俺だけ泥の味がするんだ……。
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物理的なダメージを肋骨に抱えたまま、スーパーの袋を提げてアパートに戻る。
「楽しかったね、総一郎。今日はありがとう」
「……俺は、右のあばらから変な痛みがしてるけどな」
「あの子も悪気はないと思うの。きっと、あなたと仲良くなりたかったのね」
そのポジティブさ、今の俺には眩しすぎる。夕食は、六畳一間の小さなテーブルを囲んだ。
「今日のメニューは……白飯と、もやしの卵炒め。それとかまぼこ、インスタント味噌汁だ」
アルシアは、箸の先をミリ単位で綺麗に揃えて持ち、小さな声で「いただきます」と手を合わせた。
「……美味しいわ。温かくて、心の奥まで解けていくような味」
「そ、そうか? もやしと卵だぞ」
「この“味噌”の香り……深くて、惹きつけられる、不思議な香りね」
「それは、日本人が数百年前から磨き続けてきた知恵なんだ。なめちゃいけないぞ」
「そうなのね……総一郎の料理は、きっとこの国の宝だわ」
俺の貧乏飯を、彼女は一口ごとに慈しむように味わう。味噌汁の湯気の向こうで、アルシアの碧い眼がひどく眩しくきらめき、なんだか本当に高級料理を作ったような錯覚が脳裏をよぎった。
***
食後、食器を下げる俺の脳内に、いつになく低い声が響いた。
『……ふぅ、わし、ちょっと休むわ』
「えっ? ヒヒイロカネ?」
『どれだけわしを酷使したかわかっておるか。時空干渉に因果操作……もうバッテリー切れじゃ。しばらく寝る。起きるまで、二人で仲良くやっておれよ』
「ちょ、おい! 置いてくな!」
『……アルシアには、押し入れに寝室を構築しておいた。おぬしは、いつもの煎餅布団でな。……では、幸あらんことを。ログアウト』
パソコンの電源が落ちるような、乾いた電子音が脳裏で途絶える。途端、部屋の空気からかすかな振動が消え、急激な静寂が訪れた。残されたのは、俺と、アルシアと、冷蔵庫の低い唸り音だけ。向かい合ったアルシアが、耳まで真っ赤にして俯く。
「……そろそろ、風呂、入るか」
「あ……ごめんなさい。私、使い方がわからなくて……」
「お、おう、任せろ。レクチャーするよ」
俺は浴室のドア越しに、正座をしてマニュアルを唱え始めた。レバーの引き方、温度調節のコツ。
「なるほど……身体を洗ってから、お湯に浸かるのね。清めの儀式のようで、素敵だわ」
やがて、ドアの向こうからザァァ、と勢いよく水音が響き、満ち足りた吐息が漏れてきた。
「総一郎、このお湯、信じられないわ。全身が溶けてしまいそう……。こんなに清らかな水を、一度にたくさん使えるなんて。ここは、本当の楽園なのね」
蛇口から出るお湯。現代の俺たちが当たり前に浪費している水が、砂漠の王女にとっては涙が出るほどの奇跡なのだ。その言葉の重みに、喉の奥が熱くなる。
***
風呂上がり。浴衣風のパジャマに身を包んだアルシアが、上気した頬を輝かせて現れた。髪先から落ちる水滴が、細い首筋を伝って鎖骨へと滑り落ちていく。俺の網膜がその白さを捉え、視線が泳いだ。俺は冷蔵庫から、キンキンに冷えた瓶の牛乳を取り出した。
「風呂上がりは、これが日本の伝統だ」
腰に手を当て、ぐいっと喉を鳴らす。冷たさが胃に染み渡り、最高の「ぷはぁっ!」が漏れる。
「なるほど……わかったわ!」
彼女も同じように瓶を構えた。ごくり、ごくりと、細い喉が動く。
「んっ……、美味しいっ! 濃厚で、なのに雪みたいに冷たくて……!」
その屈託のない笑顔に、俺の理性が再び悲鳴を上げる。牛乳を飲むという、それだけの動作が、これほど破壊力を持つものなのか。
***
「じゃあ、私はもう寝るわね。おやすみなさい、総一郎」
「ああ、おやすみ、アルシア」
彼女が吸い込まれていったのは、押し入れの奥――。一瞬だけ見えたその内部は、俺の薄汚いアパートとは別世界の、楼蘭の王宮そのままの豪華な寝室だった。パタン、と襖が閉まる。後に残されたのは、効きの悪い中古エアコンの振動音と、俺の煎餅布団。
「……格差社会かよ」
窓の外では、また工事のドリルの音が遠くで響き始めている。熱を持った身体と、あまりに濃密すぎた一日の余韻。俺の、そして俺たちの新しい現実は、まだ始まったばかりだった。




