第四話 六畳一間の砂漠の王女
――朝。遮光性の低い安いカーテンを透かし、無遠慮な陽光が瞼を焼く。
遠くで響く近鉄線の踏切警報音と、近所の工事現場が立てるドリルの重低音。鼻を突くのは、昨日干し忘れた洗濯物の、わずかに湿った生乾きの匂い。
「……夢、だよな。やっぱり」
天井の茶色い雨漏りの跡を見つめ、肺の底から溜息を吐き出す。楼蘭の乾いた風、ロプノールの碧い水。指先に残る、あの引き絞るような温かな感触。すべてはうだつの上がらない考古学者の卵が見た、あまりに出来過ぎた白昼夢――。そう結論づけようとした時、右腕に、妙に熱を持った柔らかい重みがのしかかった。
(……え?)
心臓が嫌な跳ね方をする。恐る恐る、首だけを横に巡らせた。
「すぅ、……ふぅ……」
微かな寝息。俺の使い古した煎餅布団にくるまり、金色の髪を畳の上に散らして眠る彼女がそこにいた。陽光を吸い込む褐色の肌、長い睫毛。六畳一間の淀んだ空気の中に、そこだけ、砂漠の清烈なオアシスの気配が取り残されていた。
「……ッ!?」
声にならない悲鳴が喉を駆け抜け、俺は布団から転げ落ちた。そのまま薄い畳に額を叩きつける。
「召喚しちゃったぁぁぁ! 申し訳ございません、全て俺の責任ですぅ―、とにかく申し訳ございません……!」
「……ん、……そう、いちろう?」
その声に、心臓が跳ね上がって肋骨を突き破りそうになる。アルシアが、眠たげな眼を擦りながら上半身を起こした。
「……ここ、どこ? 船の中……かしら」
「…………っっっ!!」
答えられるわけがない。俺は即座に踵を返し、トイレのドアに向かって完璧な正座をキメた。視界に、一平方センチメートルたりとも彼女を入れてはいけない。なぜなら、彼女の寝間着代わりの薄絹は、寝乱れて肩から大きくはだけていたからだ。朝日に照らされた滑らかな鎖骨、引き締まった腹筋、そして無防備に晒された細いうなじ。昨夜、あれほど格好つけて「俺の世界へ来い」と叫んだ男の末路が、トイレ前の正座である。情けなくて涙が出そうだ。
『落ち着け、総一郎。おぬしの心拍数で木造の床が鳴っておるぞ』
脳内に、冷や水を浴びせるようなヒヒイロカネの声が響く。
「無理言うな! 目のやり場が……っ、そもそも、どうすんだよこれ!」
『ふむ……仕方ない。おぬしの理性が決壊する前に、わしが手配してやろう』
神棚のあたりで、カチリ、と硬質な金属音が響く。続いて、背後で真新しい布が擦れる気配と、アルシアの小さく息を呑む声が聞こえた。
「……総一郎。これ、不思議な感触だけど……終わったわよ」
背骨がバキリと鳴るほどの勢いで、後ろを振り返る。そこに立っていたのは、異国の姫から現代の美女へと鮮やかな変貌を遂げたアルシアだった。生成り色のシンプルなワンピース。胸元には控えめな刺繍があり、彼女の褐色の肌によく映えている。砂漠の王女としての気高さはそのままに、まるで都会の雑踏からふらりと迷い込んできたような、現実離れした美しさ。
「……綺麗すぎて、意識が飛びそうだわ」
「ふふ、お世辞でも嬉しいわ」
アルシアは少しだけ頬を染め、慣れないスカートの裾を細い指先で弄んだ。
『戸籍、言語、身分証の類はすべて処理済みだ。アルシア・ロウラン。アメリカ国籍の留学生として、おぬしの大学に編入する手筈になっている。礼には及ばぬぞ』
「お前、現代社会のサーバーにハッキングでもしたのか……?」
『……ただ、一点。現代の下着という構造には彼女もいたく驚いておったぞ。特に、その胸を強調する、ほせい、という概念――』
「やめろ! 喋るな! その情報を俺の脳内に共有するな!」
俺の絶叫をよそに、アルシアは楽しそうにクスクスと笑った。その笑顔が、あまりに自然で、あまりに救いがないほど可愛い。
「……本当に、ありがとう」
アルシアが、俺の隣にそっと膝を折った。窓から差し込む朝の光が、彼女の髪を一筋ずつ黄金に縁取っていく。
「いや……ごめん。俺の勝手な独り言のせいで、こんなことになっちゃって」
「うううん。私、あなたに会えて、手を掴んでもらえて……本当に、救われたの。でも……」
彼女は小さく視線を落とし、膝の上で自分の指先を絡めた
。
「私、ここがどこかも、どう生きればいいかも分からない。……こんな私でも、ここに、あなたの隣にいてもいいかしら?」
「…………」
その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、喉の奥がカッと熱くなる。俺は、震える声をどうにか絞り出した。
「い、いつまででも居ていいよ! 俺、明日からベランダで寝ますから!」
「……ふふ、やっぱり変な人。ベランダじゃなくて、隣がいいわ」
アルシアの手が、そっと俺の手を包み込む。温かかった。三千年前のミイラが見せていた微笑みが、今、生きた体温を伴って俺の皮膚に伝わってくる。やばい。奈良の安アパートで、俺の心臓は今日、間違いなく停止する。
『おぬし、免疫が皆無だな。もはや哀れみすら感じるぞ』
脳内のヒヒイロカネの嘲笑を無視して、俺は繋がれた手の重みを噛み締めていた。始まったんだ。歴史の教科書を破り捨ててでも、俺が掴み取った新しい現実が。




