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第三話 砂の王宮を抜け出して

「……楼蘭の街も、見てみたいなぁ」


 俺の何気ない呟きに、アルシアがふわりと表情を和らげた。


「よかったら……私を外へ連れ出してくれませんか?」


 その誘いに、俺の心臓がひとつ大きく跳ねた。


「いいのか? 王女様が、そんな」


「ふふ、案内人は私の方が適任ですよ」


 二人で、衛兵の目を盗んで王宮の影に潜り込む。湿った土の匂いが漂う冷たい石の通路――隠し通路を抜けた先で、彼女は手早く着替えた。煌びやかな絹を脱ぎ捨て、身に纏ったのは無骨な羊毛の衣。遊牧民風の素朴な装いが、彼女の輪郭をいっそう際立たせている。俺も彼女から借りた、少し砂埃の匂いがする上着を羽織った。


 外に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。二千年前のオアシス都市、楼蘭。街の隅々を網の目のように走る水路が、砂漠の熱を和らげるように清冽な音を立てている。視界を遮るのは、金色の装飾が施された仏塔。太陽を反射して眩しく輝くその姿は、ここが仏教文化の最前線であることを物語っていた。


「そっちへ行くと市場バザールですよ、総一郎」


 アルシアに手を引かれ、人混みへ飛び込む。鼻を突くのは、クミンやコリアンダーの刺激的な香り。ペルシャから運ばれたという絨毯の複雑な紋様が軒先に踊り、中国の絹が風に揺れて真珠のような光沢を放っている。隊商のラクダたちの荒い鼻息、商人たちの野太い呼び声。


 正倉院に眠る宝物たちが、かつてこの喧騒の中にあったのかと思うと、首筋の毛が逆立つほどの高揚が突き上げてきた。隣で笑うアルシアの横顔は、王宮で見せたものよりずっと幼く、そして誰よりも眩しかった。


***


 しばらく街を歩いた後、彼女が引き連れてきた愛馬に二人で跨った。目指すは、街の外に広がる「さまよえる湖」ロプノール。現代では地図から消えたその湖は、この時代、溢れんばかりの碧い水を湛えていた。岸辺には葦が茂り、漁師の舟が静かに浮かんでいる。水鳥が水面を叩いて飛び立つ音だけが、静寂の中に響いた。


 俺たちは小さな舟を漕ぎ出し、湖の真ん中へと進んだ。空の青をそのまま映したような水面の上で、俺たちの影だけが寄り添っている。


「……もっと教えてほしい。君のこと, この国のこと。何もかも」


 俺の言葉に、アルシアが唇を開きかけた――その時だ。


『総一郎――時間だ』


 脳内に、冷水を浴びせられるようなヒヒイロカネの声が響いた。足元の舟底から、じわりと白い光が滲み出し、世界の輪郭が細かく震え始める。


「え、嘘だろ……?」


「……もう、行ってしまうのね」


 アルシアの顔から、さっきまでの輝きが消えていた。彼女は俺の顔を見ようとせず、湖面を見つめたまま、指先で自分の服の裾を強く握りしめた。


「どうして……そんな、今にも消えてしまいそうな顔をするんだ?」


「……実は、もうすぐ私は結婚するの」


 彼女の声は、風にさらわれる砂のように乾いていた。


「相手は、父王に仕える年老いた将軍。この婚姻は、戦功に対する『褒賞』なのよ。……私という人間を、褒美として差し出す。それが王女としての私の価値」


 胸の奥が、焼けるように痛んだ。彼女は救いを求めていたのではない。救いなどないと諦めていたから、せめて最後の一日を、俺という夢と過ごしたかったのだ。


「そんなの……おかしいだろ。君は、物じゃない!」


「……自分では、何も変えられないわ。これが楼蘭の、私の運命だから……」


 俺の身体を、拒絶できない光の奔流が包み込む。だが、俺は抗うように叫んだ。


「なら、また来る! 君に会いに、必ず戻る。何度だって……この楼蘭へ!」


 アルシアが弾かれたように顔を上げた。碧い瞳が大きく見開かれる。


「君を救いたいんだ。君が自分の人生を、自分の足で選べるようになるまで、俺は諦めない!」


 視界が白く塗り潰されていく。彼女の小さな声が、消えゆく意識の端に触れた。


「……待ってるわ、総一郎。あなただけは――夢じゃないって、信じたい」


 意識が遠のく中、俺は最後の力を振り絞って、光の向こう側に残る彼女の手へ指を伸ばした。


「アルシア! 俺の手を掴め!」


 彼女の息が止まるのが分かった。


「君が言ってた世界を、俺が見せてやる。緑に囲まれた、戦いのない場所を。……来いよ! 今度は、俺の世界で話そう!」


 震えるアルシアの指先が、死に物狂いで伸ばされた俺の手を、確かに掴んだ。

眩い閃光が、空間を粉砕した。光の奔流の向こうで、ヒヒイロカネの呆れたような、けれど不敵な笑みを含んだ声が響く。


『……おぬし、ロマンチストも極まれりだな。……まあ、嫌いではないがな』


「ヒヒイロカネ! お前、まさか補助を――!」


『うむ。召喚者の意志がこれほど強ければ、若干の“偏り”が生じるのは道理よ。……勢い、というやつだな!』


 俺の怒鳴り声が消えるより早く、俺たちは時空の裂け目へと飲み込まれていった。

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