第二話 砂の王女と氷の聖杯
翌朝――。窓の外を走る近鉄電車のガタゴトという振動が、安アパートの薄い壁を震わせる。重い瞼をこじ開けると、視界に入ったのは見慣れたシミだらけの天井だった。
(……なんだ、夢か)
そう思って身体を起こしようとした時、視界の端でそれが鈍く光った。安物の神棚。招き猫の隣に臨む、掌サイズの七支刀。鉄特有の重苦しい質感と、時代を飛び越えてきたような冷徹な存在感が、昨夜の出来事が現実であることを突きつけてくる。
『――おぬし、欲がないな』
脳の芯に、直接爪を立てるような声が響いた。
「うわっ……!」
反射的に布団を蹴り飛ばす。やはり部屋には俺一人。だが、声は神棚の彼から発せられていた。
『普通、人間はこう言う。金、女、名声、あるいは不老不死。おぬしの中に渦巻くのは、そういった猛々しい渇きではない。……何も望まぬのか?』
「望み、か……。まあ、普通に就職して、人並みに飯が食えれば……」
『退屈よな。わしならば、おぬしの小っぽけな想像力など一瞬で凌駕してやれるというのに』
「……じゃあ、願っていいか? 一生、手の届かないはずの、とびきりのやつだ」
『ほう。言ってみよ』
俺は一度、渇いた喉を鳴らした。自分でも馬鹿げていると思う。だが、考古学者の端くれとして、これ以上の贅沢は思いつかなかった。
「楼蘭の美女に、会いたい」
一瞬、部屋の空気が凍りついたように静止した。
『……女か? ならば今の時代、化粧や細工でそれ以上に美しい者など腐るほどおるだろう』
「違う。俺は、彼女と『楼蘭』で話したいんだ。あの場所で、彼女がどんな風を吸って、どんな言葉を紡いでいたのか。……資料の文字じゃなく、彼女の瞳を見て、それを知りたい」
***
かつて、タクラマカン砂漠の東端に、砂と風に愛された王国があった。シルクロードの要衝として栄え、そして忽然と歴史から姿を消した幻の都市、楼蘭。俺の脳裏に、あの一枚の写真が浮かぶ。一九八〇年に発掘された、約千数百年前のミイラ。千年以上の時を経てもなお、長い睫毛と、穏やかな微笑みを湛えたまま眠っていた彼女。テレビ越しにその横顔を見た瞬間、俺の心は灼かれたのだ。それは恋というにはあまりに遠く、敬虔な祈りに似た執着だった。
『……なんと厄介な願いだ』
ヒヒイロカネの声に、かすかな愉悦が混じった。
『だが――面白い。わしを誰だと思っている。任せておけ』
差し込む朝日が、神棚の七支刀を黄金色に染め上げた。次の瞬間、視界がぐにゃりと歪み、俺の意識は強烈な浮遊感に飲み込まれた。
***
強烈な熱が、肌を刺した。次に鼻腔を抜けたのは、乾いた砂の匂いと、クミンや焦げた蜜が混ざり合ったような甘い香り。目を開けると、そこは抜けるような碧い空の下だった。足元には、真っ白な石灰岩が敷き詰められた中庭。高い壁の向こうからは、遠くラクダの鈴の音が風に乗って聞こえてくる。
(嘘だろ……本当に、来ちまったのか?)
「――ちょっと、あなた。そこは立ち入り禁止よ」
背後から響いた鈴を転がすような声に、心臓が跳ねた。振り返ると、そこに彼女がいた。陽光を浴びて淡く輝く小麦色の肌。肩まで流れる金の髪は、砂漠の風に揺れている。薄絹のヴェール越しに覗くその顔立ちは、発掘されたあのミイラが、三千年の時を経て息を吹き返したかのように瑞々しい。瞳が合う。それは夜明け前の湖のように深く、底知れない孤独を湛えた碧眼。
「……あなた、東の方の人? それとも、陽炎が化けた迷い子かしら?」
「えっ、あ、いや……」
喉が張り付き、考古学者としての知識も語彙もどこかへ吹き飛んだ。目の前にいるのは、歴史の遺物ではない。熱い体温を持ち、今、この瞬間を生きている一人の女性だ。
「――喉が渇いているの?」
彼女が小首をかしげた、その時だった。混乱した俺の脳が、極限状態で絞り出したのは、およそこの時代に似つかわしくない、使い古されたナンパの台詞だった。
「へい……彼女! 俺とお茶、しない?」
……死にたい。今すぐこの白い石畳に穴を掘って埋まりたい。だが、彼女は一瞬驚いたように目を見開き――次の瞬間、花が綻ぶようにふっと笑った。
「ふふっ。おかしな人ね。いいわ、ついてきて」
***
王女、アルシアの案内で座った日陰のテラス。気づけば、俺の手にはそれが握られていた。結露で濡れたプラスチックのカップ。氷がカランと音を立てる、某コンビニのアイスカフェオレ。
(ヒヒイロカネの奴……なんて気が利く、いや、台無しな演出を!)
「これ、どうぞ」
差し出された謎の容器を、彼女は不思議そうに受け取った。
ストローを固定し、恐る恐る一口すする。
「――っ! なにこれ……冷たい。それに、すごく甘くて、やさしい……。こんな飲み物、西の果ての国にもないわ」
目を丸くして喜ぶ彼女の姿に、俺の緊張が少しだけ解けた。遠い未来のコンビニ飲料が、楼蘭の王女を笑顔にしている。考古学の常識が音を立てて崩れていくが、どうでもよかった。
「ありがとう。……こんな風に、誰かと気取らずに話せるなんて思わなかった。俺は、長屋総一郎。……遠い未来の、君がいた場所からはるか東から来た。ずっと、君に会いたいと思っていたんだ」
「未来? ……本当に変わった人ね, あなたは」
彼女は隣に腰を下ろし、語り始めた。交易を支える王家の重圧。砂漠の夜の静寂。いつかこの国を飲み込むかもしれない、動く砂の恐怖。彼女が紡ぐ言葉の一つひとつが、乾いた風に乗って俺の心に沁み込んでいく。この時間が、砂時計のようにいつか終わってしまうとしても。俺は今、間違いなく、歴史そのものよりも熱い生の隣にいた。




