第二十四話 古都の風、あるいは夏の終わりの頁
一週間後、夏休み最後の夜。朱色を塗り潰すような深い紺青が、平城京跡の広大な空を浸食していた。風はすでに秋の冷たさを孕み、枯れ始めた芝生の青臭い匂いを運んでくる。そこには、戦い抜いた俺たちの姿があった。アルシア、結月、明日香。そして、数多の死線をともに潜り抜けた三人の未来戦士。
俺の右手に収まったヒヒイロカネの七支刀は、闇と光を等しく呑み込み、掌を直に焼くような肉厚な振動を皮膚の奥の骨までじりじりと伝えてきている。それはもはや、この時代の人間が触れていい質量を超えていた。ふと隣を見ると、アルシアと目が合った。彼女の碧い瞳には、深い悲しみと、それを上回る強固な決意の光が灯っている。
「俺たちは勝った。……だが、代償が大きすぎたんだ。俺が闇一郎を目覚めさせてしまったせいで、この街も、多くの人の明日も狂ってしまった」
俺は七支刀の柄を強く握りしめ、震える声を絞り出した。喉の奥がカチカチに強張る。
「アルシアとも話したんだ。……今日、この力を使えるだけ使い切る。俺が、みんなが幸せになれる未来を、もう一度書き換えるんだ」
「……バカね。でも、あんたらしいわ」
ツバキが呆れたように小さく笑い、ブラウスの袖で目元を拭った。結月と明日香が、すがるような、けれど誇らしげな視線を俺に向ける。
「これは、俺にしかできない責任の取り方なんだ」
《うむ。お主の“願い”は、もう余計な力などなくとも届く場所にある。案ずるな》
脳内に響くヒヒイロカネの達観した声。俺は再び隣に立つアルシアの顔をじっと見つめた。彼女もまた、俺の目を真っ直ぐに見つめ返す。俺たちがこれからどうなるのか、胸の奥がキリキリと鳴った。だが、アルシアは優しく微笑んだ。その笑顔が、俺の網膜の底に強く焼き付く。次の瞬間、視界のすべてが白熱した光に呑み込まれた。
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――それから、数日後。俺は、何も変わらない元の日常の中にいた。六畳一間の安アパート。剥がれかけた茶色い壁紙と、ブーンと不快な唸りを上げる中古の冷蔵庫。相変わらずの非常勤講師と発掘現場のバイト暮らし。世界から、超能力の気配は完全に消え失せていた。
陽光が差し込む大学のキャンパスを歩いていた時のことだ。前方を歩く、見慣れた黒髪の背中が俺の網膜を捉えた。橿原結月。彼女は一人の男と親しげに手を繋いでいた。その相手は、かつての家庭教師だという「長岡総一郎」とかいう男だ。すれ違いざま、彼女の頬は健康的な朱色に染まり、隣の男を見上げて一片の曇りもない笑顔を咲かせていた。俺と目が合っても、そこには何の引っかかりもない。彼女はただ、等身大の愛を手に入れた見知らぬ少女として、俺の横を通り過ぎていった。
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またある日の夕暮れ、発掘調査の帰りに通りかかった武道場。竹刀が空を切る乾いた音と、激しい残心の気迫が外まで響いていた。道場の入り口で、汗を拭いながら一人の男に笑いかけている少女の姿があった。葛城明日香。彼女が見つめる先には、寡黙で穏やかな眼差しを持つ剣士――「長屋総二郎」がいた。彼女は爽やかな汗を拭い、彼に向けて、かつて俺には一度も見せなかった、屈託のない純粋な笑顔を咲かせていた。二人とも、もう俺のことは何も知らない。
三人の未来戦士たちの姿も、陽炎が消えるようにこの古都から失われていた。ただ、耳の奥で、風に混じって彼女たちの楽しげな笑い声が微かに響いた気がしただけだ。未来のどこか、争いのない空の下で、彼女たちは今度こそ騒がしい青春を謳歌しているのだろう。
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けれど、ヒヒイロカネだけは、俺の安アパートの神棚から去る瞬間に、その声を遺していった。
《我が力はこの星にはまだ早すぎるのかもな。誰かがまたその地を訪れるまで、大人しく眠るとしよう》
「どこで待つんだよ?」
《木星じゃ。……あそこの大赤斑の渦、眺めておると落ち着くんじゃよ。さらばだ、総一郎。次に出会うのがお主の子孫か、魂の続きか……楽しみにしとるわい》
夜空を見上げた瞬間、黄金の尾を引く一筋の閃光が、闇を真っ二つに割り、天空の彼方へと吸い込まれていくのが見えた。強烈なオゾンの匂いが、一瞬だけ部屋の網戸を抜けていった。
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俺の左手には、あの重厚な剣の感触も、世界を統べる力も残っていない。けれど、これでいい。窓を開けると、夜風が室内の湿った空気を追い越していった。結月も、明日香も、誰もが笑って、明日を疑わずに生きている。そのための対価が、俺がただの人間に戻り、一人だけすべての記憶を背負うことだというなら、これほど安い買い物はない。
ふと、冷たい夜風の中に、微かな香りが混ざった。それは、砂漠の熱砂を思わせる、けれどどこまでも清らかな、あの甘い蜜の匂い――アルシアの香りだった。
「……アルシア」
名前を呟いても、返事はない。ただ遠くの木々で、夏の終わりの蝉が、名残惜しそうに一度だけジィ、と鳴いた。俺は、静かになった安アパートの窓から、ただ独り青い空を見上げた。頬を撫でた風は、温かかった。




