第二十話 焦熱の修羅、蓮華の聖女
そこは、肉体と神経のすべてが引き絞られる閉鎖空間だった。ヒヒイロカネが構築した位相空間――時の因果すら捻じ曲げられたその訓練場には、たった一つの絶対のルールが存在する。──【死なずに八大地獄を生き延びろ】
「ぎゃあああああああああ!!」
視界が上下反転し、骨が砕ける重低音とともに、自分の肉片が四方へと飛び散る。脳の認知能力が破壊の速度に追いつかない。鼓膜を震わせる自分の絶叫が、どろりとした血の匂いが充満する“三途川虐殺地獄”の二丁目に虚しく響いた。
「……はは、死ねないんだよなぁ、ここ」
寸断される苦痛の直後、視界に走る激しい砂嵐。次の瞬間には、俺は五体満足で冷たい泥の上に転がっている。細胞が爆発的な速度で再構成される際の、頭蓋骨の裏側が粟立つような、悍ましい蠢き。死すら許されず、絶望の「無かったこと」を繰り返される。それこそがこの地獄の本質だ。
「うぉぉぉぉぉ……ヒヒイロカネぇぇぇぇ!! 労基に訴えてやるぞテメェ!!!」
《苦悶の果てに殻を破るのが、真の覚醒の道じゃ。頑張るのじゃ、総一郎よ……》
脳内に響く念話は、どこか楽しげに弾んでいる。業火に炙られて皮膚が炭化し、次の瞬間には氷獄の冷気で芯まで凍てつき、穿刺の針が神経を一本ずつ精密に抉っていく。これは肉体の鍛錬ではない。千切れては繋ぎ直される、精神の皮を一枚ずつ剥ぎ取るような修羅の業だ。
「ふざけんな……俺は、俺は……アイツらのいる世界を、守るんだよ……!」
泥を舐め、口内に広がる鉄錆の味を飲み込み、折れかけた心をアルシアの微笑みの残影だけで繋ぎ止める。俺はついに、最後の一門――“無間地獄”の重い鉄扉へと指をかけた。
***
一方その頃、アルシアは――。彼女は、底の抜けたような白い静謐の中にいた。淡い真珠光沢に輝く天蓋。足元には、微細な真珠の粉を敷き詰めたような、踏みしめるたびに温かな熱を返す床が広がっている。鼻腔をくすぐるのは、甘く清らかな蓮の花の香りと、気高く上質な茶葉の匂い。
「あなたには、慈愛の器があります。深く呼吸し、心の波を鎮めなさい」
微笑みかける菩薩の言葉が、清らかな水滴のように、彼女の耳の奥へと染み渡っていく。課される試練は、静かな問いかけだった。
――憎しみを向けられても、微笑みを返せるか。
――見返りのない愛を、永遠に信じ続けられるか。
アルシアはその一つひとつを、胸の前で手を合わせ、祈るように受け止めていった。
「アルシアは……成長が早いねぇ」
「もはや観音の慈悲を宿しておるよ」
「これぞ、未来を照らす光の器……」
「いいえ、私はまだまだ未熟です。……でも、総一郎の隣で胸を張るために、私は強くなりたいのです」
彼女の碧い瞳に宿ったのは、地上にいた頃の頼りなさではなく、迷いを断ち切った静かな覚醒のきらめきだった。 ――と、その時。黄金の風が吹き抜け、空間が微かに波打った。
(今……総一郎の声が、聞こえた……?)
それは、地を這うような野太い悲鳴の残響だった。
「……っ! 総一郎もきっと、この温かな場所のどこかで頑張っているんだわ!」
彼女は小さな両手を強く握りしめ、さらなる高みへと意識を向けた。
***
「ギブ! ギブアップだぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
泥と血にまみれ、俺は絶賛魂の叫びを更新中だった。
《修行にギブはないのじゃ。ほれ、次は“血の池”と“刀山”の複合アスレチックじゃぞ》
長かった。そして、あまりにも理不尽だった。地獄の獄卒に肉を抉られ、巨大な石臼で骨ごと挽き潰され、目が覚めたらまた焼ける。だが、その暗闇の果てで――俺の中の限界という名の壁が、音を立てて砕け散った。
「うおおおおおおおッ! 俺はあああああああッ!!」
身体の奥底から、青白いプラズマのような衝撃波が噴き出し、位相空間を細かく震わせる。超能力、完全覚醒。その直後、荒い呼吸を繰り返す俺の背後に、涼やかな鈴の音のような声が響いた。
「……総一郎、遅かったですね」
振り返ると、そこには淡い光を纏い、神々しいまでの美しさを湛えたアルシアが立っていた。
「え……まさか、もう修行が完成してたのか?」
「はい。天界で、如来さまや菩薩さまたちにお茶をいただきながら。とても丁寧に、優しく教えてくださって……」
……なんだそのホワイトな修行環境。俺の八大地獄との格差が、残酷な現代社会の極致すぎて目眩がする。
「ヒヒイロカネ先生……この扱い、あまりに酷すぎませんか?」
《ふむ? わしのアルシア推しに今さら文句か? お主には泥臭い根性が似合う……適材適所じゃ》
「贔屓じゃねーか!! スパルタの次元が違うわ!!」
「ふふっ。でも、総一郎も強くなったのがわかります。……これで、一緒に戦えますね」
泥にまみれた俺の手を、彼女の白く透き通った手が包み込む。鉄錆の匂いが、天界の香木の香りに洗われていく。俺たちは今、同じ戦場に立つための、新しい現実を手に入れた。




