第十九話 影の器と、深夜のファミレスの誓い
六畳一間の安アパート。神棚の奥で揺らめく、淡い燐光。ヒヒイロカネの放つその光は、今夜に限っては冷房の効きすぎた室内の湿気の中で、青白く、鋭く尖って見えた。
「先生……あれは、本当に俺のコピーなのか?」
俺の問いに、部屋の空気が一瞬で重く澱む。換気扇の油の切れた回転音さえも、頭の上のほうを滑っていく。
《……正確にはコピーではない。あれは、もう一人のおぬしじゃ》
脳の髄に直接響く声には、いつもの暢気さの欠片も混じっていなかった。
《並行世界に存在していた、別の長屋総一郎。……同じ名を持ちながら、おぬしとは違う枝を歩み、違う破滅を選んだ男だ》
「まさか……」
喉の奥が、乾いた砂でも詰まったかのようにカチカチに強張る。
《その男は、わが半身――蛇行剣に魂を売った。超越する力を、制約も犠牲も厭わずに。……そのあまりに昏い渇望が、蛇行剣を揺り動かしたのだ》
「じゃあ……あいつは、本当に俺なのか」
「違う。だが、同じだ。……あやつは、アルシアを欲した。おぬしと同じようにな。だが、方法を誤った」
ヒヒイロカネの光が、重苦しく暗緑色に翳った。
《楼蘭の美女のミイラから、肉体だけを無理やり蘇らせたのだ。ゆえに、あやつの傍らにあるアルシアには魂がない。……ただの、美しく動く人形だ》
指先の体温が、すっと引いていくのが分かった。自分と同じ顔をした男が、魂のない抜け殻の肉体を愛でている光景。その不気味な執着の残影が、胃の奥をギリリとえぐった。あいつは、この世界の、本物のアルシアを奪うために、俺というオリジナルを消去しに来る。闇が光を飲み込み、並行世界すらも束ねる大ハーンとして君臨するために。
***
「……生きて戻れただけで、奇跡なのかもしれないわね」
ツバキの呟きが、深夜のファミレスの澱んだ空気を切り裂いた。客の途絶えた店内には、ドリンクバーの機械が立てる低い唸り音と、加湿器の微かな湿り気だけが漂っている。プラスチックのトレイの上で、氷がパキリと乾いた音を立てて爆ぜた。
俺、アルシア、そして未来戦士たちの飲み物は、テーブルに置かれたまま誰も手を付けないうちに温くなり、氷を溶かして薄まっている。敵は、闇一郎。俺と同じ顔を持ち、俺が切り捨てた覇道を選び抜いた怪物。能力を底上げされたアルシア。絶対防御を操る結月。物理破壊の権化となった明日香。さらに、重力を無視して空を駆ける埴輪兵の軍勢。
「……正直言って、今のままじゃ勝ち目はない」
吐き出した自分の声が、小刻みに震えているのが分かった。奥歯がカチカチと鳴る。だが、認めなければ足元さえ定まらない。
「でもな、だからって、諦めるつもりもないんだ」
隣に座るアルシアの、小さくて温かな掌を握りしめる。指先からじわりと伝わる、彼女のトクトクという小さな脈拍、肌の柔らかさ。それは、あいつが持っている人形には決して宿らない、この世界だけの輝きだ。
「俺が変わる。力に溺れるんじゃなく、自分の意志で、あいつの前に立ってやる」
「総一郎……」
アルシアの碧い瞳が、真っ直ぐに俺の網膜を射抜いた。その強い視線が、縮こまりそうだった俺の背筋を強引に叩き伸ばした。
「……そうね。変わるしかないわ。戦えるようになるしか」
ツバキが、目の前のアイスティーのグラスを強く握りしめた。彼女の指の隙間から、結露の雫が床へ滴る。
「あんたが目覚めるなら、私たちはその支えになる。全力でね」
「外、早くしないと世界中が闇一郎の下僕になっちゃうんだけど~!」
クリスの情けない鼻声が、逆に場の緊張を僅かにほぐした。
***
「よっしゃあああああっ!!」
湿った空気を、俺の怒号がぶち破った。
「お前ら、全員ついてこい! 闇一郎だろうが三姫だろうが、まとめて俺が面倒見てやる!」
ガタン! とテーブルを叩いて立ち上がると、プラスチックのコップが跳ねた。未来戦士たちが一瞬、目を丸くして硬直する。やがてツバキが、呆れたように細めた目元に、確かな信頼の光を宿してニヤリと笑った。
「……ようやく腹が決まったみたいね、ニューリーダーさん」
「総一郎……かっこいいわ」
アルシアが俺の右手を両手で包み込んできた。上気した彼女の横顔が、不意に視界を掠める。俺は、その勢いのまま伝票を引っこ抜き、レジへと向かった。未来を救う男の背中を見せてやる。……だが、レジの液晶が表示した四桁の数字を見た瞬間、首筋の汗がスッと冷たくなった。
「え、……マジで? 財布の中身、足りない……?」
俺は滑らかな動作でくるりと反転し、ツバキの前で畳の上に額を擦りつけるような勢いで土下座をキメた。
「すまんツバキ! 金貸してくれ!!」
「……このニューリーダー、ホントに甲斐性ないわね……」
ツバキが大きな溜息とともに、使い込まれた黒い財布を取り出した。
「返せよ、利息つけて」
「任せろ、未来で倍にして返す!」
「利息なんていらないから、さっさと世界を救いなさいよ、バカ」
ファミレスの自動ドアを抜けると、夜の冷たい風が容赦なく頬を打った。情けないけれど、繋いだ手のひらの温もりの中に、俺たちの新しい現実は確かに息づいていた。




