第十六話 六畳一間の外交条約、あるいは次元のハブ
「……埒があきませんね」
アルシアが、膝の上で組んでいた指をほどき、静かに立ち上がった。その滑らかな一連の動作には、六畳一間の安アパートの空気を、一瞬で重厚な王宮のそれに変えてしまう絶対的な気品が宿っている。
「総一郎。この際です。お二人には『こちら側』へ来ていただきましょう」
「……全部、話すのか?」
俺は、ぬるくなった茶柱を凝視したまま聞き返した。彼女は答えず、ただ深淵を見通すような碧い瞳で静かに頷いた。未来の記録。大ハーン。(絶対支配者)世界を愛欲と戦火に叩き落とす傾城三姫の正体。俺たちは押し入れの奥、異空間の香煙が漂う“楼蘭の部屋”へ二人を招き入れた。オイルランプの灯が赤く揺れる中、俺は自分の身に起きている異常事態を、喉を焼くような思いで吐き出した。
「わ、わたしが……先生の、愛姫……?」
結月が、火照った頬を両手で包み込み、うっとりと視線を宙に泳がせた。その潤んだ瞳には、すでに俺との甘い未来図がはっきりと映り込んでいるようだった。
「戦姫……。名前が勇ましすぎて、その、可愛げに欠ける気が……。あの、恋姫とかに改名はできませんか?」
明日香は明日香で、制服の裾をもじもじと弄りながら、頓珍漢な交渉を始めていた。
「改名の問題じゃない! 未来が崩壊するって言ってるんだ、話を、話を聴け……!」
俺の絶叫が、楼蘭の厚い絨毯に吸い込まれて消える。
「大丈夫です! 先生が闇に堕ちるなんて、私、これっぽっちも思えませんもん。ねっ?」
「ええ。総一郎様はわたくしが守ります。明日、実家から柳生一族伝来の真剣を――」
「銃刀法違反になるからやめろと言ってるだろ!」
楽観の極致にいる二人に振り回され、俺の胃壁はギリリと軋んだ。
***
「――さて。二人とも、覚悟は決まりましたか?」
アルシアの声が、一転して首筋を冷たい針でなぞられるような冷気を帯びた。結月と明日香は、弾かれたように背筋を正し、同時に頷く。
「……はいっ」
「もちろんです。総一郎様のためならば」
アルシアはふぅと短く息を吐き、薄絹を払うような優雅な仕草で、残酷なまでの提案を告げた。
「これより、結月さんと明日香さん。お二人の自室と、このアパートを次元的に接続します」
「……接続?」
明日香が首を傾げる。
「お二人は、自室の扉からこの部屋へ。自由に行き来できるようになります。……ただし」
アルシアの瞳が、底冷えする紺碧へと色を変えた。
「総一郎さんは、このアパートから外へは一切アクセス不可とします」
「なっ……!」
「アタックは禁止。お二人がここに来るのは自由ですが、総一郎さんから動くことは許しません。彼はあくまで、我々の保護下にあるのです」
外交戦を制する女王の宣告に、二人は唇を噛んで黙り込んだ。
「 そしてもう一つ。この中立空間での不純なスキンシップは、一切を禁止します。これは彼の精神衛生を保護するための条約です。……よろしいですね?」
結月と明日香は、頬を硬く強張らせながらも、アルシアの放つ圧倒的な正妻の圧に抗えず、しぶしぶと頭を下げた。
『……ようやく戦線が整ったのう。さあ、総一郎。ここからが真の地獄ぞ』
神棚からの無責任な念話が、俺の死刑宣告のように鼓膜を叩いた。
***
次元工事が完了し、結月は風呂のドアから、明日香はトイレのドアから、それぞれの日常へと帰っていった。開いた風呂のドアの向こうにはピンク色のファンシーな女子大生の自室が、トイレのドアの向こうには畳敷きの武道場の光景が、それぞれ一瞬だけ網膜に映り、そして閉じた。見た目はただの木製のドアだが、その向こうには彼女たちの拠点が直結している。
「……終わった。俺のプライバシーも、平穏な生活も」
畳の上で体育座りをし、消えない疲労に溜息を吐き出していると、耳元に温かな吐息が触れた。
「総一郎」
アルシアが、足音もなく背後に膝をつき、耳打ちしてきた。金髪から香る、焦げた蜜の匂いが鼻腔をくすぐる。
「実はね……私の部屋にだけは、あなたが来られるようにしてあるの」
「……え?」
顔を上げると、彼女はにこりと笑った。可憐で、けれどどこか獲物を絡め取ろうとする猛禽のきらめきを瞳の奥に宿して。
「でも。私が、来てほしい、と望んだ時だけ、ですよ?」
その言葉には、絶対に抗えない甘美な支配力が籠もっていた。喉の奥がカッと熱くなる。
「それに……あのお二人も、ここで管理下に置くのが最善です。覚醒の種を撒かせぬよう、私が監視しますから」
俺は、もはや頷くことしかできなかった。六畳一間の安アパート。ここは今や異世界のハブであり、俺はその中心にいつの間にか据えられてしまった。そして世界の安寧という重荷を背負わされたのだ、、ただの一般人なのに。(涙)




