第十五話 六畳一間の宣戦布告、あるいは三姫の包囲網
証拠不十分という、なんとも後味の悪い形での釈放。警察署の重い自動ドアを抜けると、排気ガスと湿ったアスファルトが混ざった、むせ返るような外気が肺の奥に流れ込んできた。ようやく自由の身だ。だが、手首に残った手錠の冷たく不快な名残が、平穏への復帰を拒むように皮膚にこびりついている。――その予感は、すぐに現実のものとなった。
「総一郎様っ!」
制服を脱ぎ捨て、涼しげなサックスブルーのブラウスと白のフレアスカートに身を包んだ明日香が、アスファルトを叩く軽快な足音とともに駆け寄ってきた。どこからどう見ても清楚な女子大生風だが、その一歩一歩の着地には、全日本制覇を成し遂げた剣士の筋肉の連動が、美しい均整を保って潜んでいる。
「お疲れさま、明日香ちゃん。……非番のところ、わざわざ出迎え?」
「いえっ! 実はわたくし、上層部から特殊任務を拝命いたしまして!」
明日香は誇らしげに薄い胸を張り、眩しいほどの笑顔を向けた。
「へえ、埴輪兵の追跡か何か?」
「いえ。総一郎様の、内偵および身辺監視任務ですっ!」
「…………は?」
喉の奥がカラカラに爆ぜるような焦燥が突き上げてくる。俺はいつの間に国家の監視対象になったんだ。
「公安も水面下で動いているそうですが、わたくしが専任ということで! これからは片時も離れず、どこへでもついていきます!」
「明日香ちゃん、それ、自分で言っちゃっていいのか? 秘匿任務だろう。普通はもっと、こう……物陰からこっそり……」
「別命があるまでは、総一郎様の隣がわたくしの職場です! しかも超過勤務手当まで出るんですよ。毎日一緒で、お給料まで貰えるなんて……夢のようです!」
俺は天を仰いだ。彼女がくるくると嬉しそうに回るたび、スカートの裾が夏の生ぬるい風を連れて広がった。
「……それ、公務じゃなくて完全に個人的なデート感覚だろっ!」
俺の叫びは、古都の青い空へと虚しく吸い込まれていった。
***
「……で。なんで俺は、駅のコインロッカー前にいるんだ」
俺は言われるがまま、明日香に連行されていた。彼女が鍵を差し込み、カチリと重厚な金属音を立てて扉を開ける。中から引き出されたのは、長期海外旅行にでも行くのかというサイズの、超巨大なスーツケースだ。
「うっわ、重っ……って、え?」
明日香はそれを軽々と、羽毛のクッションでも扱うような流れる動作で背負い直した。物理法則を無視したその細い腕の筋力に、改めて背筋が寒くなる。
「なあ、ちょっと待て。どこへ行く気だ、それを持って」
「総一郎様のお部屋です♪ 今日から、わたくしも、お邪魔させていただきます!」
「お邪魔ってレベルじゃないだろ! 尾行がいつから同居になったんだ。ストーカーの終着点か!」
「任務ですから♪」
ピシィッと背筋を伸ばして敬礼を決める明日香。その真っ直ぐな瞳には、微塵の曇りもない。
「……明日香ちゃん。お父さん……教授から、俺の今の状態については聞いてないのか?」
「状態? 何かお身体に不都合でも?」
きょとんとした顔。どうやら教授、娘には何も伝えていないらしい。自分の弟子が、謎の外国人美女と同棲中だなんて。この同居という名の内偵。首筋のあたりが、嫌な汗でじっとりと濡れていくのが分かった。
***
……静寂。正確には、肌を刺すような極低温の静寂が、俺の六畳一間に充満していた。あの聖母のように穏やかなアルシアが、口角を綺麗に上げたまま、目尻の皮膚を微かに痙攣させている。彼女の背後には、陽炎のように歪む空気の熱量が渦巻いていた。対する明日香は、部屋の主として佇むアルシアを視界に捉え、弾かれたように肩を強張らせている。
「えっ、あの、総一郎様……こちらの方は……?」
「ご挨拶がまだでしたね」
アルシアが、意を決めたように立ち上がった。その滑らかな所作一つひとつに、正妻としての絶対的な風格が宿る。
「私はアルシア・ロウラン。総一郎の、フィアンセです」
パキッ、と何かが割れる幻聴が脳裏に響いた。
「……フィ、フィアンセ……!?」
「はい。ですので、その大きな荷物、どうぞお持ち帰りくださいな」
完璧な笑顔。だが、言葉の端々からは、凍えるような冷気が這い出してくる。明日香の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「で、ですが! これは公務です! 上層部から正式に任命された任務ですので……この部屋から離れるわけには……っ!」
完全に職権を盾にする明日香。二人の視線が俺の身体の真上で交差し、バチバチと火花を散らす。その緊迫した瞬間――。ピンポーン♪ 呼び鈴が鳴る。玄関のドアを開けると、そこには目元を真っ赤に腫らした結月が立っていた。
「お願いです、先生……! あたしも、混ぜてください!」
「混ざるなッ!!!」
俺の心からの絶刻も虚しく、三人の視線が狭い室内で激突し、六畳一間の空間が物理的に歪んだ気がした。
「……なあ、ヒヒイロカネ先生。これ、お前の仕業じゃないよな?」
『……濡れ衣だろ、総一郎。因果が勝手に収束しているだけじゃ』
神棚からの無責任な念話が、余計に胃の腑をキリキリと痛ませた。
***
小さな卓袱台。アルシアが淹れたはずのお茶は、なぜか普段より渋みが強く、湯気が針のように細く鋭く立ち上っている。そのお茶を配る動作一つひとつに、アルシアの“正妻のオーラ”が刻まれていた。
「ふふ……総一郎が朝起きて、最初に見るのはいつも私なんです」
「え~と、先生の昔からの素敵さを知っているのは、わたくしの方かと」
「総一郎のお弁当、私が作ってるんです」
「わたし、総一郎様のために夏のボーナス全部貯金しました!」
もはや茶会ではない。誇り高き女たちの、領土主張を懸けた戦場だ。
「先生となら、私、どんな貧乏でも大丈夫ですっ!」
結月の悲痛な叫びが、アパートの薄い壁に細かく振動する。奥歯の裏が、キリキリと酸っぱくなっていく。お茶は熱く、視線は鋭い。俺はただ、ぬるくなった茶柱を凝視しながら、自分の胃が溶けていく音を聞いていた。




