第九話 駿府の桜
兄・信長への思いも、頼朝の志も、深く心に刻むお市。
信長の恭順を見届け、家康の待つ駿府へ向かう。
だが、その心は、義経の漏らした一つの言葉から離れられずにいた。
……真の鬼。
残雪をまとった富士は、暖かくなり始めた春の日差しの中で、海を背にした駿府の街並を静かに見下ろしていた。
駿府城下の激戦から、すでに一年以上経過していた。
戦いで焼けた屋敷や町屋は建て替えられ、整然とした街並みの中には、新しい木の匂いが立ち上る。
人の往来も、立ち寄った近江、美濃と比べても遜色の無いほどに、賑わいを見せていた。
頼朝の思いが目の前の民の安寧につながっている――
そう思うように、自らを律しているのであろうか……
お市は目の前に広がる景色を目に入れながら、自らに問いかけていた。
「よう、戻られた、お市殿!」
駿府城の一室で、家康は手放しでお市の到着を歓んでいた。
お市の横には、どことなく雰囲気の似た、同世代と思われる女性が座っている。
「娘の、江でございます……」
お市は静かに語る。
同じ世代の女性が娘……家康の目は泳ぐ。
「先の世から太田牛一様とともに、今の世に参った江でございまする」
先ほどの歓びも冷めたように、家康は苦笑いをした。
「先の世で、秀忠の妃となった、江姫であるか……」
「家康様を良く知るもの……きっとお役に立てるかと存じます」
家康の困惑を楽しむかのように、お市は微笑みながら言葉を返した。
江も、あらためて頭を下げた。
「義父上、あらためてお世話になりまする」
義父と呼ばれ、ますます困惑する家康は、とっさに頭を下げた。
「こちらこそ……お願い申し上げる」
江も、家康の振る舞いを目にして微笑んでいた。
家康は思いついたように、江に質問をする。
「某は長生きできるのか……」
江は口に手をあててさらに微笑んだ。
「大往生でございますよ」
家康は子供の様に目を輝かせる。
お市も微笑みながら声をかける。
「それが家康様が一番気にされてることなのですね」
恥ずかしそうに頭に手を載せる家康に、江は一礼をして退出した。
家康はすぐに面持ちが沈み、あらためてお市に向き直った。
「信長公は……いかがであった」
「兄は、相変わらずでございました……」
「義経様に、臣従はされたのか」
「……はい。
散々義経様をあおりながらも、日ノ本一の不遜な家臣となりました……」
「その場が、目に浮かぶようじゃな」
信長を良く知るお市と家康は、目を合わせながら苦笑いをする。
「兄は、義経様のお苦しみを、見極めておりました」
家康は、俯くお市の言葉を待った。
「義経様の中の、”血なまぐさい鬼”がいると。
そして、兄こそがその鬼を支えるにふさわしい、そのように……」
「信長公らしい、あおりじゃ……」
お市の目線が、畳に沈んだ。
「兄は、良いのです……
心配なのは――
義経様ご自身が、兄に同調されていたこと……
義経様の中には”真の鬼”がいる、義経様ご自身が申されておりました」
家康は自らのあごに手を置き、目線だけを部屋の中に動かしていた。
腕組みをして口を開く。
「清廉な武人が、突然道無き政に身を投じたのだ。
頼朝殿の下では眠っていたかもしれぬが――心は過去の悲劇を忘れぬ……
頼朝殿が去り、政の闇に触れ、義経様が乱れても仕方なき事」
家康はゆっくりと立ち上がる。
再びあごに手を置きながら、部屋の中を歩き回った。
「頼朝殿は、義経様が心乱れることを承知で、”罪びと”の道を用意した……
だからこそ、”鎌倉の自分よりも酷い兄”と義経様に心で詫びながら逝かれた。
……そういう事であったか」
お市も家康の言に静かに頷く。
「だが、主が心乱れたままでは、足元が崩れるのは早い。
日ノ本の半分を治めるどころでは無くなる……
頼朝殿の股肱の家臣達は、変らず義経様に尽くしておられるのか」
「それが……今は梓様が必死に支えられております。
他の家臣達の足は、義経様から遠のいているように感じられます……
義経様も、家臣は頼朝様を慕っている、と申されました」
「わしが良く読んだ吾妻鑑では……義経様は孤独であった。
義経様のまわりのものは、みな裏切り、頼朝殿に従った……
昔の心の闇に、飲み込まれねば良いのじゃが」
家康はあらためて、お市の前に腰を落とした。
自らの決意を確かめるように、お市の手を握った。
「わしの心の揺れは、そなたも存じておろう。
今でも揺れておる……」
家康の手を握るお市の手が、わずかに汗ばんでいた。
「だが――頼朝殿の覚悟は胸に刻まれておる。
何より某は、義経殿を好いておる。
お支えする決意は変わらぬ」
お市の表情が和らいだ。
「家康様は必ずお支えされる、その様に義経様に申し上げました……」
「それで良い、お市殿」
お市は、もう片方の手を家康の手に添える。
「”おいち”と、お呼びください……」
駿府城下の賑やかな音が、ようやくお市の耳に入ってきた。
それでも、駿府の花鳥風月を楽しむ心持ちからは、遠いところにいた。
***
数日後、本多正信が駿府に戻った。
「正信、ご苦労であった」
「義経の裁可が下りました。
出陣のご準備を」
家康は正信の言葉に、僅かに顔が強張る。
「我らの主君であるぞ、義経”様”じゃ……」
「これは、気が付きませんでした」
表情を変えずに頭を下げる正信。
「一挙手一投足を計算する正信が、気が付かぬわけが無かろう……
まあ、良い。
二条城の仕儀はいかがであった」
正信は、ゆっくりと顔を上げた。
「奥方がお支えしておりましたが、義経様にはまだ道筋が見えておらぬ模様。
ただし、東国の乱れは、全て殿にお任せすると」
「そのように義経様が申されたか……」
「はっ、確かに」
家康はあらためて正信を見据えた。
「我が軍団は、義経様の期待を裏切らぬ働きをせねばならぬな。
そう思わぬか、正信」
「御意」
しばらく訝し気に正信を見つめていた。
「出陣の準備をいたせ。
忠次には養生せよと申し伝えよ」
「御意」
正信は頭を下げ、足早に退出した。
家康は、正信の背中が見えなくなるまで、追っていた。
しばらくして、家康は小声で呟く。
「いかがであった、半蔵……」
そう言いながら、家康は部屋の戸を閉じた。
音も無く服部半蔵が現れる。
「それが……忍びが斬られました」
家康は半蔵を睨みつけた。
「未熟なものを忍ばせたか……!」
「決してそのような」
半蔵は家康に平伏した。
家康はため息をついた。
「その忍びの骸はいかがした、半蔵」
「堂々と美濃の街道沿いに骸を捨てた模様。
すぐに人だかりとなり、我らの手のものも骸を隠せず……」
「忍びの骸はいかがした!」
声を抑えながらも、家康の声にさらに怒気が籠る。
「岐阜の義経様家臣に引き取られました」
「正信……わざと目立つところに捨てたか……
憶測を呼び、徳川への不信を持つものも出てこよう……」
半蔵は微動だにしない。
「半蔵……
我が家臣で、義経様に心服しないもの達から目を離すでない」
「かしこまりました……」
家康のため息は止まらない。
「甲斐の様子は」
「詳細はわかりませぬ。
ただ、武田信豊、穴山梅雪、山縣昌景と、正信の手のものが頻繁に行き来があることだけは確か」
家康は腕組みをし、眉間にしわを寄せた。
「……何をしようとしておるのだ……
我らと武田を戦わせようとしておるのか……」
半蔵から返事は無かった。
まだ情報をつかめていない証拠でもあった。
準備を整えていた徳川軍は、時を置かずに駿府から出陣をした。
家康自らが率いた総勢二万の軍勢が、満開の桜の中を箱根に向けて進んだ。
お読みいただきありがとうございました。
急速に広がった頼朝軍団は、地盤を固める間もなく、義経へと引き継がれました。
その脆弱な軍団を、支えようとするもの。
乱れに乗じて、暗躍しようとするもの……
そして何より、義経自身の歪みが、日に日に大きくなっていきます。
頼朝は、全てを見越していたのか。
それとも、託すことしか、できなかったのか。
この後の展開も、お付き合いいただけたら幸いです。




