第七話 予兆
頼朝が残したもの――
道筋が見えぬまま、国が乱れる兆しに義経の心は揺れ動く。
”茶番”
その言葉が義経の中から湧き上がる……
何かが堰を切ったように、義経の胸を突き上げている。
なぜか、可笑しくてたまらない。
「兄上が亡くなり、一年も経たぬうちに……」
義経の言葉使いに、梓は異変を感じとっていた。
「織田を滅ぼしたのが誤りだったか……
それとも、兄上という重石が無くなったからか……!」
捨て台詞のような言葉とともに、義経が笑い出す。
苦笑いなのか、自らへの嘲笑なのか、自分でもわからなかった。
「義経様……」
梓が呆然と義経の様子を目で追うことしかできなかった。
そして義経の笑いが、ピタッと止んだ。
「信長の言うとおりだ。
兄上の土産とは凄まじきものよ……
この世を業火で焼き尽くし、兄上とともに地獄で業火に焼かれる。
いや……
兄上は鬼では無い……
ゆえに――
わしが全てを背負うが良かろう!」
また義経が笑い出した。
“茶番”
その言葉が、なぜかしっくりと心に落ちた。
「義経様……いかがされましたか……!」
梓が義経を抱き抱えた。
梓は言葉無く、ただ涙を流し、義経を抱き止めている。
その梓の姿を目にして、義経は呼吸を整えた。
「……戯言じゃ……
戯言を申しただけじゃ、梓」
大田牛一も、俯いたまま言葉を出せずにいた。
義経は、牛一にも顔を向けた。
「……取り乱した、許せ」
牛一は額を畳につけた。
「ここは……何とぞ、ご辛抱を……」
義経の手を握り返した梓は、その手がまだ細かく震えていることに気づいた。
夫の手が、こんなにも震えるのを、梓は初めて知った。
梓は義経の震えだけを、ただ握り続けていた。
「……脆弱であった」
正信は茶を啜りながら隣の男に囁いた。
琵琶湖の湖畔の茶屋にて、正信は一行を休ませていた。
茶屋でたまたま居合わせたかのように、隣の男はみすぼらしい町人の姿をしている。
正信に見向きもせず、団子を頬張っている。
「難しきはこの先の舵取り。
だが――その器、では無い」
顔を前に向けたまま茶を口にし、正信は微かな声を発している。
「武田の姫の支えなくば、義経は立ち行かぬであろう……」
隣の男が立ち上がり、勘定のために茶室の中に入った。
茶室を出るすれ違いざまに、正信に静かに言葉を発した。
「では、正信様……手筈通りに」
その男は立ち去った。
その時――正信は、肌を撫でる微かな視線を感じた。
声は届かない。
だが、口の動きを追う目があった。
(読唇術か……)
正信は茶を置き、従者たちへ何気なく目を流す。
一人、刀の手入れに余念のない男がいた。
正信の視線が触れた刹那、その男はふと目を背けた。
――ただ、それだけのこと。
だが、正信は静かに茶を置いた。
その頃、大内義興は京に向け馬を飛ばしていた。
岐阜に差し掛かったところで、東に急ぐ数騎の騎馬とすれ違った。
先頭は、細い眼差しから鋭い眼光を向ける男であった。
義興がしばらく馬を進めると、人だかりが街道を塞いでいた。
仕方なく馬を降り、人だかりを抜ける。
しばらく進むと、人だかりの中に鮮血が生々しい骸が転がっていた。
岐阜の地は長年頼朝軍の本拠地。
義経や武田梓が二条城に拠点を移してからも、頼朝以来の家臣たちがこの一帯を良く統治し、治安も良かった。
馬を止めおき、大内義興は骸に近づく。
「これは、徳川の兵か……」
しかし、屈み込んで骸の装束に目をやると、義興の眉が寄った。
胴に巻かれた帯の下、わずかに覗く黒の襟。
野伏せりや足軽の身なりではない。
「……忍び、か?」
呟きが口から漏れる。
先ほどすれ違った騎馬の、あの細い眼差しが脳裏をよぎった。
そこに、岐阜城代副将・犬田小文吾が兵を引き連れて、人だかりをかき分けてきた。
「これは義興殿!」
大柄な小文吾が、義興を見かけて人を跳ね飛ばすかのような勢いで近づいてきた。
「偶然通りかかってな……」
義興は小文吾に返事をしながら、骸の装束を指さした。
温厚そうな小文吾の表情が一変する。
「……これは、調べてみる必要がありそうですな」
「今や我が領内には、多くの民が流れ込んできている。
間者も増えるであろうが」
「そうですな。
念には念を入れて、調べてみましょう……」
医師が念のため脈を確認し、傷を調べ、鍼を刺して毒の有無を調べる。
「手練れの仕業かと……
急所を一撃でしとめておりまする」
「わかった」
医師の一報を耳にして、小文吾は兵たちに骸を運ぶように指示をした。
「ところで、小文吾殿。
トモミク殿はいかがしておる」
小文吾は顔をしかめ、静かに首を振った。
「……さようか。
先代の頼朝殿がお亡くなりになった時の取り乱しようは、今でも覚えておる」
義興は、城下から稲葉山にそびえる岐阜城を見上げた。
「しかし――いつまでも悲しんでもいられぬ。
大国は内から崩れるからの。
岐阜の街に忍びの死体が転がっているのは、そなたらの怠慢でもある」
義興は小文吾を厳しく見据えた。
「大変なのは、これからぞ……」
「は、はっ!」
小文吾は慌てて跪いた。
だが義興はすぐに顔を緩めた。
「じゃがな、このわしもしばらくは生きる屍であった……
短い間に、二度も頼朝殿の死に顔を見なければならぬとはの……」
「誠に……」
小文吾も俯きながら、義興の言に頷いた。
「しかし、小文吾、だからこそじゃ」
小文吾は義興の意図を測りかねたように首を傾ける。
「……義経様を、お支えせねば。
トモミク殿にも、伝えてもらえぬか」
「誠に、仰せの通りでござる……!
トモミク様にも、しかと!」
小文吾は義興に一礼し、配下の兵達と稲葉山の山道に隊列を進めた。
義興はそのまま、馬に戻り、鞭打った。
(国が強くならば、内から綻ぶのは必定……)
義興の手綱を握る手に力が入った。
(同じ過ちは繰り返さぬ……!)
手綱を絞る指に、自然と力がこもる。
応えるように馬は脚を速め、たてがみが風に流れた。
腰に巻いた巾着には、大田牛一からの書状が丁寧に畳まれていた。
街道の桜の蕾が、瞬く間に背後へ流れ去ってゆく。
お読みいただきありがとうございました。
平和のための支配。
その難題を抱えたまま、覇権を狙う武家たちが虎視眈々と動き出しました。
必然なのか、自らの力が及ばぬからなのか。
それとも――
兄が遺した宿命なのか……
その義経の心の揺れを、冷静に見極めた男がいる。
彼は、何を仕掛けているのか。
何のために……
この後の展開も是非お付き合いくださいませ。




